2015年02月03日

命の線引き

この日は朝から、なじみの場所へ、子供たちと一緒に、鳥たちを見に行っていました。
いつも絶妙のタイミングで姿を見せてくれるサービス精神旺盛な子や、滅多に訪れることのない珍客の登場に、心躍らせながら、充実した時を過ごしました。
姿と声、滑らかな動きで魅了してくれた鳥たちに、「写真たくさん撮れたよ」とはにかみながらカメラを見せてくれた子供たちに、同じ現実の世界で起こっている数々の血生臭い出来事を、忘れさせてもらいました。
ほんの一時だけ。

出かける前にニュースをチェックしなかったのは、不安があったから・・ではなく、最近能力に疑問符が付くことが多いといっても、天下御免の日本政府が人質1人を殺されたうえに、二人目まで見殺しにするほどの大失態を犯すはずはないと、信じていた部分があったからです。
国民がこの国の舵取りを委ねた、最も優秀なはずの人たちが、そこまで無能なはずはありませんから。
結果、見事に裏切られました。
日本政府が無能だったから、愚鈍だったから──だとすれば、当然その責任を負わせるべきでしょう──ではなく、《人の命は二の次》という価値観のもとで事態の処理に当たっていたからです。

人(ヒト、ないし、命という意味では等価の身近な存在)の死は、それが唐突に報された訃報であっても、人の心を著しくかき乱します。
ましてや、事件や事故に巻き込まれ、瀬戸際に立たされた人の命が、「助かってほしい」という祈りの声もむなしく、断たれてしまったとき、人は打ちのめされ、どん底に突き落とされ、多量のエネルギーを奪われます。
赤の他人だとしても。近しい人であればなおのこと。
それでも前を向いて生きていこうと、人は懸命にあがきます。
しかし、喪い、奪われたことの悲しみ、圧倒的な喪失感を埋め合わせるには、それを上回るだけの、圧倒的に大きく、強い心の支えが必要です。
残念ながら、今の社会では、喪った人たちに対する十分なサポートを提供する仕組みは出来ていません。世界中のどこでも。
十分な支えのない人に、「自分で立ち直れ」と強要したところで、意味はありません。できないものはできないのです。
そこで、人は、ぽっかり明いた心の穴を埋めるものが他に何かないか、探し求めます。前を向いて生きていくことをやめた人以外は。
そして、この21世紀にあっても、心の支えの代替品として最も普及しているのが、怒りであり、憎しみであり、復讐心に他なりません。
ISISはまさに、世界の警察を気取る大国とそのパートナーが引き起こした大義なき戦争≠ノよって、罪のない家族を奪われた大勢の人たちの怨嗟が具現化したバケモノです。
しかし、そこにいるのは間違いなくニンゲンです。私たちと変わりない。

後藤氏の遺族は、後藤氏自身の生き様に則り、憎しみに走るのではない、もう一つの道をはっきりと提示されました。
救出を願った世界中の多くの市民も、悲しみをともにしつつも、その願いを共有しているはずでしょう。
テロリストと同じ論理に乗っかり、大義≠命に優先することを、潔しとする人はしないでしょう。
「目には目を!」とばかり報復を誓ったり、憎悪の火を焚きつける人はいないでしょう。
それこそは、故人の遺志に反し、「テロリズムに屈すること」だからです。

逆にもし、人々の無力感・虚脱感を別の方向へと誘導し、戦争への扉をまた一つ押し開こうとする者がいるとすれば、テロに屈しないどころか、テロ組織をも利用するテロリスト以上のバケモノに違いありません。
バケモノであっても中身はしょせんヒトであり、そこまでエゴを肥大化させてしまった何らかの要因があるはずですが・・

最悪の結末を迎えてしまった以上、辛くはあっても、検証しなければなりません。
なぜ2人の命が失われてしまったのか。

安倍首相も菅官房長官も、二人の人質が殺害される前後で変わりなく、記者会見や国会答弁で一貫して使用し続けてきた言葉があります。

「リスクを恐れず」

彼らの言うリスク≠ニは何でしょうか?
彼らは決して具体的に述べようとはしませんが、文脈から考えれば、次のとおりにしか受け取れません。

   リスク = 湯川氏、後藤氏の命

すなわち、

   リスク = 国民1人や2人の命

語弊があるとおっしゃる? じゃあ、少し言い換えましょうか・・

   リスク = (自己責任のある)国民1人や2人の命

付け加えるなら、リスクという用語は将来生起し得る可能性≠フ文脈で使われますが、今回のそれは「時間内に要求に応じなければ殺害する」という大変シビアなものでした。
そして、人質の1人湯川氏は、要求に従わなかったペナルティとして殺害を実行するというテロリストの意思を明示する形で、実際に殺害されました。
つまり、特に後藤氏の場合は、日本側が引き延ばしのための交渉のテーブルにさえ着かなかったのであれば、ほぼ100%回避不能なリスクだったということです。
リスクという言葉を使うこと自体過ちといえるほど。
安倍首相らの言葉が意味するのは、ほぼ確定的に失われることになる国民もとい(自己責任のある)国民の尊い人命より、もっともっともーーーっと優先すべきことが国にはあるんだ──ということです。
国民もとい(自己責任のある)国民の1人2人の命が失われるというリスクを捨てて、択るべきベネフィット、実≠ェあるのだ──というのが、日本政府の立場というわけです。
その、二人の命を救わず、見捨てることによって得られるベネフィットとは、一体何なのでしょうか?

「人道支援」

日本はこれまで、中東をはじめ世界各国に人道支援を行ってきた実績があります。
軍事介入と一線を画す人道支援に徹してきたこと(NGOの果たしてきた役割も含め)こそ、過去に海外の日本人がこうした人質のターゲットとならずに済んできた大きな理由であることは、各所で指摘されているとおり。

−イスラム国による日本人人質事件 今私たちができること、考えるべきこと
http://bylines.news.yahoo.co.jp/itokazuko/20150131-00042568/

3人の人質を無事解放できた事件と、それがかなわなかった事件。
何がその差を決定付けたのでしょうか。
2つの事例を対比し、検証することで、「命を損ねない外交のノウハウ」を確立することは十分可能なはずです。
霞ヶ関の賢い賢いエリート外務官僚さんであればなおさら。

さらに、ISISと交渉で人質解放に成功しているフランスやスペインなどの国は、「(国民の命が失われる)リスクを恐れて人道支援をしない」国なのでしょうか?
難民受け入れの実績で日本の200倍以上あるフランスも、日本に比べりゃ人道を追及していないと恥じ入らなければならないのでしょうか?(下掲)

−難民認定者数6人 過去最低水準 〜1997年以来の一桁認定〜
http://www.refugee.or.jp/jar/release/2014/03/20-2000.shtml
−<解説> 問題の根源・日本の難民制度・難民政策
http://www.kt.rim.or.jp/~pinktri/afghan/japanrefugee.html

人道支援にはさまざまな形があります。
NGOや国連機関を通じた支援も、立派な人道支援に他なりません。
もちろん、日本には日本に向いた、日本のやり方もあるでしょう。
「安倍政権の人道支援」は、過去の日本の人道支援や、人質返還交渉に成功している他国による人道支援より、はるかに優れたもので、それ故に「(自己責任のある)国民の1人2人の命を犠牲にするだけの価値がある」というのでしょうか?
ひとつ、はっきりしているのは、テロリストを刺激しない、国民の人命が損なわれない人道支援のあり方を模索することなく、「国民1人2人の人命より優先されるべき人道支援≠ェあるのだ」という考えを、安倍政権が国民にはっきりと提示したということです。
では、その1人、2人の国民の命を顧みなくていい、安倍政権ならではの人道支援とは、どのようなものだったのでしょうか?
ちょっと過去の日本による人道支援≠フ事例を引っ張り出してみましょう。

−スーダン・ダルフール地域における人道支援に対する緊急無償資金協力について|外務省
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/18/rls_0622i.html
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/kaiken/gaisho/g_0606.html
−小泉総理によるアフリカ政策演説 アフリカ − 自助努力の発生地へ(仮訳)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/18/ekoi_0501.html

平和の定着について日本は、その過程において人間の安全保障が重要概念であることを強調してきており、この観点から、2月にここアディスアベバで発表したイニシアティブに加えて、ダルフールで続く深刻な人道状況へのAUの取り組みを引き続き支援していきます。アブジャで行われていた和平交渉の最終期限が48時間延長されました。全ての関係者が和平合意締結に向けて最大限の努力を払うことを期待しています。また、小型武器対策やテロ対策でも、アフリカ自身の取り組みを後押ししていく考えです。(引用)

ちょうど第一次安倍内閣前の小泉内閣時代の話(外相は麻生氏)。
金額は1億ドル(当時)。民族対立が発端となり「世界最悪の紛争危機」と謳われた同国の内戦では、ISISを彷彿とさせる深刻な人権侵害が報告されていたわけです。ついでにいえば、米対中ロの対立構造も持ち込まれていました。
しかし、外務省の説明も、「スーダンのダルフール地域における人道状況の改善のため」とあるのみ。
引用したのは、小泉元首相の2005年5月アフリカ訪問時のスピーチ。どうせ官僚が書いたんでしょうけど、「(中国が肩入れしている)政府系民兵組織と戦う周辺地域に1億ドル」なんて、勇ましい挑発の表現はもちろんありません。
官僚が用意した原稿に自分で余計な文言を付け加えないだけ、元首相はまだ賢かったといえそうですね・・

日本政府による人道支援が、「余計な一言」など一切加えることなく可能なのは、誰の目にも明らかです。

−安倍首相の中東訪問 ばら撒き850億円超の中身
http://hunter-investigate.jp/news/2015/01/28-abe.html

人道支援というと、私たち庶民はつい、NGOを通じた医療、福祉、教育分野を中心とする草の根の援助をイメージしがちです。
しかし、全体で25億ドルの規模に上る中東地域への今回の支援策の中で、ISISがかみついたのは2億ドル。
その名目は、私たち国民が思い描く人道支援≠ニはややニュアンスが異なっています。

「日本のISIL対策でのエジプトの国境管理能力強化のための50万ドルを含む、総額2億ドル規模の新規支援」

装備等を含むエジプトの軍・警察組織による監視体制の強化への支援という意味で受け止められるのは、ごく自然なことでしょう。これでは、純粋な人道目的なのか、軍事的要素が含まれているのか、私たち日本国民の目で見てさえ区別がつきません。

加えて、サウジ紙でも取り上げられたという、ゼネコン、銀行、商社、軍事関連企業のトップの面々を引き連れてのイスラエルに対するトップセールス

これが、日本企業の中東地域駐在員がテロ対象になることを避けるのに貢献してきた、これまでの日本の人道支援との、あるいは、人質をうまく取り戻した他の援助国との違い──安倍政権が謳う《(自己責任のある)国民1人、2人の命より重い人道支援》の中身ということになります。

複数の人質がいる非常にセンシティブな状況にあることを把握していたのであれば、「さまざまな状況を勘案したうえで」、あえて援助を実施するに当たって付ける必要がまったくない、「ISIL対策」という文言を省いたうえで、イラクで発生している難民救済とのみ謳うことは、十分可能だったはずです。
イスラエルに売り込みに行くのは、人質問題が解決してからでも遅くはなかったはずです。

それでは、これまでの、あるいはよその不十分な人道支援と同じで、安倍カラーが打ち出せない?
威勢のいい文句をぶち上げるのは、国民1人、2人の命より大事なことなのでしょうか?
ODA大綱を改定して軍事/非軍事の境界線を曖昧にし、軍事転用へのハードルも下げたうえで、イスラエルとのビジネスを急いで取り付けることが、国民1人、2人の命より優先すべきことだったのでしょうか?

そして、同じく安倍首相や菅官房長官がこの間連発していたのが「テロに屈しない」という言葉。政府を代表する立場のみならず、NHK、産経から朝日に至るまで、マスコミの論調もほぼ同じでしたが。

はたして、「テロに屈しない」とは、どういう意味でしょうか?
身代金や人質交換等の要求に単に応じないばかりか、交渉さえまともに行う努力を払わない形で、人質を殺させるという最悪の結果をもたらすことが、「テロに屈しない」ことを意味するのでしょうか?
人質解放に成功したフランスやスペイン、トルコなどの国はすでにテロに屈しており、一方、英米等人質を殺された国はテロに屈しておらず、日本はこれまでテロに屈していた国だったが、安倍政権のおかげで今回ようやく「テロに屈しない」国の仲間入りを果たせた、ということでしょうか?

今回、人質を見殺しにする形となった日本政府の対応によって、もたらされた重大な帰結は明らかです。
ISISは、「お前の国民はどこにいたとしても、殺されることになる。日本にとっての悪夢を始めよう」と宣言しました。もはや日本国民であるというだけで、私たちはテロリストから標的とみなされるようになってしまったのです。
すでに、国民の預かり知らないところで、日本は勝手にISISと戦う有志連合の一員に加えられてしまっています。


日本は軍事行動には参加していないが、米国務省のサイトに出ている対イスラム国「有志連合国」のリストに載っている(引用)

もっとも、安倍首相は今日(2日)の国会答弁で、今のところ°爆に参加せず、後方支援もしないと明言しています。
軍事行動に参加したわけでも、これから参加するわけでもないのに、空爆をしている有志と同列扱いされてしまったのです。
長年人道支援に徹することで、中東の人々に一定の理解を得ることに成功し(ビジネスが目的の面もあったとはいえ)、軍事援助が疑われる援助を自らに厳しく戒めてきた日本が、なぜ?

今回の中東訪問で安倍首相が虚栄を張ったから──という以外に考えられないでしょう。

もちろん、外務省は「米国に寄り添うことが日本にとって最大の国益になる」との信条のもと、イスラエルを支援する米国の立場に合わせるよう、少しずつ日本の外交方針を調整してきました。それは、沖縄からTPPまで、一連の対米交渉の経緯を見ても明らか。
しかし、用意周到な外務官僚が、今回のように情勢への配慮も抜きに、いきなり一気に3段も5段も階段を駆け上るような真似するでしょうか?

−安倍首相中東訪問 外務省は時期悪いと指摘も首相の反応は逆
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150126-00000007-pseven-soci

「総理は『フランスのテロ事件でイスラム国がクローズアップされている時に、ちょうど中東に行けるのだからオレはツイている』とうれしそうに語っていた。『世界が安倍を頼りにしているということじゃないか』ともいっていた」(引用)

脱官僚・霞ヶ関改革を掲げた民主党・鳩山政権のときは、内閣の首長として絶大な権力をふるう総理大臣を言葉巧みに説き伏せ、誘導し、あきらめさせるべく辣腕を振るったであろう官僚のトップたちといえど、居丈高なウルトラナショナリストの言いなりになり、手綱なり鈴を付けたがる者ももはや誰もいなくなった──というのが今の官邸の実情なのでしょう。

安倍首相と、彼におもねるマスコミや大企業の幹部たちにとって、「テロに屈しない」とは、いかなる手段を講じてでもテロを起こさせない、あらゆる抑制策を講じる、という意味ではありませんでした。
テロは予告どおり決行され、かけがえのない2人の命が失われました。日本政府は実質、指をくわえて眺める以上の働きをしなかったも同然でした。
現実的な合理主義者の観点から見ても、海外在住邦人、現地日本法人はもちろんのこと、すべての国民がテロに巻き込まれるリスクが突然跳ね上がったのです。
結果としては、米国と一蓮托生で軍事作戦に参加するといった、大きな政策転換が図られたわけではないにもかかわらず。
身代金を払うことで味をしめて邦人誘拐が繰り返される可能性については議論もありますが、誘拐から殺害、破壊の対象に切り替わることをプラスだと考える人間はいないでしょう。

−平成26年5月15日 安倍内閣総理大臣記者会見
http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2014/0515kaiken.html

  昨年11月、カンボジアの平和のため活動中に命を落とした中田厚仁さん、そして高田晴行警視の慰霊碑に手を合わせました。あの悲しい出来事から20年余りがたち、現在、アジアで、アフリカで、たくさんの若者たちがボランティアなどの形で地域の平和や発展のために活動をしています。この若者のように医療活動に従事をしている人たちもいますし、近くで協力してPKO活動をしている国連のPKO要員もいると思います。しかし、彼らが突然武装集団に襲われたとしても、この地域やこの国において活動している日本の自衛隊は彼らを救うことができません。一緒に平和構築のために汗を流している、自衛隊とともに汗を流している他国の部隊から救助してもらいたいと連絡を受けても、日本の自衛隊は彼らを見捨てるしかないのです。これが現実なのです。
  皆さんが、あるいは皆さんのお子さんやお孫さんたちがその場所にいるかもしれない。その命を守るべき責任を負っている私や日本政府は、本当に何もできないということでいいのでしょうか。内閣総理大臣である私は、いかなる事態にあっても、国民の命を守る責任があるはずです。そして、人々の幸せを願ってつくられた日本国憲法が、こうした事態にあって国民の命を守る責任を放棄せよと言っているとは私にはどうしても考えられません。(引用、強調筆者)

紛争地の現実を伝えるジャーナリストの仕事も、地域の平和のために立派に貢献する活動のはず。オバマ米大統領をはじめ、世界中からメッセージが寄せられたとおり。安倍首相にはそうした認識がないのでしょうか?
それとも、想定しなかった事態、ということでしょうか? 自分の声明がどのような結果を招くか、想像も出来ない人物なら、仕方ないことかもしれませんが・・。
2人を救えなかったのは、「集団的自衛権の名の下に、自衛隊を米軍とは独自に動かすことができなかったから」なのでしょうか? それが唯一の理由なのでしょうか?
自衛隊による作戦行動以外の解決法は、何一つ存在しなかったのでしょうか?

有志連合を束ねる米国と英国も、軍事作戦によるISISからの人質の奪還には成功していません。
過去に軍事的手法でそれに成功した事例といえば、1976年のイスラエル軍によるウガンダのエンテベ空港奇襲作戦くらい。40年近くも前の話で、それもイスラエル軍が空港の図面を持っていたなど特殊な条件が重なってのことで、突入部隊からも人質からも犠牲者が出ています。
旧フセイン政権の残党からなる軍事プロ集団から、今の自衛隊が隊員も人質も無傷なまま救出を敢行できるなどと考えているとすれば、「平和ボケ」「脳内お花畑」の謗りは免れないでしょう。
一方で、武力に頼らず人質解放に成功した事例はちゃんとあるのです。
過去の日本も含め、「『テロに屈しないぞ!』と表明することで保たれる国家の面子」よりも、人の命を優先する国では。

繰り返しになりますが、安倍政権は先例に倣って人質を救出する手段を模索しようとはしませんでした。
ただ、「自衛隊の海外派遣を認めさえすれば、人質は救われたんだ」とこじつけるばかりで。
人質を救出できないばかりか、犠牲者をさらに増やすだけの結果になる可能性の方がはるかに高いにもかかわらず。
「くだらないこと」にこだわるのをやめさえすれば、確実に助ける手立てはあったはずなのに。

国民の命を守る責任を負っているはずの安倍首相は、子供がその場所にいてまさに死の瀬戸際に立たされた母親の面会に応じることを拒みました。
エグザイルやモモクロに会って記念写真を撮る労は厭わなくても。
人権侵害という意味では等価のはずの北朝鮮拉致被害関係者への対応に比べても、その冷淡さには驚愕を覚える他ありません。

必要もない飾り文句を付け、拳を振り上げずにはいられない、よその国で起きた悲劇に対しても「ツイてる」とほくそ笑むことしかできない、尊い命が失われてさえ故人の遺志を無視して「許さない」「償わせてやる」と吠えることしかしない、国の舵取りを任せるに最も相応しくない人物を首相の座に就けてしまったのは、この国にとって最大の不幸ではないのでしょうか?

−−−

私たちは命のどこに線を引くべきでしょうか?
それは、捕鯨を中心に環境と動物の問題に関わり続けてきた身として、筆者にとっては避けて通れない命題でした。
それは、同じひとつの命でありながら、今の私たちの社会において、等しく扱われているとは決して言えない、ヒトの命の取扱に関しても同じです。
答えを押し付けるつもりはありません。
ただ、思うに、誰もがいま、自分の立ち位置を改めて確認する必要があるのではないでしょうか?

以下は、《命の線引き》の可視化の試みです。
senbiki1.png

安倍首相が大義=i人道支援の表明に際してわざわざ挑発の文句を入れたり、イスラエルと商談すること)を優先することで示した基準は、以下のとおり。

senbiki2.png


違うとおっしゃる? じゃあ、「リスク」とは、「テロに屈しない」とはどういうことなのか、国民にもっと具体的にわかりやすく説明してくださいよ、総理大臣殿。
いずれにしろ、日本が今回仲間入りを果たしたと世界中から見られている、英米等「テロに屈しない」と勇ましく吠える国々にとっては、赤と青を分ける命のラインは明瞭です。
国内でも、ネットでの反応を見る限りでは、同じ命に対する赤と青のダブスタをすんなり受け入れている人が相当数いるものと理解していいでしょう。
責任を感じ、幼子と妻を置いて、知人を助けられるわずかなチャンスに賭けようとした人に向かって、自決を迫るイカレた人たちと同調するネトウヨ層の存在が示すとおり。
自己責任論を突き詰めれば、きっと冬山に無理に挑んで吹雪に見舞われた登山者のためにヘリを飛ばしたり、台風の日に海に出た向こう見ずなサーファーを助けに船を出すのも、「税金がバカバカしいからやめろ」という話になっていくのでしょうね。
健康管理を怠った末の成人病も、保険制度に頼るなと。(むしろこっちは考え直すべきだという気もするけど・・)
今回自己責任だからという理由で2人を見捨てることをよしとする、平等なはずのヒトの命に対する二重基準と、どこが違うのか、正直筆者には理解できません・・
「より生かすほうへ」ではなく、「より殺すほうへ」と向かう社会。

一方、「大義」なんかより人質解放を優先する国は、こちらに近いでしょう。
英米でも日本でも、「人の命は人の命。自己責任≠ゥどうかなんて、そんなつまらないことで両者の間に線を引き、見殺しにするなんてありえない」と考える市民も、少なからずいるはずですが。

senbiki3.png

「テロに屈しない」国々による命の線引きは、彼らの空爆の巻き添えとなって命を奪われる罪のない住民をも、青い側に……「大義」の前では顧みるに値しないもの≠ニして扱われます。
そもそも、米国が仕掛けた大義なき戦争による空爆が、家族を奪われた人々のやり場のない怒り・憎しみを呼び、テロ組織をここまで増長させる結果を招いたというのに──

憎悪の拡大連鎖を回避する道筋を示してくれたのは、亡くなった後藤氏でした。
近しい人々が発信していることですが、紛争地に暮らす人々の日常──笑顔も、悲しみも、苦しみも、ありのままを伝えることがジャーナリストの使命だと考え、それが彼自身の活動につながっていたことが、著作や講演からも読み取れます。
醜悪さも、高潔さも、正負両方の側面を抱えたのが、ありのままのニンゲン。
そのうちの一方を切り取り、憎悪の連鎖をもたらした米国とそれを支持した日本の責任に一切触れることなく、検証することなく、間違いなくニンゲンから成るはずのテロ組織の非人間性ばかりに焦点を当て、「殺し返す」ことを正当化するのは、はたして彼の遺志を継ぐことだといえるのでしょうか?
かけがえのない人の死が、21世紀の大政翼賛会に利用されないよう、命の重み、そこに線を引くことの是非を、私たちは絶えず問い直し続ける必要があるのではないでしょうか──?

参考リンク:
−後藤健二さん「憎むは人の業にあらず...」 紛争地の人々に寄り添い続けた日々
http://www.huffingtonpost.jp/2015/01/31/goto-kenji-the-journalist_n_6587580.html
−日本人人質事件を引き起こしただけでなく救出に失敗した責任を取り安倍首相は辞任すべきだ
http://blogos.com/article/104753/
−日本人拘束 安倍首相のバラマキ中東歴訪が招いた最悪事態
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/156580

posted by カメクジラネコ at 04:22| Comment(2) | TrackBack(0) | クジラ以外

2014年10月20日

トンデモエセエフ漫画「テラフォーマーズ」──集英社は反中出版社でいいの?

◇トンデモエセエフ漫画「テラフォーマーズ」──集英社は反中出版社でいいの?

 筆者は年に数回、不定期に、主に漫画を中心にリサーチをしており、結果を下掲のDBにまとめています。

−捕鯨カルチャーDB|拙HP
http://www.kkneko.com/culturedb.htm

 反反捕鯨作品はケッチョンケッチョンにこき下ろしますし、逆であればヨイショします。
 解説中でも「口当たりはいいけど後に何も残らないジャンクフード」VS「心の成長を支える栄養価の高いスローフード」に準えましたが、大ヒットグルメ漫画の先例に倣って押し付けがましく露骨な表現を出版社が許容している前者に対し、後者はクジラの味方といってもやはり控えめで婉曲的な表現が多いんですよね。大衆への即効的な影響力の点で比較するなら、まさにジャンクフード対スローフードの如く、正面切っての戦いでは勝負になりません。まあ、だからこそDB化して批判検証する作業が必要だと考えたわけですが。
 皆さんも「この作品(の第何話、何ページ等)にこんな表現があった」といった情報がありましたら、ぜひお寄せくださいm(_ _)m
 で、今回の調査では特に収穫がなかったのですが・・その代わり、捕鯨問題とは無関係に、筆者が非常に強い不快感≠覚えたベストセラー漫画がありましたので、今回詳細にツッコんでみたいと思います。
 問題の作品はこれ↓

■テラフォーマーズ特設ページ - 週刊ヤングジャンプ公式サイト
http://youngjump.jp/terraformars/
■ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%BA

 2013年版『このマンガがすごい!』オトコ編で1位、『全国書店員が選んだおすすめコミック2013』で2位を獲得した。2014年2月18日にテレビアニメ&OVA化が発表された(引用〜Wiki)

 原作者:貴家悠氏、作画:橘賢一氏、 連載はヤングジャンプ(発行:集英社)。
 奇しくも、以前詳細に批判した「予告犯」と同じく集英社のジャンプ系列。
 別に筆者が頭から集英社なりジャンプ系列のすべての漫画作品を毛嫌いしているわけではないのですよ(汗) ご承知のとおり、週刊少年ジャンプは海外のファンも多い日本最多部数を誇る由緒ある漫画雑誌。また、このヤンジャン、ジャンプSQ、「予告犯」が掲載されたジャンプ改(今月で休刊)等、既存作家を活用してターゲットを絞り、ジャンプを卒業≠オた成年層向けスピンオフ誌を生み出してきたわけです。
 筆者自身、同誌輩出で好きな作家・作品も少なくありません。なんたって読みやすい、ハマりやすいですからね。それだけに、こどもたち、社会への影響力も絶大。
 アニメ化に合わせた広報でか、つい最近少年誌のジャンプ誌上でも同作品の短編が掲載されています。

 では、さっそくツッコミに入りましょう。最大の問題点については最後に。
 この作品、ジャンルは何でしょうか? 成年向バトル漫画として見るなら、ツッコむ余地はないです(ていうか、筆者は興味ないのでその方面の方々にお任せします・・)
 しかし、SF作品として見るなら、まさに粗だらけ。
 一言で言えば、まったくSFの体をなしていません。SFファンには読むに耐えない代物。
 確かに、SF風味のファンタジーというのもジャンルとしてはあり。ですが、この作品は劇画タッチで成年層を対象とした宇宙・(遠)未来・生物SFとして、多くの文字数を駆使してウンチクを披露しており、体裁だけはハードSFっぽさ≠売りにしているわけです。
 まず、作品を成り立たせる基本設定がダメダメ。

1.テラフォーミングについて
 テラフォーミングの順序≠ェ根本的に間違っています。
 最初に気温と気圧を上げ、ある程度放射線・紫外線をカット→植物を導入して酸素を供給→人間の住める環境へ、というのがセオリー。
 気温を上げ、地球の凍土に似た状態で地中に閉じ込められていると考えられる水と二酸化炭素を放出させ、温室効果を働かせるというのは、火星改造モノのSFでは常套的なアイディアですが、冬半球の極で凝結するので効率はよくないでしょうね。
 もし、アルベドを変えるのであれば、墨を撒いておしまいです。コストとリスクを考えても、それ以上余計なことする必要一切なし。 
 そこでゴキブリが出てくる余地はゼロです。ゼロ。
 まず、ゴキブリが黒っぽいのはなぜかといえば、主に夜行性で、林床など暗いところに適応したからです。
 仮に火星の環境に順応したとしても、昼間は岩場の陰に隠れるでしょ。
 それに、地球から黒く見えるほど火星表面を覆うまで増殖したら、どうなると思います?
 苔が食い尽くされます。共食い&餌不足。ゴキブリが死滅。おしまい。
 地球上でバイオマスでも個体数でも圧倒的に多い動物としてシロアリとアリが挙げられますが、仮にシロアリの体色が白じゃなく黒だったって、地球の気温を上げるのは無理だよね・・。
 第一、ゴキブリが太陽光を吸収したら、一体どうなると思います?
 ゴキブリが日光浴で温まれば、代謝が上がり、その生命活動に消費されます。
 日光浴だけで、代謝で消費しきれないほど体を温めるのは火星ではやっぱり無理でしょうが。そもそも先に濃い大気がない以上、赤外放射で熱奪われて終わりだよね。
 結局、地表の温度は上がりません。
 墨もしくは黒っぽい苔 >>>>>>>>>>>> ゴキブリ(その他の黒っぽい動物)
 ついでに、導入したというストロマトライトは苔ではなく、分類学上まったく別系統のシアノバクテリア(藍藻)。現生しているのは塩分の濃い浅瀬。たぶん「苔を改良」の方が現実的。
 いずれにしろ、ゴキブリを火星に送るのはまっっったく無意味。

2.ウィルス??
 地球で火星から持ち込んだウィルスが猛威をふるって人類の生存を脅かす、という設定なのですが・・
 その一方で、培養できない、「増殖しない」とか、とんでもない説明が(火星に行く理由付けのためだけど)。
 地球のウィルスとはかなり違う? 
 NO。それ、定義からしてまったくウィルスじゃないから。
 歯ブラシを靴だと言ってるのと一緒。
 増殖しない? じゃあ、感染しません。できません。
 増殖しないという性質を強調したいのであれば、多少まともなSF作家なら、「ウィルスとも細菌とも異なる未知の病原体」という言葉を用いますよ、最初から。
 SF考証の点では、「なんで1ヶ月もかけずに火星に救助艦が行けるんだ?」とか、他にもツッコミどころ満載ですが、宇宙工学の観点からの説明はほとんどすっ飛ばされていますし・・。

3.ニンゲン大昆虫設定
 ここにもきわめて重要な落ち度が。
 「昆虫の体長を人間大に引き伸ばしたら、諸々の身体能力も掛け算で向上するよね? だから、ゴキブリの瞬発力に人間が勝てるわきゃないっっ!」というのが、この作品の大前提。
 スケールに対し、筋力は2乗(筋繊維の断面積)、体重は3乗に比例します。
 物理の基本。
 もうひとつ。大きな仕事をするには燃料が要ります。それだけ大量の酸素を消費します。
 昆虫は気門から採り入れた酸素の拡散に頼っています(一部の種は一種の気嚢を持っているものも)。それで済むのは、サイズが小さいから。
 石炭紀に昆虫が巨大化できたのは、当時の酸素分圧が今よりかなり高かったため。
 細い外骨格の脚を、ほぼ水平に広げた体勢で、空気中で自重を支えることができるのも、やはり昆虫があのサイズだから、です。
 外骨格の構造自体が、スケールに合わせて重量がどんどん増え、それを動かすための筋肉量が必要になります。しかも筋肉が伸張するスペースも限定されてしまいます。
 ゴキブリがニンゲン大になったら? 胴体を持ち上げることさえ無理に決まってます。動くことも、酸素を十分取り入れることもできず、すぐにお陀仏だわな。
 力学的に最初っから無理すぎる設定。
 このゴキブリたちは肺と内骨格を供えている、ということなんでしょうが、それじゃちっとも面白みないよね・・。第一、ニンゲンとたいした差がなくなるってことですし。
 上記に絡んで補足。「最強動物対戦!」とくれば、確かにこどもたちの興味、読者の関心を引くでしょう。ライオンVSトラ、ホオジロザメVSシャチという感じで。この作品では、様々な動物(一部植物)の遺伝子を導入する特殊な改造手術を施されたニンゲンVSそれを真似たスーパーゴキブリという形で「異種♀i闘技」「最強生物決定戦」を模擬的に実現しており、おそらくそこがこの作品の見せ場、読者の人気につながっている、といえるのでしょう。
 しかし、中高生や大人の読者層にしてみれば、生物界の王者決定戦に当たって、いかに公平なリングを用意するか、またどのような条件だとどの種に有利かといった、細かいシチュエーションへのこだわりの程度が、作品の質に関わってくるはずです。
 その点、この作品は非っ常に中途半端で、意外性や、決着に関して読者がなるほどと頷ける要素に欠けているように感じます。
 一番大きいのは、上掲したように最初の前提がメチャクチャ非科学的だから、なんですが・・。

4.600年後の未来描写
 ここもSFとしては致命的な欠陥。
 舞台は西暦2600年代。SFで分類するなら遠未来モノに該当。
 通常の未来SF小説は、いかにその時代らしさを醸し出すかに工夫を凝らすもの。政治を含む社会の描写から、進歩した科学技術とその時間的な距離感、生活面のディティール、新しい文化や流行、人々の心理。そこがSFの魅力であり、ファンの大きな楽しみのひとつ。
 この作品にはその要素がまっったくといっていいほどありません。
 絵まで、地球上の場面では現代日本との差異が感じられないのです
 この作品は、最近の成年誌漫画ではごくありふれたものになっている、人があっさりと、スプラッタに、ボコボコ死にまくる作品です。
 で、「死んじゃった彼彼女にもこんな人生があったよ」と走馬灯的な、ありがちな回想シーンを挟み、読者の感情を揺さぶるという、そういうパターンがずーーっと繰り返されていきます。
 フィクションのワイドショー。死の娯楽的な消費。
 別にいいんですよ。所詮漫画ですし。筆者は嫌いですが。つまんないし。
 ただ、それらの心理描写、人間関係の描写に、遠未来観がおよそ感じられないのです。
 現代のトピックをうまく消化したうえで、きちんと未来の時代設定に合わせてうまくアレンジする工夫すらも見られないのです。
 地方から上京した青年の苦労話やら、難病の近親者やら(ぶっ飛んだ遺伝子操作技術をネタに使ってるのに!)、不慮の事件事故etc.etc. およそどの漫画にも転がっていそうなエピソード。
 そこを変えると読者(の多数)の感情移入が見込めないという判断はあるでしょう。
 しかし、SFとしては違和感バリバリ

5.ステレオタイプの善玉%米同盟VS悪玉£国
 そう・・ここがこの作品への批判の最大のポイント。
 SFとしていかにずさんで粗雑であろうと、別にかまいやしません。
 例えば、やはり大人気漫画の「進撃の巨人」。筆者には、都市の設定がとても持続的とは思えず、伏線も最初からモロバレな感じで、正直なんだかなあという感じでした。。この作品といろいろ似ている部分もありますが。
 しかし、「テラフォーマーズ」の設定には看過できない重大な問題点があります。
 国家間の交戦・殺し合いを描きながら、国の実名を使っているのです。その必要がまったくないはずの、宇宙・遠未来を舞台にしたフィクションで。
 ちょっと順を追って検証してみましょう。
 この作品では、2600年代の国際的な宇宙事業に参加している、地球を代表する6つの国として、米国・日本・ドイツ・ローマ連邦・ロシア・中国を挙げています。
 ローマ連邦って命名のセンスも首をかしげますが、4.の未来観を唯一打ち出しているのはこの国名くらいだったり・・。
 まず、2600年代、今から20数世代もの先の未来の話なのに、現代の国家というシステムがそのまんま生き残っているとの前提に立っているのが、SFとしてはひたすらザンネンという他ありません。
 もし、その時代まで国境や国家という化石じみたシステムに固執し続けているとすれば、人類はとっくに滅びてるでしょうな・・。
 ここで仮に、舞台設定をもーっと近づけて50年後くらいにしてみましょうか。
 この時期ならまだ、今とさほど変わらない国家のシステムは一応活きてるでしょう。けど、世界を代表する国を6つ挙げるとしたら、ランクインするのはどこだと思います?
 順当に考えれば、インド、インドネシア、ナイジェリア、ブラジルかアルゼンチン辺りが入ってるでしょうね。アフリカからもう1国くらいかな?
 日本の名がそこにあるわけないじゃないですか。
 地域格差、所得格差、不健全極まりない財政、人口構造・・国の将来を左右する課題にメスを入れられないどころか、女性が安心して子供を産める環境づくりなど、他の先進国が率先して行っている取り組みさえ見習おうとしない国が、一等国≠ナいられるはずがありません。
 一日本人としては、「日本? そんな国どこにあるの?」って世界の人々に言われようと、平和な国として存続できてさえいれば御の字だと思いますし、そうあるべきだと思いますが。
 それはさておき、さらに驚くべきなのは、6つの国家体制が600年後も旧態依然としているどころか、現代の同名の国らしさも人名くらいでしか感じられないことです。
 この作品中では、日本が人類の公益(?)を最優先する善良な国家として描かれ、米、ドイツ&ローマ連邦、ロシア、中国の順に覇権主義の度合が強まっています。
 日米はまるで親友・恋人のごとく緊密な、互いに価値観をがっちり共有する同盟国の間柄。キャラクターも主役級の数が日本人、次いで米国人で、読者の好感度を上げるように書かれています。テキサス親父じゃないけど、サムライ&女カウボーイのタッグみたいな。。
 一方、中国人の悪役の中には、人の命を何とも思わないロボットじみた軍人キャラも。
 紋切り型の善(日米)対、同じく紋切り型の悪(中国)。
 正直、のけ反りました。「予告犯」と同じで、善悪の相対化がほとんど出来ていません。中国側の将軍のキャラの立て方も、国と大義に尽くす軍人≠ヌまり。
 まるで昔の西部劇のよう。もっとひどい。ひたすら滑稽です。
 これ、国を実名にする必要、全っっっ然ないでしょ。
 あるいは、この先尖閣に引っ掛けるネタでも用意してるのかしら? まあ、600年経っても棚上げして仲直りの握手ができないようでは、どっちも国としてはそれ以前に滅びていておかしくないとは思うけど・・

 日本の漫画界の巨匠・手塚治虫の「火の鳥・未来編」には、核大国を髣髴とさせる描写があります。こどもの読者でも、これはあの合衆国だな、あの(旧)連邦だな、とすぐ思い当たることでしょう。
 誰かを傷つけることを企図するでも、読者が憎んだり嘲笑うよう仕向けているわけでもない、小気味よい風刺。
 実在する特定の国々に対する、フィクションでしかあり得ない定番的な悪≠フイメージを読者に押し付けんとする現代の若手作家の作品と、なんと対照的なことでしょう。
 中国人の方(在日の方を含む)にこの作品を読ませたら、相当数の方が強い不快感を覚えるでしょう。ロシア人、ドイツ人、イタリア人も。場合によってはアメリカ人も。逆のこと考えたら、誰だってわかるよね?
 集英社としては、メディアミックスの話は受けても、海外語翻訳版を発行する気はまさかないのでしょうね。
 しかし、このネット時代に、中国を含む海外の大勢の日本製サブカルファンの方の目に止まらない、情報が伝わらないはずはありません。
 口をへの字に曲げるくらいの反応かもしれませんが、悲しむ方、幻滅する方もきっと少なくないでしょう。
 さて、集英社殿及びその株主殿。このような表現を平気で使う作品に力≠入れるのは、貴社の文化ということでよろしいのですか?
 「この番組はフィクションであり、登場する人物、団体、場所、事件等は実在のものとは一切関係ありません」の一言で済みます? そういや、「登場する国家」は入ってないけど。。
 ひょっとして、「国内で保守色の非常に強い政権とその支持者に媚びていればいい、14億の中国市場など眼中にない」というお考えなのでしょうか?
 中国でも「ワンピース」は人気を博し、電子サイトとの提携なども進めているとのこと。PTAやら各種業界のクレームに対し異常なほど神経を配り「お灸を据える」という慣用句は、鍼灸師からクレームがきかねないから使っちゃダメ!)、厳し〜い自主規制を行っているんですよね・・。そんな行き過ぎに感じるほどの自主規制ができる貴社が、あからさまに相手国のイメージを貶める作品を梃子入れしていると知ったら、一党独裁国家が規制を敷くのを待つまでもなく、中国の消費者はそっぽを向くんじゃありませんか? それでいいんですか?

 今日の朝日新聞1面及び3面で、出版業界の将来をめぐるアンケート調査の結果が報じられています。主要大手10社のうちの7社、うち1社が漫画に強い集英社(他の6社はトップ面談、集英社のみ書面回答)。

■大手出版各社、電子書籍急伸に期待 「紙の25%に」(10/19,朝日)
http://www.asahi.com/articles/ASGBC5F2QGBCUCVL008.html

 最近では、国内最大のマンガ雑誌である「週刊少年ジャンプ」が電子化されるなど、作品が充実しつつある。(引用)

 これは電子化へのシフトの話で、「マンガ好調」と本当に言えるのかどうか、筆者は正直疑問に思います。ジャンルとしては、業績としては、今のところ「堅調」なのでしょうけれど。
 ここ最近、絵にしてもストーリーにしても、全体の水準が急激に落ちてきたのではないか──筆者にはどうもそうした印象が拭えません。
 それは、311直後の「変わらなくちゃいけない」「変われるかもしれない」というムードが崩れ、はけ口を隣国に向けながら、ないものを貪欲に欲し求める方向に政治が突っ走ってしまったのと期を一にするように、書き手の意思とも読み手の意思ともズレた、市場を強く意識したものに変質していった結果というふうに映るのです。読み手と書き手との緊張を孕んだ相互作用、切磋琢磨とはどこか異質な、市場≠ヨの同調。あたかも、庶民の意識と大きく乖離しているように感じられる、政権の安定を支えるためにマスコミが形成し誘導していく世論と同じような。
 あるいは、これまでの出版戦略の延長にすぎず、プロモーションの手法が新しいメディアに適合する形で成熟し、消費者の側も業界にとって非常に都合のよい勝手連的宣伝媒体に育ってくれたという、それだけのことなのかもしれません。
 筆者の杞憂に過ぎないのであれば、それに越したことはないのですが。
 皆さんはどう思われますか? ただ漠然と、世間がそう評価しているから・・というのでなく、その世界にのめり込める漫画って、昔より増えたと思いますか? 減ったと思いますか?

 従来から表明していることの繰り返しになりますが、筆者は表現規制には強く反対する立場です。
 ジャンプ誌上屈指の名作といえる「はだしのゲン」や、「アンネの日記」を図書館から排除するなんて、冗談じゃありません。
 たとえ「美味しんぼ」が陰謀論を唱えるだけの反反捕鯨漫画、放射脳漫画だろうと、それを理由に出版社が自主規制し、急遽連載を打ち切るなどということはあってはなりません。
 社会への影響については、筆者は一切ないとも、マイナス面だけとも、プラス面(ex.代償のもたらす犯罪の抑止効果)だけとも思いません。たぶん、両方合わせてプラマイゼロという感じでしょうけど。現実と空想の区別のつきにくい人にはマイナス面が強く作用し、そうでない人にはむしろプラス面の方が作用するでしょうから。
 しかし、現実社会の問題については、表現に責任を負いかぶせたりせずとも、現実のシステムで対応していけばいい話。やれることはいくらでもあるはず。ヘイトスピーチ(これは表現ではなく人種差別そのもの)に対して、他の先進国並に厳重に取締るといった具合に。
 そして、体制による言論・表現の自由の統制と、批判≠ニはまったく別。付け加えれば、自主規制≠煖K制とは似て非なるものですが。
 健全な批判なしに、健全な表現、健全なクリエーター、健全なサブカル市場は決して育たちません。
 駄作は駄作、問題作は問題作と、私たちは思ったとおりに、感じたとおりに、憚ることなく伝えるべきなのです。
 エログロナンセンス大いに結構。むしろちっとはないと、逆に社会は荒むでしょうし、ね・・。
 「テラフォーマーズ」「予告犯」の連載やコミックス販売をやめよなどというつもりは毛頭ありません。
 筆者個人がきわめて悪質な駄作だと感じ、「これはクソ漫画だ!」と吠えているだけですから。悪質さの程度で言えば、凶悪テロ行為を賛美しきった「予告犯」の方が「テラフォーマーズ」を上回りますが。
 反中漫画? 反日漫画? 「殺せ」「レイプしろ」といった一線を明確に越える差別表現・凶悪犯罪を扇動する表現を使わなければ、いいんじゃないですか。
 好きに書いてください。好きに発表してください。好きに売ってください。売りたいなら。
 ただ……《健全な批評精神の育っている社会》であるならば、ボロクソに叩かれて、そうした劣悪な漫画は市場≠ノ決して振り向かれないでしょう。
 きわめてニッチな需要はあるかもしれませんが・・商業的には成立しないでしょうね。
 そして、商売にならなくたって、表現の自由は守れます。
 しかし、「このマンガがすごい!」などと高く評価されたり、書店業界が絶賛し(ヘイト本礼賛POPなんてのもあったけど・・)、持てはやしたりするようであれば、話は別です。
 何故と言って、日本の社会が健全さを失い、ヤバイ域≠ノ達していることの表れだと受け取れるからです。

オマケ1 口直し・・
 ツイッターで話題になったエシカルンテ、絵柄が雰囲気にマッチしてとっても素敵。シマフクロウが凛々しくてよいのです。
 ひとつ個人的に残念なのは、「日本人はー」連呼原作付漫画と同じ雑誌に同居なのがなあ(--; 間口が広いといっても。。

オマケ2 ワンピース批判
 海外も含めた集英社一番の稼ぎ頭について。もちろん、チェックしてますよ。
 クジラ関係はカルチャーDBをご参照。
 例の韓国による日章旗批判は、確かにバカげた話。とはいえ、影響力が絶大なだけに、気になる表現があります。
 出てくる社会の体制があまりにも王政に偏りすぎてるんですよね。すでに言い古されてるだろうと思いますが。
 そのうえ、高潔な人格・人徳を備えた善き王とその血族による「善い専制主義」、見方によっては「共和制の仮面を被った専制主義」を讃えている側面を強く感じるのです。悪い専制君主も出てきますが、善良な王≠フ歯の浮くような美化のされ方と対照的な、非人間的な内面で共通してるし・・。
 現実の日本社会(+近隣の専制国家)の実態と照らし合わせたとき、それが一種のえぐみ≠ニなって舌に残る感じなのです・・。
 どちらにしたって、現実の世界においては、そんなものはメディアがこしらえた幻想にすぎないのですが。
 善人だろうと人徳者だろうと、悪人だろうと、ニンゲンの間に線を引くのはやっていいこっちゃありません。
 漫画の中の世界と同じく、現実の世界も過渡期にあり、人類の文明の歴史は未だ野蛮な時代を脱け出せていないという一語に尽きるわけですが。

参考:
−ダイマッコウ考/「予告犯」の正しい読み方|当ブログ過去記事
http://kkneko.sblo.jp/article/76286901.html
−集英社自主規制問題|拙ツイート
http://twilog.org/kamekujiraneko/date-140908
posted by カメクジラネコ at 00:25| Comment(2) | TrackBack(0) | クジラ以外

2013年06月16日

お願い・犬猫譲渡活動をされている皆さんへ・2

前回の記事
http://kkneko.sblo.jp/article/69449601.html



 キャパシティ・オーバーの活動は「単なる間引き」です。
 保健所への持込は一切やってはいけません。
 それは命を奪う行為です。
 全国で行われている殺処分の《数字を作り出す活動》です。
 
 この数字のうち少なからぬ割合が、善意≠フ人たちによって生み出されているとしたら、とてつもなく恐ろしいことです。
 一体いつからそんなやり方が広まってしまったのでしょうか?
 あなたたちの活動は、統計の数字に直接反映されてしまっています。

satusyobun.png

 上掲の図の意味を改めて示す必要はないと思いますが・・
 紫の部分は「スタイルの違い」に基づく差分です。あえて公平な視点で入れたものですが・・筆者はオーバーな活動の方が相当程度生かしている数も少ないと考えています。
 理由は2点。
 一つは、生かすために使われるワークロードの差。アンテナを張り巡らし、とにもかくにも確保するというカツドウに、そのためのエネルギーが割かれるからです。それは否定の余地がありません。
 もう一つ。期限を切って拙速に譲渡を進めようとすることで、里親詐欺に引っかかりやすくなります

あなたたちが保健所に持ち込むことによって、殺処分の数字が作られています。
それは100%明白な事実です。


 ニンゲンの監視下に置き、イカスモノとコロスモノとに振り分ける。まるで製品の仕分け作業のように。
 製造ラインに乗った以上は、きちんと選り分けるのだ──それはイノチの製造者としてのセキニン?

 猫はあなたが製造したものではありません。ニンゲンが製造したものではありません。

 そのうち、純粋な動物嫌いによる持込の数字と、「ゼンイの動物ズキ」の持込の数字が、逆転してしまわないでしょうか?
 このようにして、数字が桁違いに多い米国のようになってしまうのでしょうか? 殺処分法の切り替えも進まないまま、命を奪う数だけ米国を見習う形になってしまうのでしょうか? 
 なんと恐ろしいことでしょう。

 動物の味方は、生かす活動「だけ」をやってください。


※補足:

− キャパシティを弁えない《殺すお節介》とは、センター・保健所の譲渡情報を拡散する人たちではなく、「自分たちで期限を設定し、自分たちで保健所に引き取らせる人たち」です。
 個人のボランティアは、やるならぜひセンターへの協力に専念して、少しでも生存率を上げてください・・・

− 未成年の方が保護者等に「捨てろ」といわれている、といったケースの場合は、当然ながら懇切丁寧なサポートをしてあげてください。

posted by カメクジラネコ at 18:58| Comment(0) | TrackBack(0) | クジラ以外

2013年06月14日

お願い・犬猫譲渡活動をされている皆さんへ

 SNSを中心にした捨て犬猫の譲渡活動において、その一部が「いついつまで見つからなければ保健所に連れて行きます」と明示する形で行われていることについて。
 譲渡活動といってもピンキリですが、もし「保健所行も可」という形の活動が少数でないとすれば、きわめて残念なことです。

 従前から、保護した犬猫の一部を「殺す」「間引く」ことを容認する団体、活動はありました。それは、多数存在する動物愛護系市民団体・運動における大きな路線の違いの一つです。
 行政の殺処分施設に持ち込む、つまり一般の持込と結局変わらない場合もあれば、表立ってできることではありませんが、内々に安楽死処分というケースもあります。運動畑においでの方は、とっくにご承知のことだと思いますが。
 最近では、米国の大手動物愛護団体PETAが行っていた大量の自家殺処分に関する報道が、記憶に新しいところでしょう。
 多くの場合、理由はいたってシンプルで、要するにキャパシティ・オーバーということ。
 それは、多頭飼育崩壊に起因する保健所行とも、保護の帰結という意味では同一です。


 譲渡活動の主体が個人であり、頭数の実績がNPOに比較して少ないとしても、保健所行を一頭でも容認すれば、その時点で明らかなキャパシティ・オーバーです。
 背伸びのしすぎ。風呂敷の拡げすぎ。
 積極的に、主体的に「命を奪う」ことも前提に含め、許容する保護。
 はたしてそれで保護といえるのでしょうか?
 それは、行政機関である動物愛護センターが行っている「一部を譲渡し他を殺処分する業務」のアウトソーシングに他なりません。センター側の委託ではなく、自主的に行っているというだけで。
 命を選別し、生かすものと殺すものに振り分ける、殺処分の前段となる窓口業務を担っているだけです。


 個人は、拾う行為も含めて、「キャパシティの範囲」でやりましょう。
 「殺す」という一線は決して越えないでください。
 殺す作業自体は他人がやっても、その子の死を確定する行為は文字どおり「殺すこと」です。
 行政機関や団体に代わって、個人が命の選別作業に取り組む必要はありません。
 拾いきれなくても、保護しきれなくても、いいのです。
 もし拾う機会があったら、その子の飼い主が現れるまで、辛抱強く、忍耐強く、いつまでも待ち続けてください。
 どれほど時間がかかってもいいのです。時間がかかるのは責められることではありません。
 一頭拾ったら、最後の最後まで、その一頭を責任をもって生かしてください。
 「見つからなければこの子は保健所で殺される運命なのだ」などと最初から考えるのはやめましょう。
 「殺される運命」を考える必要はありません。
 里親が見つかり引き渡す日まで。
 最後まで、諦めずに。
 それは出来るはずです。
 そこまで「完結」させたうえで、「次」に移ってください。
 それが済んでから、「次」の子を捜してください。
 どうしてもできないというのなら、最初から拾わないでください。
 「保健所での殺処分という完結」はなしです。
 殺されるためにめぐり会ったのではないはずです。持ち込めば、その時点であなたは誤魔化しようもなく、「助けた人」ではなく「殺した人」になってしまいます。「殺されるための出会い」にすぎなかったことになってしまいます。
 いったん保護した子を、期限が来たからと保健所へ連れて行って殺すのだけは、どうかやめてください。
 生体販売された犬猫を「かわいそう」に思って金を払って「保護」したはいいけど、面倒を見切れず最後に保健所に連れて行く、その延長線上にすぎません。
 保健所に持ち込むのが、たとえ一時的に拾う「善人」だろうと、買って捨てる「悪人」だろうと、同じです。その子を殺している意味において、完全に同一です。数字がその違いを示すことはありません。
 殺すのは、「誰かに代わって責任を取る」ことを意味しません。永久にその責任を放棄することです。
 それは譲渡活動ではありません。《譲渡及び殺処分》活動です。
 生体販売に始まり、行政殺処分に至る一連のサイクルの中に完全に組み込まれている、殺処分の数字を生み出す流れの一部です。捨てる行為から殺処分に続くプロセスを仲介しているだけです。


 積極安楽殺団体も、多頭飼育崩壊も、根っこは同じです。
 あなたの、あるいは誰かの目にとまらない「不幸な猫」が一頭も存在しない、ニンゲンの管理下・監視下に置かれない猫が一頭たりとも存在しない世界(ユートピア)を目指す──そんなものはフィクションです。
 イキモノを、思い描いた計画に則り管理し、個体を取捨選別して生死を決定付け、繁殖を制御し、個体数をコントロールする。自身が絶対的存在になったかの如く。
 自身も生きものにすぎないニンゲンに、そんな真似はできません。絶対にできません。ニンゲンの管理でさえ。
 それは最初から幻想≠ナす。
 「不幸な猫を一頭もなくしてやる」と片っ端から拾い集めても、選別して一部を生かし、一部を殺す、その作業が延々と続くだけです。
 幸せかどうかは一概にはいえません。しかし、筆者の立場から言えば、ニンゲンにとって生死を決められるのは不幸です。ガス室に送られ殺されるのは、これ以上ないほど明らかな不幸です。


 「一部は殺してもしょうがないね」と言ってしまった時点で、現在行われている行政殺処分を容認する社会との差は、相対的なものでしかなくなってしまいます。
 私たちの社会では大量の犬猫が殺処分されています。
 だからといって、あなたが拾って保健所に持ち込む必要はありません。
 社会で畜産が行われ、肉食があったとしても、あなたが肉を食べなくてもいいのです。
 捕鯨が行われているからといって、あなたが鯨肉を食べなくてもいいのです。
 それと同じです。
 自分が生きていくために食べるものは、必要ないといっても個々人の選択に委ねるしかありませんが、「保護→殺処分」は自分のことではありません。
 それは「命を奪うお節介」です。


 命を奪う一線を越えれば、その事実は永久に消えません。
 それは自分の感覚を麻痺させることです。
 「動物(猫)は仕方なければ殺してもいいものなのだ」と、自分を納得させてしまうことです。
 殺すのに目をつぶるよりは、保護しきれないことに目をつぶってください。
 殺しに至る一連のシステムに、積極的に自分を組み込む必要は、ありません。
 確かに、私たちは全員納税者というだけで、動物を殺処分する社会に加担しています。だからといって、自分が「誰かに代わって命を保健所に送り込む作業を引き受ける」義理はありません。
 「動物を救いたい」という志を持っている人は、「できる範囲で」救うこと「だけ」してください。
 できないことまでやろうとして、結果として命を奪うのは、動物を助けることではありません。
 ベテランが自身のキャパシティを弁えず、常習的に保健所送りを許すのは、決して誉められることではありません。
 初めて拾った人であれば、責任を理解し、自分のキャパシティを認識してもらえば済む話です。
 キャパシティは、こなせる能力に応じて、余力に応じて拡大していってください。
 そのほうが、前を向けるはずです。


 どうかお願いです。
 「自分ができる範囲で」活動してください。
 「できる範囲」とは、「殺さないですむ範囲」のことです。
 自分のキャパシティを自覚してください。
 大小を他人と比較する必要はまったくありません。
 少なくとも個人は、殺すこと「まで」活動に含めてはいけません。
 行政機関や運動団体など組織の場合、個人の良心を欺くのが容易になるのでなおさら問題ともいえますが、少なくとも一人の人が他者の命を奪う罪を一生背負い続けることにはなりませんから。



 これは筆者個人の価値観に基づく、身勝手なお願いです。
 筆者にはお願いすることしかできません。
 社会的合意と法整備の段階を踏まない限り、誰であれ、他の誰かに対して、個人の活動を強制したり、やめさせることはできません。
 行政機関や企業の活動であれば、それなりのアプローチもありますが、個人に対しては呼びかけることしかできません。
 ことこの問題に関しては、捨てる犯罪行為に対し実効性のある取締が行われず、行政自らが殺処分を引き受けているのですし・・
 拾うのは善意の方で、負う責任が小さいのはまさにそのとおりですし・・
 耳を塞がれてしまったら、声さえも届きませんが。
 声が届かないのは、原発、沖縄、捕鯨、みんな同じですけど・・
 筆者は無力です。
 しかし、無力であっても、微微たるものであっても、「できる範囲」「殺さないで済む範囲」のことをします。
 できる範囲を越えることは、しません。
 当面はクジラとジュゴンとキツネになりますが。


◇◇◇


 動物(猫)の殺処分施設持込を受忍してしまう譲渡活動とその思想的背景は、動物福祉(AW:Animal Welfare)と動物の権利(AR:Animal Rights)の問題と根深く関わっています。


 A.ニンゲンによって確保されない状態は容認できないが、命を奪うことは受忍限度内
 B.命を奪うことは容認できないが、ニンゲンによって確保されない状態は受忍限度内


 この相違は小さいようで途方もなく大きなものです。
 関心のない人たちから見れば、動物愛護の内輪の揉め事で、毛ほどの差もあると思われないかもしれません。
 しかし、この二つは宗教の中におけるキリスト教と仏教ほどにも開きがあります。
 どちらの宗教も、ヒトの福利のためにあるものだとしても、根底の部分で相容れないのと同様に。こんな比喩を出すと、また誤解を受けるかもしれませんが・・。
 別の喩えを持ち出すなら、計画経済と自由経済と同じくらい対立する概念です。内容としてはむしろこっちの方が近いかもしれませんね。
 AWとARの違いについては、各所で解説されていますし、過去記事でも触れましたが、AWは「5つの自由」に代表される「福祉のみ」に配慮する立場。誤解がありますが、「殺せ」ではありません。「殺すか殺さないか不問」です。不問であるが故に、殺しが前提となっていても導入が容易な概念です。そこが利点という言い方もできるでしょう。「弱い動物愛護」という見方もあるようですが、それも誤解です。一方、ARはニンゲンによる利用に関わりなく、動物の固有の権利を尊重する立場。権利の概念の中身についてはもちろん議論があります。この2つは、自然保護における干渉主義と放任主義の二つの立場とも密接な関わりがあります。一般にARの方が過激、ラディカルな印象がありますが、運動団体の手法・戦術ではなく「考え方の違い」であって、穏健なARと過激なAWもあり得ます。また、どちらも現実的な立場も非現実的な立場も取り得ます。
 実は「福祉か権利か」は表面的な違いで、重要なのは、二つの概念のベースとなる価値観です。

 動物とニンゲンの「命の違い」により重きを置くか、「命の同質性」により重きを置くか──。

 家庭・地域でキリスト教を始めとする宗教の影響を強く受けて価値観が醸成される欧米圏その他の地域の市民は、圧倒的多数が基本的にAWの立場に近いといえます。
 日本は伝統的価値観でいえば、世界でも少数派といえる、ARに近い動物観・生命観・自然観が主だったのですが、明治以降に西洋の価値観に侵食され今ではすっかり形式だけになりました。西洋との違いを強調するとき「だけ」、生かすためではなく殺しの正当化の文脈で「のみ」、引き合いにされることがあります。捕鯨論争がその典型ですが。

 一言でいえば、AWの底流にあるのは、ニンゲンの命だけは特別だ、という考え方。だから、共通の概念を導入しようとするARの立場に首を捻るわけです。その裏には、ニンゲンは神の子であり、(ニンゲン以外の)動物たちは、神から神の子に与えられた"賜物"である。だから、"賜物"を正しく愛護し、福祉に配慮する責任を、ニンゲンは神に対して有している──という宗教的思想が潜んでいます。それぞれの宗教の立場で推進してもらうのは、もちろん当の動物にとって結構なことなのですが。
 対するARのベースにあるのは、人権を敷衍した個体の権利の概念と併せ、ヒトがサル目の哺乳動物の一種にすぎず、命はすべてひとつであり、生は再現不能な現象である──という科学的動物観・生命観に結びついています。
 日本の場合、神の創造という考え方にピンとこない人が多数であっても、皮相的なニンゲン至上主義だけは、おそらく世界のどこの民族よりも支配的になってしまったように感じます。
 そして、日本の動物愛護は、一部の先進国のAWと表面的に同質のものが主流になってしまっています。移入され、常に欧米と対比されながら運動が行われてきた背景がある以上、やむを得ないことかもしれませんが。
 余談になりますが、日本の捕鯨の現状に関しては、AW/ARいずれの観点からも容認されるものではありません。どちらに対する配慮も恐ろしく欠如しているからです。配慮する姿勢がなく、「配慮するな」と堂々と叫ぶのが反反捕鯨の立場だからです。一部実在するトンチンカンなAW/ARを使えば、捕鯨擁護の屁理屈もひねり出せなくはないけど・・
 畜産や狩猟・捕鯨などの問題の方がAW−ARのスタンスの差が鮮明になりそうに思えますが、犬猫問題は身近で裾野が広く、産業動物とは利用の仕方、命の奪われる状況が異なるため、とても厄介です。


 野生動物はAR、犬猫はAWという立場も、少なからず存在します。「野生動物と犬猫は違う」という理屈なのですが・・。この立場はしばしば、「野生動物は自由でいいが、犬猫は徹頭徹尾ニンゲンによって管理されるべきであり、それが犬猫の幸せなのだ」ということを、ことさらに強調する傾向があります。
 しかし、犬猫はヒトの手で造りだされたホムンクルスなどではありません。本質的に、他の動物と何も変わらない命です。多少歪められただけです。ニンゲン自体、自己家畜化の過程を経てこうなっちゃった≠けですけど・・・
 有史以前から、ヒトと犬猫は一種の異種混交社会を形成してきました。ヒトの側の働きかけが強かったとしても、それは決して一方的な関係ではありませんでした。おそらく最初は何人かの動物好きによる、何度か養育の試みがあったのでしょうが、それ以前からお互いに距離が接近していく共進化の過程に入っていたでしょう。それが一方的な支配関係に変質していったのは、やはり近世・近代に入ってからに違いありません。それでも、必ずしもニンゲンの思惑に沿ったとはいえませんでした。
 遺伝子が企業ビジネスの特許資産になるご時世、現代に入って犬猫のホムンクルス化が現実味を帯びてきたともいえるでしょう。しかし、それでも「ニンゲンが犬や猫という種、命を管理し、コントロールすることが可能だ」というのは、あまりにも奢ったオプティミズムではないでしょうか?


 確かに、犬はもうある程度ヒトの鋳型にはまってしまったのは否めません。しかし、猫はヒトに寄り添いながらなおかつ自由であるのが本質の動物です。そこが猫の猫たる所以です。
 猫を猫でなくすることはできません。猫にあらざる異質なホムンクルスにすることは。
 日本では地域猫活動の普及で殺処分数を減らせる余地もまだ残っていますが、いずれ必ず限界がきます。現場で携わっている方は、それを感じているはずです。
 非理性的で非妥協的な一部の動物嫌いへの対処も壁の一つ。下手に出るだけでは、「たかが動物」という意識が変わらず、やはり解決しないのです。行政とNPOの広報にはしばしばいいことしか書かれていませんが、筆者は関係者の愚痴、腹の内も聞いて知っています。
 そして、蛇口の生体販売問題。
 優先順位がひっくり返った皺寄せを食らっているのは、間違いなく動物です。
 市民のエネルギーが、保健所行を容認する《尻拭い活動》につぎ込まれてしまっているのです。
 ある程度の繁殖制限、健康管理は必要でしょう。しかし、究極の、完璧なコントロールなどそもそも不可能なのです。絶対にできやしません。
 一部の楽天的すぎる地域猫活動の描くビジョンは、画餅でしかありません。永遠に到達などしません。
 殺処分施設が稼働したまま、助成金が出るシステムも回り続ける、というだけです。


 業界、行政機関、マスコミがこの状況を生み出しているとしても、殺処分のシステムを回している社会の元凶は、命を「その程度のもの」とみなすようになった、日本人の価値観・感性の変質なのです。


 奈良時代から連綿となく続いてきた、殺処分というシステムに頼る以前の日本のヒトと動物との関係を、改めて見直す必要があるのではないでしょうか? もうその時期に来ているのではないでしょうか?
 伝統的な生命観、命を慈しむ健全な心を持ったこどもを育てるのに適した、猫が暮らせる街を、社会が取り戻すことこそ、真の解決なのではないでしょうか?
 このままでは、堂々巡りの状況からいつまでたっても抜け出せないでしょう。猫好きはいつまでも肩身の狭い思いをし続け、猫はいつまでも一部の人たちの趣味の対象扱いされ、殺され続けるでしょう。
 文明の管理下に置かれたホムンクルス。それはもはや猫ではありません。
 かつての日本は曲がりなりにも共存できていました。
 管理型の一部の西洋諸国以外の世界中の多くの地域で、NGOが片っ端から捕まえて手術しまくらなくても、土建屋が各地に殺処分施設を建てまくらなくても、ヒトと猫の共存は出来ています。
 もっとも、欧米流の杓子定規なAWの立場からは、それらの猫たちは「幸せでない」と一蹴されてしまいそうですが・・


 以前告知したように、筆者は明確にARの立場です。
 ホームレス問題、あるいはアフリカや中東の難民の現実に、手を差し伸べることを限界を超えるまでやり続けることができないとしても、自分がそれらの人たちの命を奪う決定を直接下す立場に立つなどということは、心が一切受け付けることを拒絶します。
 猫に対する、猫の命に対する感覚は、その一点において完全に同一です。
 正直、募集が「○日までに応募がなければ保健所行き」という但し書き付で行われていることに対しては、とても強いショックを覚えます。幸いなことに、筆者がこれまで関わってきた里親募集活動は、そうした表現が入り込む余地はありませんでしたが。

 ガス室でなければとか、一定期間譲渡を頑張ってみたとか、条件・理由を付けて積極的な殺しを受け入れる──それは明々白々な殺しの容認、ニンゲンもしくは野生動物と犬猫の命を峻別する、特殊なAWの立場です。
 死刑や戦争などヒトの死も条件付で受け入れ、同じ文脈と考えるARもあるかもしれません。しかし、犬猫殺処分はヒトの殺処分≠ニは相容れないものですし、ヒトのハードルを下げるのはかなり問題の大きなARです。「ヒトの命も同じように軽く見る」ということですから・・


 保健所で殺されることを受け入れてしまう活動は、「命をその程度のもの」とみなす時点で、命を粗末に扱う社会に迎合してしまっています。
 捕まえてきて、「生か死か」のルーレットを無理やり回させ、悪い目が当たったら殺す。
 それは積極的に死神の役割を買って出て、与えた殺しであり、奪った命です。
 自分たちを神とみなしているのと一緒です。
 生きる(食べる)ため、ビジネスのための殺しとはまた違う、助けるという名目での殺し。
 西洋圏の一部では「慈悲」の名の下に積極的安楽殺が行われていますし、日本の動物愛護活動家の中にもそうした考え方は少なくありませんが、それと同質です。
 日本の殺処分がガス室での窒息死であることを考えると、一層質が悪いといわざるを得ません。


 再度お願いです。
 「保健所に連れて行く」という前に、どうか自分たちの活動のキャパシティを見直してください。
 無理のない範囲」で活動しましょう。



 筆者のような考えは少数派ですし、原則に拘りすぎているかもしれません。
 ただ、他の動物であれば、ここまでうるさくは言いません。
 筆者にとっては、世界中のすべての個体の中で、最も大切な存在は、ヒトではなくネコに属していました。その子の骨は肌身離さずずっと身に付けています。外猫たちとの日々も、一番大切な思い出です。筆者の付き合ってきた猫たちは、自らの意思で、そばにいることを選択してくれた子ばかりです。
 顔が半分崩れた子は、出会って数日後、捕獲したときには、ケージの中で暴れまくったのでやむなく解放したのですが、自由になってからは筆者のそばに留まりました。自分の意思で。筆者は沁みる薬を付け、苦い薬を飲ませる係でしかなかったのですが。与えたものより、与えられたものの方が、比較にならないほどはるかに大きかったのです。
 「保護してやった」などと、偉そうな台詞が吐ける身ではありません。筆者は生死など何も決めなかったのです。みんな、ただ命と命が出逢っただけです。
 ましてや、「見つからないので保健所に連れて行きます」なんて、どうして口にすることができるでしょう?
 猫も、犬も、とても高貴な存在です。
 万物の霊長を気取り、他の動物の命に対して生殺与奪の権利を有しているつもりでいるニンゲンよりも。
 彼らはみな、ニンゲンと変わりなく個性的ですが、その一頭一頭が大きすぎる存在です。
 犬や猫を前にして、筆者は自分の存在の卑小さに、ただ途方に暮れるばかりです。
 筆者が犬猫の小説を書いているのは、世の中の命に対する感覚がほんの少しでも変わっていってほしい、若い世代に変わって欲しいと願っているからです。本当に毛ほどの力にもなってませんけど・・・


 私たちニンゲンは、ずっと動物たちに支えられてきました。
 みなさんは、采配ひとつで生き死にを支配できるほどニンゲンが偉い存在だと、本当に思いますか?



参考リンク:
−生体販売考(過去記事)
http://kkneko.sblo.jp/article/66141893.html

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2013年05月02日

生体販売考

 税金で作られたガス室に送られ殺処分される犬猫。外来生物として厄介者扱いされるエキゾチック・アニマル。どちらも動物の生体販売が根源に。


 環境問題、消費者問題の文脈では、汚染物質や廃棄物の発生あるいは製品の欠陥などの事態が発生した場合、誰が責任を取るのか(具体的にはコスト負担)が問われます。行政・メーカー・販売店が応分の負担をし、コストは製造原価に上乗せされるのが公正な社会。

 犬猫の場合、本来なら車の「運転技術を有する者」に相当するのが「福祉に配慮し、終生飼養する能力を有する者」であるべき。そうなっていないから、適正飼養者も動物嫌いも含めた納税者全員でコストを払わされ続ける、バランスの悪い歪んだ社会に。


 悪いのは飼い主? いえ、能力がないまま保有できてしまう社会の方です。


 交通事故の過失責任を運転者に負わせられるのは、事故を起こさないのが前提だから。私達の社会は、動物を遺棄しないこと、適正飼養の能力を有することを所有の条件にしていません。飼養能力がなくても購入でき、尻拭いも行政がしてくれる形になっています。

 本来であれば、生体の販売価格に、飼養能力の取得・審査にかかるコストを上乗せする仕組みが必要。繁殖制限のコストも同じく。
 消費者が家計の中から動物に割ける金額は自ずと限られてきます。生体をシェルター経由にする分、ドッグライフ・キャットライフの充実のために必要なヒトと犬の教習にその予算を振り向ける──一般家庭が自然にそうした選択ができるようになれば、どれほど素晴らしいことでしょう。


 残念ながら、今は生体販売を中心に、すべての歯車が回っています。


 行政と市民はひたすら尻拭いだけをさせられ続けています。社会が負担を率先して引き受けてくれるので、市場が存在し続けるのです。マスコミは、攻撃しやすい標的、顔のない相手である「心無い飼い主」をスケープゴートにして終わり。だから、いつまでも平気で続けられるのです。


 生体展示が効果的な集客機能を発揮し、複合ビジネスが回っています。生体販売ありきの総合ペットショップのイメージが市民に刷り込まれ、郊外のショッピングモールにも花屋や自転車屋の感覚で生体販売店が必ず並んでいます。ありふれた休日に、ごく普通の家族連れが訪れ、一定の割合で「出会い」が演出されます。そのうちの何割かは、固定客としてその店の商品・サービスを購入することで、長期的・継続的な利益をもたらします。
 ハイリスク・ハイリターンの生体販売との組み合わせが、ビジネスとして相性がいいわけです。


 これではいつまでたってもなくなりません。


 しかし、すべての元凶が生体販売にあったとしても、一足飛びになくすことはできません。市場と業態があれば、どうにも割が合わなくなるまで存続させようとする力学が働きます。そして、日本は行政に対して業界団体の圧力がきわめて有効に働く国です・・

 一定の投資がなされ、従業員も食べさせ続けなければいけません。一方的に圧力をかけるだけでは、返って強い抵抗に遭います。とある産業が好例ですが・・


 あれだけ多くの市民の関心が集まったはずなのに、動愛法の改正があまりにも無残な体たらくに終わったのは、政治の力学を正しく理解した運動になっていなかったからです。

 環境省を責めるだけでも始まりません。理解のある担当職員もいました。しかし、途中から雲行きが怪しくなっていきましたね・・・
 鞭だけで、飴がなかったからです。「人間」対「人間」の話で、鞭だけで結果が出ることは決してありません。ときには悲劇を招くこともあります。


 1兆円規模に達するといわれるペット関連産業ですが、食、医療・保険・介護福祉、娯楽、教育に相当する、多岐にまたがる事業が展開されています。トリミングや躾け教室、喫茶店など幅広いサービス産業、フードからアメニティ関連、ホビーに該当する商品、動物病院まで。今はそれらがほぼすべて、生体販売を中心に回っています。


 ガラス越しの出会いに惹かれてしまう「フツウのヒト」と、ツイッターで譲渡情報を毎日流し続ける「トクシュなヒト」が、まったく噛み合っていません。まるで別世界の住人のように。残念ながら、本当に前者の方が圧倒的に多いのです・・


 今日のシェルター、遺棄犬猫譲渡活動は、生体部門以外のペットビジネスから距離を置きすぎています。生体販売に依存しないビジネスモデルを積極的に支援する、そのような試みが十分に行われているとはいえません。

 連携できているのは一握りの動物病院くらいで、しかもこれは本来の蛇口対策ではないうえ、背景に別の理由もあるわけですが・・・


 行政に規制を働きかけるのと並行して、ペット関連産業全体を生体中心から、金で買ったのではない本物の家族との生活を充実させるための、継続的なサービス・商品中心の事業へとシフトさせていく。徐々に。ビジネスとして健全に成立し得る形で。切り離し、取り込む。

 そうした取り組みがなされなければ、いつまでも抵抗勢力、敵対勢力のままで、規制はなかなか先へと進みません。


 現状の日本においては、動物と一緒に暮らすことに対する敷居があまりにも低すぎます。しかし、敷居が高すぎても「ヒいてしまう」だけです。

 一般の人々の意識を高めることも大事ですが、活動家と呼ばれる人たちは、ある程度寛容でなくてはなりません。高い理念・目標を掲げるとしても、ときには現実的な妥協・譲歩も必要です。結果を出すためには。


 運動にまつわる近寄りがたい印象や遺棄・譲渡のマイナスイメージを打ち消し、企業を立てて知恵も借り、既存の生体販売以上の安心感を持ってもらえるようにする、そうした戦略も必要になってくるはずです。


 「殺処分をなくそう」──わかりやすく、強烈なメッセージです。


 ところが、この手のメッセージそのものがうまく取り込まれ、すり替えられてしまいました。マスコミに。行政に。当の生体販売業界にまで。
 責任の所在、「蛇口がどこにあるか」を明確に示さなかったから。


 TV業界は未だに、コロコロした明らかに八週齢未満とわかる仔犬・仔猫のカワイサを前面に押し出し、「適正飼養の必要性と負担の現実」をなんら訴えることなく、無邪気な人々の心を擽り、購入を煽り続けています。
 それでいて、遺棄・殺処分問題を取り上げるニュース報道では、すべて飼い主の責任"どまり"で終わってしまうのです。感傷的に。情緒的に。

 商魂たくましいドジョウ狙い映画とかも出てきたり・・
 蛇口の問題、「能力がないまま保有できてしまう社会」の責任についてはぼかしたまま。

 電力会社じゃないけれど、スポンサー強しということでしょう・・


 筆者個人は、「家族を金で売り買いするなんて冗談じゃない、理解不能」という立場です。

 しかし、1兆円の1割、1千億円以上の金が動く、そういう世界が相手なのです。

 今行われているのは、蛇口が開きっぱなしのまま、水を汲み出す作業。
 一種の静脈産業として、負担だけ押し付けられ、片棒を担がされているに等しいとさえいえます。
 だからといって、蛇口をバールでぶっ壊そうとしても、ますます大量に水が溢れるだけです。

 締められる環境を整え、自ら締めてもらう以外、道はないのです。


 悪いのは生体販売です。しかし、悪者にするだけでは解決できません。

 知恵を絞りましょう。ヒトが万物の霊長なら。
◇◇◇


 この記事はどこに載せるかも悩ましかったのですが・・


 とある産業とはもちろん、捕鯨のことですけどね。。

 根っこはみな共通しています。
 太地の将来をめぐる議論から、南極プロレス、WWの活用まで。
 マスコミを使った巧みなPR戦術に対し、市民側が有効な対抗手段を打てていないのも同じ。
 ウナギにマグロ、原発、沖縄・・・・
 モラトリアムは急ぎすぎました。きわめてマズイやり方でした。乱獲を食い止めるのには遅すぎたのも事実ですが、それでもなお時期尚早でした。


 日本の捕鯨産業はもうほんっとにどうしようもないです。
 イルカ飼育水族館も。
 生体販売と同じように。
 しかし、それぞれの産業の従事者に罪はありません。
 そして、どうしようもなかったとしても、やはり即時全廃はナンセンスです。
 捕鯨も。生体販売も。

 筋を通し、はっきりと批判することと同時に、現実を見据えて着地点を探ること。

 原発や開発問題は、手遅れになるラインが設定されてはいますけど、それでも暴力的・超法規的手段に訴えることは許されません。
 それ以外の問題は、あくまで地道にソフトランディングを目指すべきなのです。



 まあ・・折り合いを付ける能力が誰よりも欠如してるのはお坊ちゃま首相だし、参院選で日本がハードランディングしそうな気配だけど・・・・・

posted by カメクジラネコ at 03:48| Comment(0) | TrackBack(0) | クジラ以外

2011年12月05日

頑張れオキナワ、頑張るなフクシマ/アンケートその後

◇頑張れオキナワ、頑張るなフクシマ

 ここ数日の冷え込みのせいで、ハヤトウリが一気に萎れてしまいました・・
 今年は柿は豊作でしたが、ハヤトは不作で結局実ったのは十余り。来年植付用の種子の確保も微妙なり・・
 手のかからないベジ向け万能野菜のハヤトは、時季になるとあっという間に成長し、カリウムも豊富そうなので、ヒマワリに負けず除染向きな気がしますが・・気候的に福島のほうだと無理があるか。

 さて、当方が身近な場所にて放射線量サーベイした結果、高い値を記録したのは小学校、図書館、公民館と、いずれも子供が足繁く通る場所でした。市の方で真摯に除染対応していただいたのでひとまず胸を撫で下ろしている次第。最高値は地上5cmで3.6μSv/h(アルミ板でのβ遮蔽なし)。市が別の測定器で測っても2.6μSv/hということで、苔と土を全部ひっぺがしてバリケードと告知板も設置。
 ただ・・取り除いた土は、結局同じ敷地内の別の場所に埋めただけ。実際、これ以上の対応は市町村レベルで取りようもなく、責めることもできませんが・・
 他県では小学校の雨樋の下1μSv/h程度の除染でNHKニュースに取り上げられていたのと比べ、筆者の住む辺りは認知度が低いのも気がかりな点。自治体側は"風評被害"のほうが気になるのでしょうが、住民が鈍感なままなのは決して誉められることではないでしょうね。もっとも、筆者が報告した場所については迅速に対応いただきましたし、測定値の発表や給食用食材の規制値など、自治体としてはよくやってくれている方なのですが……。

 公園で値が高かった付近の土を掘り起こしてみると、カナブンさんの幼虫がゴロゴロ。こんな硬いとこよく潜るもんだと感心しますが……それよりも、こうした幼虫やアリ、ダンゴにワラジにハサミムシ、その手の地中に棲む小動物の線量を調べたら、どれだけの値が出るだろうかと気になります。実際以下のような情報もありますし。

■「昆虫に見る低レベル放射能の影響 」 それは原発や再処理施設の風下でも|れんげ通信ブログ版
http://rengetushin.at.webry.info/201002/article_1.html

 よその先進国にはなかなかいない恐怖の殺人蜂・オオスズメは地中に巣作りますもんね。さすがに中生代みたいに巨大化してヒトを襲うなんてB級ホラーな展開にはならんでしょうが、影響がないとも思えません。上掲資料にもあるとおり、虫に影響があるなら、それを食べる鳥や獣に影響が出ないはずもなし。

 福島や北関東では、シカやイノシシの肉に高い値が出荷見合わせなんてニュースが流れています。捕鯨サークルと共用で「余すことなく利用する」を謳い文句に掲げてきた猟友会、その日本の"伝統"を金繰り捨てて、出荷しなくても射殺レジャーだけ楽しみ続けるつもりなのか・・・
それはさておき、ヒトの口に入ることは規制で"ある程度"避けられるとしても(既に"事故"や産地偽装も起こってるけど!)、まったく避けられないのが野生動物。
 事情は陸でも海でも同じ。
 11/27に、NHK・Eテレで放映された「海のホットスポットを追う」(なぜ総合の原発特集番組と時間帯をぶつけたのかは理解に苦しむけど・・)、視聴実況ツイートなどしてみましたが、予想以上のひどい状況に目の前が真っ暗になりました・・・

 陸上の汚染は川や地下水を通じて最終的に全部海に流れ出るわけで。時差を伴って供給され続け、海底の堆積物と食物網の間をぐるぐる巡り続けるわけで。水産庁のいう拡散も希釈も大嘘にすぎないわけで。

 しかも、除染など物理的にもコスト的にもまったく不可能なわけで。Cs137、Sr90は30年経ってもたったの半分にしかならないわけで。

 ヒトの子供たちのためによかれと信じた人々の除染活動も、実際には海の自然に押し付けただけの話なわけで。夏眠という興味深い生態を持つ故に放射能と津波のダブルパンチを受けた常磐〜仙台沖のイカナゴを好んで食べるミンクの子供や、汚染度の高い汽水域を好みエビやタコなど底棲動物を主食とするスナメリの子供が、結局そのツケを負わされるだけなわけで。

 拙HPではミンクの被曝を最重要問題として訴えているところですが、原発ではなく津波の影響ながら、海棲哺乳類への震災の影響について取り上げたのは、先月松島水族館で開かれた勇魚会シンポ席上の国際水産資源研究所(旧遠洋水研)米崎氏の発言のみ。他にあったらどなたか教えてくださいm(_ _)m


 3・11後、日本人はホンッット、ニンゲンのことしか考えなくなりましたね・・・・
 前から真面目に考えてたともいいがたいけど・・
 バランス志向の筆者は、自業自得のヒトより、カナブンからクジラ、カラス(スカベンジャータイプの影響は甚大)に至る野生動物への影響の方がますます気にかかってしまいます。


 といっても、そのヒトの子供の健康と命に関わることさえ、為替や大阪都、女性宮家なぞといったどうでもいい問題≠謔阯D先順位を落とされている気がしてなりません。
 給食食材の40Bq/kg以下基準、打ち上げたそばからただの努力目標になりそうな気配ですね。ウクライナの野菜や幼児食品の基準と同じで、それなりに根拠のある数字のはずですが。20mSv問題の盛り上がりに比べると、放射性物質の半減期よりもヒトの関心の半減期の方がやはり短かったか、という印象。自治体によっては20Bq/kg基準を独自に設けてくれているところもありますが。ちなみに、これだと釧路沖ミンクでもアウトですね。

 40Bqじゃ高いよと文句を言ってる福島県さん。
 もう頑張らないでください。
 子供の健康を最優先することだけで頑張ってください。東電への賠償請求だけで頑張ってください。
 風評被害どうのこうの、観光誘致でカネ落とせだのでなく。
 そして、頑張る前提として、立地補助金という麻薬に溺れて豪勢な箱物を建てまくることに頑張りすぎた自治体首長や議会の猛省が必要なのでは。
 もちろん、地方にしわ寄せしてきた首都圏のニンゲンも、同じく真摯な反省が必要ですけど。同じ首都圏でも、親が子供の脱出を考えるのも無理はないほど汚染が深刻で、瓦礫受け入れどころじゃないとこもありますし。

 東日本も、大阪と堺を足しただけで何かが変わると勘違いした大阪・西日本も、もう頑張らなくていいです。

 いま頑張ってほしいのは、沖縄。

 筆者はつい悲観的に見てしまいがちですが、311後にかすかとはいえ一番希望の光を感じたのは沖縄です。

 言葉じゃない。想いじゃない。
 そんなガラクタはどうでもいい。
 謝罪じゃない。辞任や更迭でもない。もちろん、カネでもない。
 唯一大事なのは「結果」です。
 県内たらいまわしではなく、言葉どおりの基地縮小・撤廃。
 ジュゴンの暮らす辺野古の海を潰さないこと。
 それ以外で、許しちゃ駄目でしょ。絶対に。

 それにしても、マスコミの狡猾さといったら・・
 このタイミングで、「トモダチ作戦のおかげで日本人の米国に対する親密度が上がった」などという、馬鹿げた世論調査の結果をぶつけてくるのだから。
 TPPも捕鯨も同じですが、やはり世論調査ほどアテにならない、アテにしてはならないものはない、と改めて思わせてくれます。


 頑張れ、沖縄。それ以外の日本は、頑張らなくていい。

posted by カメクジラネコ at 00:36| Comment(0) | TrackBack(0) | クジラ以外

2011年11月16日

あなたは福島原発事故後も、日本の捕鯨産業ないし野生動物・自然に未来があると思いますか?

 子供たちも大勢集まる公民館の裏手で、3μSv/h超を観測(地上5cm)。コケが密生している場所。
 翌日にはコケ・土を除去して手前に工事用のバリケードを設置していただく。
 行政に対して積極的に働きかけてくれている市民グループがあるので、自治体の方もそれなりに迅速に対応してくれてはいるのですが・・
 一帯での計測記録を更新──
 地勢や植生などからどのような場所が値が高いか予測しつつ、実際に計測作業をさせ、誤差や統計の意味なども教えれば、子供たちにはなかなかよい社会実習・理科学習の教材になりそうですけどね。
 ・・・・
 放射能が無害でさえあれば。

 公園や公道などで計測作業をしていると──でもって、ピーピー反応しだしたりすると──「一体何をしているのか?」と好奇心を抱いた通りすがりの人々が、のぞきにやってきます。で、数字を見せながら簡単に説明すると、「そんなに高いの!?」と驚いたり、「やっぱり高いんだ」と頷いたりと、いろんな反応を示してくれるわけです。まあ、関心を持ってもらえるだけでもありがたい、というべきなのでしょう。全体としては危機感がイマイチですが・・。
 赤いハーネスが白毛によく生える紀州犬の血を引いたワンコの散歩に来ていたおばさんは、捨て子の里親を引き受け、中型の和犬でも室内飼いしている、なかなかレベルの高い方だけあってか、放射能に対する認識の点でも一歩リード。
 また、ある買い物帰りの年配の女性の方は、家でその話をすると、旦那に「孫にうちに来るなと言えというのか!?」と怒られる、と嘆いていらっしゃいました。
 公園で、保育園通いくらいの小さなお子さんたちを遊ばせていた若いお母さん方は、話を聞いて、土・砂・鼻水まみれになったこどもの顔をあわてて拭き取ったり。「ベビーカーをずっと外置きしてたけど大丈夫かしら?」といった相談も受けました。一応測ってあげたうえで(1mで0.3μSv/hと背景の線量と変わりませんでしたが)、水拭き・空拭きしておいたほうがいいと適当に指導しておきましたが・・。無頓着というより、こういった細々とした放射能に対する生活上のアドバイスを、行政機関・電力会社・マスメディアが積極的に広報する責務を怠っていることが問題なのでしょう。
 これから冬の季節に入れば、乾燥によって、Csが付着した粒子が大気中に巻き上げられ、拡散して、屋内に入ったり、こういった児童・保護者が日常的に使う生活用品に付着したり、あるいは呼吸を通じて直接体内に取り込まれることで、トータルのリスクをもっと押し上げることも予想されるわけで。
 千葉県・関東在住で、特にお子さんを抱えている親御さんは、真剣に転居を考え、あるいは実行している方も少なくないでしょう。非常に高い値が発覚した某市では、市民団体の代表の方が逃げ出してしまい、活動が一時休止に追い込まれたところもあったと小耳に挟みましたし・・
 半減期30年、長い戦い・・のはずなのですが・・
 恐ろしいのは、圧倒的多数の方が、もうあの事故は済んだことだといわんばかりに、さも何事もなかったかのように、日々の日常に戻ってしまっている、その街の光景です。
 実際311以前と以後で変わったことなど何もありませんから、ね。
 手にしたガイガーカウンターが警報音を発することを除けば。
 気にしなければ、気にしないですむ。
 ならば、気にするほうがおかしい。
 十年後、子供たちの間で小児癌の増加が静かに進行したとしても、やはり気にしなければ気にしないですむレベルなのかもしれません。宝くじより高いといっても、1万人に数人程度。
 ハズレくじを引いた本人と周囲の人たち以外は。
 温泉のラジウム、レントゲン、車、煙草、酒、その他諸々の職業上のリスク。大差ないといえばそれまで。
 子供の人生を破壊する脅威、という点では、県内で起きた教師による女子児童の性的虐待などもそのうちに入るのでしょう。
 確率の問題。「運が悪かったと思え」と。

 筆者はむしろ、今回の原発事故を契機に、命を脅かすその他諸々のリスク全体に対しても、もっと敏感になっていいのではないかと思えるのですが・・
 放射能に限らずすべてについて、車から煙草から犯罪まで、ゼロに近づけていく不断の努力をすべきなのではないか。
 常に、少しずつでも、減らしていく努力をする、そういうベクトル・社会の方向性を持つことが大事なのではないかと。
 基本的に、人権・平和・民主主義・生態系保全・動物福祉・食(飢餓の撲滅)まで、すべてにいえることですが。
 それこそが、万物の霊長たる資質であり、証明なのではないかと。唯一の。

 こんなこというと、「電気を使うな」「車に乗るな」「家から出るな」といわれそうですね・・
 どういうわけか、そういった極論にすぐ飛びつき、引き合いにして、現状を変えることを拒む考え方が、とりわけ蔓延っているのが"いま"という時代のように感じます。

 自慢じゃないけど超運動音痴の筆者は、自分が加害者になるのが絶対嫌なので、免許を持ってませんし、死ぬまで持つつもりはありません。
 移動手段は基本、自分の足、自転車、公共機関のみを頼りにしています。
 都内の会社に通勤していた頃は、深夜残業の度にタクシーの世話になってましたけど・・ニャンコの晩御飯がすべてに優先したからニャ〜・・
 乗るなというつもりはありませんが、日本は車も道路も過飽和状態だといつも感じます。
 日本のメーカーによる事故減少・安全への取り組みは評価しますし、最近は自転車による死亡事故急増が取り上げられてますが、横断歩道を渡ろうとする子供や老人の前を平気で先に横切ろうとする車をしょっちゅう目の当たりにしていると、車というものの本質を垣間見たような気分にもなります・・
 それ故に、新型の路面電車導入と市街区や商業区の自動車乗入禁止、自転車道整備、カーシェアリング・・そういう動きにこそ、「前」へ進んでいるという印象、方向性を感じます。
 逆に、ほんの数分の渋滞緩和を理由に掲げ、雑木林を断ち切って縦横無尽に自動車道を整備したり、一家に1台2台と車を保有させ、近場のショッピングセンターへも毎日のように車で行くのが当たり前という風潮に対しては、「後退・逆行・退潮」という受け止め方をついしてしまいます。
 国中に高速や新幹線を張り巡らせ、地方から個性を奪い、B級グルメで東京人を呼ぶ数年しかもたない観光地にしてしまったり。
 億万長者がステータスを自慢するだけのくだらん余興にすぎない成層圏旅行ツアーでオゾン層を大量に破壊したり。
 そういう話を耳にすると、ニンゲンという動物はどんどん駄目になりつつある、と感じてしまいます。
 自分の足が一番。そして、歩けない人のためには、事故っても誰も死なないくらいのスピードで走る乗り物(セグウェイだって速すぎる)を用意する、そのためにこそ優れた、とっておきの技術を磨いていく。
 旅行だって、足と鈍行電車で十分じゃないですか。都会のめまぐるしさを持ち込むのでなく、それを忘れるのが本物の旅でしょうに。
 メーカーもいい加減自動車の数増やそうとすんのやめて、福祉ないし娯楽用ロボットの開発でもやっててほしいニャ〜・・

 電気もそう。食もそう。
 原発も鯨肉も牛肉も、贅沢さの感覚を狂わせ、「足るを知る」という「地産地消」「もったいない」と同じくらい日本が世界に胸を張ってよかったはずの誇るべき知恵を、遠い過去に置き去りにさせただけでした。
 もう満腹、食傷です。
 一足飛びに社会が変わるとは誰も思いません。
 けれど、もうブレーキをかけて、逆方向にシフトしていい頃合だと思いませんか?
 「もっともっと」と、原子核をこじ開けてまで、南極の自然を汚してまで、際限のないユタカサという名の幻想にすがるのは、もういい加減おしまいにしませんか?

 それとも、これはニンゲンという、自然の進化実験の大失敗作への高望みにすぎないのでしょうか?
 TPPに沖縄。
 事態の推移を見ていると、がっくりきます。
 フクシマでさえ目が覚めなかったのか──と。


◇アンケート(続き)

http://www.kkneko.com/cgi-bin/enq.cgi?id=kkneko

 集計結果を公開します。ご協力いただいた皆様、ありがとうございました。とりあえずまだ受付ております。
 アクセス自体は280件(15日まで)ほどでしたが・・
 分析はまた後日。
 さて、どうしたもんでしょうねえ・・
posted by カメクジラネコ at 03:04| Comment(0) | TrackBack(0) | クジラ以外

2011年11月03日

アンケート

 柏でえらい値が出ましたね。私も縁のある地なのですが。誰かが焼却灰なり汚泥なり除染土をこっそり夜中にでも持ち込んで埋めたんだろうと思ったら、側溝にヒビが入っただけとは。改めて認識の甘さを痛感しました。
 そういう次第で、知人経由でRD1503をお借りし、自宅で測ってみました。室内は先日同じ計器でもって代々木のベジフェス会場で測ったのと同じ0.15μSv/h程度でしたが、庭で1.8が出ました・・・。自宅でピーピーピーピー鳴り出すと、さすがに背筋がゾワッとします・・・。生えたミョウガを食ったのはヤバかったかもしれんなあ。
 実感したのは、ほんの数十cmでも値が大きく違うこと、半年経ってもセシウムは減るどころか、場所によって集積するものだということ。
 近々公園や学校の近所、緑道、雑木林、谷津田等で測ってみて、協同集約サイトのほうにでもアップしようと思います。
 詳しい値は、いくつか持ってる別サイトのひとつで公開してますので、ヒマ〜なヒトは探してみてください。

 311まで国の原発推進政策を改められなかった大人の一人として、自身の発ガンリスクは甘受しますが、子供たちはもう東日本、あるいは日本そのものを脱出したほうがいいと思いますね。親御さんたちもお子さんを経団連のジジイどもの犠牲にされるのはごめんでしょ。
 ニンゲンは自業自得として、ワンコやニャンコが心配。巷で騒がれてる数字は外部被曝に関するものです。散歩してる間に足裏に付着してなめたり、そもそもデリケートで犬種によっては癌になりやすい部位でもある鼻吻についたりで、内部被曝するリスクは大。以前にも記事に書きましたが、放射線の影響は種差はあまり関係なし(強いのはクマムシくらい)。寿命の問題だけです。家族に10年、20年長生きしてほしい方は、散歩道の線量をチェックして対策を練ることを薦めます。
 野生動物の場合、寿命が短いので発ガンリスクはあまり考慮しなくていいといえ、生殖障害・催奇形性による長期的影響は深刻。膨大な廃棄物の置き場として国有林が候補に上がってますが、実際「最弱者」にしわ寄せを食わせることになるでしょう。この国はそういう国です。
 寿命が長いクジラ等海の野生動物は一層深刻。狂信的な反反捕鯨論者たちは数十Bqに「すぎない」と喜んでいますが、海洋生態系と関係のない不自然な捕食者の健康などどうでもいい話。南相馬の子供たちの食品による内部被曝由来で出た7Bq/kgという値と比較されるべき内容。仙台沖でなく釧路沖の、底魚でなく浮魚中心のミンクでこの値というのは脅威的です。JARPNも、三次補正の南極向け手当ても、すべて海洋生態系への影響調査に充てるべきでした。筋違いの南極向けと違い、いつもの業者以外も含めた石巻周辺の漁業者の雇用にもなり復興の名目もそれなりに立ったというのに。
 食品について、そもそも緊急避難措置にすぎない暫定規制値から1/5に下げる話が出ていますが、底魚はまだまだ1,000Bq/kg出てるからね。未だに取水口で値が上がったりしてるし。キセノン出たし。メルトダウンした核燃料を封じ込める地中ダムに1千億円以上コストがかかるはず、という話がいつのまにか聞こえなくなったけど、そもそも容器に穴開いて漏れた時点でアウト、環境から完全に隔離するなんて非現実的な話にしか聞こえません。

 八ッ場ダムと正反対に地元の意見を無視する強硬姿勢でジュゴンの暮らす海を潰そうとし、風評被害>>TPPの打撃>>放射能被害という転倒した感覚を世界にPRするイカレた国になってしまった捕鯨ニッポン。同じように転倒した価値観を改め、地産地消と雑穀中心の伝統的準菜食という大切な食文化を素材より優先し、南極・公海から撤退する代わりに、投資家と多国籍企業優先で時代遅れのWTO自由貿易に物申し、所得による公平性を加味したうえで環境負荷に応じた税を課す公平・公正なルール・新しいトレンドを世界に提唱し、時代をリードする役割を、日本は果たせたはずなんですけどね。本当のアイデンティティをすっかり失ってさえいなければ・・。もちろん、米豪も同罪ですが。
 このまま、沖縄の自然と一次産業(捕鯨&大手公海漁業者除く)を壊滅させ、噴出する鬱憤を晴らすために、ガス抜き用としてきわめて効果的な役割を果たしてくれた南極の野生動物にぶつけさせておけばいい──というのが、核と銃と宗教に蝕まれ日本に負けずイカレた米国に媚びへつらう霞ヶ関の考え方でしょう。
 はたしてそれでいつまでもつことやら。人口構成、産業構成、財政、どれを見てもお先真っ暗で、まだ原発にこだわりPuを保持しようとする日本が、いずれ破綻・暴発して北朝鮮以上に危険な存在となり、世界を巻き込み、ニンゲン以外の自然にもとんでもない迷惑をかけることにならないかと、筆者は本気で案じています。ただでさえ福島で放射能を世界中に撒き散らしてしまったのに・・・

 さて、311後日本が「終了」し、亡国の道をひた走っているかに見える中、捕鯨に異を唱えることに果たしてどれだけの意義があるか。
 いずれにせよ、うちのサイトはSSCSと同格だという捕鯨批判派からのご意見(若干1名ですが)をいただいたこともあり、今後コンテンツの扱いをどうするか考えあぐねている次第。どういうわけだか、インドやらスウェーデンからも依然としてアクセスがあったり、再開を待ち望む(?)ウヨガキ君たちからの声も相変わらず途絶えないもんですからね・・
 そういうわけなので、アンケートを実施します。ご協力のほどヨロシクm(_ _)m ウヨガキ君たちは、捕鯨サークルにとってどちらがプラスか、またそのために運営者をどのように誘導したらいいか、よ〜く思案してみてください。日本には適切な諺もありますが・・。クジラや牛やカンガルーやオットセイより馬鹿だと思われぬよう。

http://www.kkneko.com/cgi-bin/enq.cgi?id=kkneko
posted by カメクジラネコ at 07:04| Comment(1) | TrackBack(0) | クジラ以外

2010年05月11日

米軍基地辺野古沖移設&南極海調査捕鯨反対署名・ご報告

断食期間中の出来事・・・
−5月4日、本断食2週間に突入してヘロヘロのときに、よりによって鳩山総理が「県外移設は公約じゃない」などととんでもないことをのたまったため、ショックのあまり転倒して頭をぶつけ、旋毛の右45度に穴が開いてしまいました(--;; 幸い縫わずに済みましたが、ハゲができちった(泣) 当然のことながら、お義理で購読してた官邸メルマガは速攻登録解除。。
−家人が過負荷で重度の日光アレルギーに(--;; 当面家事サービスに専念せにゃ(汗) 減収分も働かないといけないんだけど。。
 
まあ私事はさておき、今回の署名に様々な形でご協力いただいたすべての皆様に厚く御礼申し上げますm(_ _)m
署名数は日本語版(オンライン署名:302筆、オフライン署名:117筆、計419筆)、英語版766筆、重複はごく一部ですので1000筆を確実に突破いたしました。日本400、米国300、その他ノルウェー、中国、アジア、中東、アフリカ、中南米と、およそ世界中の様々な国々の方からご賛同を得ることができました。
主催者が私でさえなければ、もう3桁以上軽くいけたとは思いますが・・・・
 
沖縄の皆さん、そしてすべての日本人の皆さん。
米軍基地の辺野古沖移設に対し、世界中の人々が「NO!」と言ってくれました。
このことの意味を、少しじっくり考えてみてください。
 
署名は1週間以内に首相官邸に筆者が持参する所存です(ホワイトハウス宛はNPOさんに依頼)。
後日、提出後に改めて詳細についてご報告させていただきます。
posted by カメクジラネコ at 18:50| Comment(3) | TrackBack(0) | クジラ以外

2010年04月21日

持続的利用原理主義さえデタラメだった!/小松氏ウヨガキ化?/吉高の桜

◇持続的利用原理主義さえデタラメだった!

http://www.kkneko.com/sus.htm

 ちょぉっと長いけど時間のある人は読んでね〜

 

◇捕鯨関連情報クリッピング

■捕鯨騒動(一連の最新トピック) (flagburner's blog(仮))
http://blog.goo.ne.jp/flagburner/c/ee3eb0f977ae47ca194e63d02011b058
■日本の調査捕鯨由来の鯨肉をアメリカと韓国で発見 (4/14,ドイツ語好きのメモ)
http://blogs.yahoo.co.jp/marburg_aromatics_chem/63111098.html
■韓国で密輸鯨肉販売疑い 日本捕獲の個体酷似 (4/15,H.Matsui)
http://matsui.naturum.ne.jp/e899594.html
■民主党には捕鯨推進派の議員が50人はいるらしい (4/14,ひつまぶしの日記)
http://hitsumabushino.seesaa.net/article/146536704.html
■捕獲してはいけない鯨を獲って、その肉が日本から海外に密輸されていたということである (4/14,瑠璃青(LuLiAzur)の日記)
http://d.hatena.ne.jp/luliazur/20100414/1271250782
■捕鯨批判ブログ・リンク集
http://www.kkneko.com/framel2.htm

◇◇◇

■捕鯨とマグロ漁“文明対野蛮”の構図にはまるな (4/5,オピニオン|読売)
http://www.yomiuri.co.jp/adv/wol/opinion/international_100405.htm
■IWCとシーシェパードと日本漁業行政の功罪(上) 捕鯨問題の本質とは (4/12,PJ NEWS)
http://www.pjnews.net/news/764/20100412_7
■映画「ザ・コーヴ」に気になる上映中止騒動が・・・ (4/14,「篠田博之のメディアウォッチ」)
http://www.the-journal.jp/contents/shinoda/2010/04/post_46.html
■クジラにイルカ、クロマグロ……。もはや食文化の危機!? (4/15,リアル共同幻想論|ダイヤモンド・オンライン)
http://diamond.jp/articles/-/7890
■The Coveに関する国内報道を考える (4/15,山ア 恵子 ~Keiko Yamazaki~)
http://kyamazaki.jp/index.php?FrontPage

 市民ブロガーの皆さんからも、識者からも、こうした主張が次々に出てくるようになったのは大変喜ばしいことです。最悪なのが官僚と政治家ですが、与党内でも大変勇気のあるご意見を示していただいた議員さんもいらっしゃいますし、日本が全体としてバランス感覚を取り戻しつつあると見てよいでしょう。えげつない動画に狂喜するイカレた反反捕鯨ナショナリストたちを除き、誰もが捕鯨ニッポンV.S.シー・シェパードの茶番劇にウンザリしてきているわけです。問題は癒着構造をなんとしてでも死守しようとする捕鯨サークルですが・・・

■調査捕鯨のクジラ肉、妨害で販売量減少 (4/15,TBS)
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4404261.html (リンク切れ)


 調査捕鯨を実施している日本鯨類研究所は、今季の活動で捕獲した鯨の肉を15日から販売すると発表しました。ただ、販売量は反捕鯨団体・シーシェパードの妨害活動によって大幅に減少しています。
 今回の南極海での調査捕鯨活動では、シーシェパードによる激しい妨害活動の影響で捕獲頭数が目標の6割未満にとどまったため、販売される鯨の肉も去年より600トン少ない2000トン程度になる見通しです。
 ただ、在庫が豊富にあることや消費が落ち込んでいるため値上げはせず、背中の赤肉でキロ当たり去年より210円安い1850円で主に業者向けに販売します。
(引用)

 マスコミ報道ももはや事実を隠しきれません。

■日本が440頭の捕獲枠を提示 南極海でのミンククジラ (4/20,共同)
http://www.47news.jp/CN/201004/CN2010042001000796.html

 JARPATの水準ですね。小松さんが自分の功績を否定されて激怒するわけです。いくら煽ってもついてこない消費の水準に合わせよう──言い換えれば、「元に戻そう」というだけの話。自助努力を一切せずに税金もがっぽり投入でき、捕鯨サークルを利するだけ。赤松氏と入れ知恵した官僚たちの狡猾極まりない点は、ノルウェーとアイスランドを急進派に仕立てて自分たちを中庸派に見立てようとしている点。これは絶対許せません。
 沿岸捕鯨&近海調査捕鯨トータルで100頭が妥当なランディング・ポイントでしょう。10年でフェイズアウトを確約できるなら、JARPNU分合わせて200頭ってとこじゃないですか。税金は本当に必要とされるところに回しなさい、赤松さん。

■国際捕鯨委員会(IWC)アガディール会議に向けて:IWC議長案を分析する (4/16,東大先端科学技術研究センター大久保特任研究員)
http://yonemoto.rcast.u-tokyo.ac.jp/PDF/agadir.pdf


また、IWCの外側で、日本が国際的な資源管理に責任ある行動をとっていると諸外国に認められているかどうかも、重要なポイントとなる。たとえば、先日のワシントン条約会議での大西洋クロマグロの附属書掲載提案をめぐる日本の振る舞いが、「何ら規制強化の担保なく、資源管理が極めて不十分な途上国を率いて、産業利益を守った」と映ったとすれば、IWC交渉での妥協にはマイナスになるだろう。
(引用)

■米韓で販売の鯨肉、日本から密輸か DNA鑑定で判明 (4/14,AFPBB)
http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/environment/2718628/5610594

 こういうことがあっても自分たちの主張がそっくり受け入れられると思ったら大間違いですよ、赤松さん。

◇◇◇

■普天間「必ず五月晴れに」=鳩山首相 (4/21,各報道)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100421-00000050-jij-pol (リンク切れ)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100421-00000014-mai-pol (リンク切れ)

 鳩山さん、リーダーシップを発揮してください。徳之島がダメなら当然沖縄もダメです。だからってグァムにも押し付けたくないよね。
 米軍の利権を“思いやる”より国民のための思いやりを。オスプレイは要らない。

■海兵隊の抑止力とは何かを検証せよ! ―― 朝日オピニオン欄の柳沢協二の議論に同感する・高野孟 (2/1,Infoseek内憂外患)
http://opinion.infoseek.co.jp/article/743 (リンク切れ)
■米海兵隊は「北朝鮮核」の奪取が使命? ── 馬鹿馬鹿しいにもほどがある (4/13,〃)
http://opinion.infoseek.co.jp/article/823 (リンク切れ)
■普天間問題は鳩山政権の試金石だ・喜納昌吉 (4/9,〃)
http://opinion.infoseek.co.jp/article/820 (リンク切れ)

 

◇小松さん、大学教授の肩書きでウヨガキ化しないでね・・・

 小松氏が朝日オピニオンで、「畜産の方が環境に悪い」とのたまっていますが、表現は実にプリミティブ(最上掲の拙HPもご参照)。大学教授が、ネット上でゴミをばら撒いているネット依存症のウヨガキよろしく、科学的(社会科学含む)根拠のないいい加減なことを吹聴してちゃいけませんね。研究者の手によるバウンダリーを調整した定量的な比較データは存在しません。小松さんでも森下さんでもいいから、名前使って研究論文を発表すれば、一発で終わる話です。当然検証しますが・・
 小松氏は「家畜への依存を減らすことにつながります」と主張していますが、これは真っ赤な嘘です。実は、輸入飼料で無理やり肥育する国産牛(飼料自給型有機畜産を除く)の方が、豪・米からの輸入牛肉より環境負荷の高いのですが、フリーになって言いたい放題の小松氏と異なり、赤松農相や森下参事官ら農水省には、「畜産の生産量・消費量と環境負荷を代わりに減らします」などとは口が裂けても言えません。誰の目にも明らかですが。まずは、赤松農相や岡田外相が、同僚の議員や閣僚と部下の官僚たちに銀座界隈の高級料亭で霜降り高級和牛を頬張るのをやめさせ、環境負荷を下げるお手本を示すのが先なんじゃないの? 小松氏も上級官僚だったわけですが、日本人の平均より畜肉消費量が少ない自信がおありなのかしら? 一緒にお仕事していた水産ゼネコン業界のヒトたちは、バカスカ食ってたりしなかったのですか?
 低環境負荷畜産は個別の農家・事業者が既に取り組み、消費者に一定の支持も得ているわけですが、高騰した燃油価格のために全漁連にマージン付けて多額の補助金を支出するのであれば、こちらも国が支援するのは当然のことでしょう。鯨研への補助金・役に立たない政治的水産ODAも、全部そっちへ回すのがスジ。危険な米国産牛肉輸入に明確にNOを突きつけ、なおかつ国内牛肉生産の高環境負荷体質を改善して数字で示すことができなければ、日本は環境をダシにして浪費大国の実態を覆い隠すだけの“口先エコ国家”との謗りを免れません
 鯨肉が牛肉のオルタナティブになり得ないことは、日本人のほとんどの方が「誰もその気にならない」時点で、筆者の解説を待つまでもないでしょう。以下の資料がそのことを端的に示しています。

■牛肉と豚肉の都道府県別の1世帯当り月間支出額|全国消費実態調査・社会実録データ図録
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7238.html

 鯨肉消費が全国平均の3倍以上も多い山口、福岡、佐賀、長崎の4県と太地のある和歌山県では、牛肉消費が軒並み高くなっています。辛うじて面目を保っているのは宮城のみ。逆に、鯨肉消費が全国一少ない沖縄は牛肉消費も最低。
 まったく連動していない、すなわち「牛肉の代わりに鯨肉が食べられているわけではない」「鯨肉を多く食べている人ほど、環境負荷の高い牛肉にも依存している」ということです。
 西日本の住民の皆さんを非難することはできませんが、ごく一部を置き換えたとしても、これじゃとても胸を張って「環境負荷を減らしたぞ」とはいえませんね・・
 個人のライフスタイルとしては、もしエコな食生活を実践したいと思うなら、新母船と強力冷蔵庫で環境負荷&国庫負担をさらに増大させようと目論んでいる、フードマイレージ削減のために沿岸に切り替えるという環境負荷低減の最低限の姿勢すら見受けられない、他の食品メーカーが公開しているカーボンフットプリントを消費者・国民に提示することもしない、信用ならない奢り高ぶった業界の供給する超高級嗜好品にして、地産地消の真逆を行く南極産鯨肉が、選択肢に入る余地はありません。鯨肉よりはるかに環境負荷の低い有機畜産鶏肉や廃棄食糧飼料使用豚肉、なおざりにされてきた沿岸の各種魚類(枯渇資源の再生が前提ですが)、そして何より日本の由緒正しき伝統・畑の肉で事足ります。最上掲リンク及び以下のリンクもご参照。

■食生活の変化(1910年以降)|全国消費実態調査・社会実録データ図録
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/0280.html
■"実質ゼロ"日本人の鯨肉消費の実態 (拙HP)
http://www.kkneko.com/shohi.htm
■捕鯨は牛肉生産のオルタナティブになり得ない (拙HP)
http://www.kkneko.com/ushi.htm

 「たとえ世界の食糧生産が十分の一になっても、日本だけクジラで生き残れる」と豪語する愚かな反反捕鯨国粋主義者もいますが、石油が輸入できなくなる時点で商業捕鯨はオシマイです。その前にクジラと南極海生態系を道連れにするのは必至ですが。仮に、共同船舶がSSを見習って新造母船にバイオ機関を搭載しても──あの非エコ企業には絶対にありえない話ですが──同じくエタノール生産を国内で賄うのは不可能。というより、エタノール生産分を食糧に回して飢餓を解決するのがスジというもの。
 筆者は牛肉の消費削減の必要性・現実的なオルタナティブについても明示していますが、速やかかつ大幅な削減は、日本社会でも国際社会でも可能だとは思いません。聖域として多額の税金を投入し続けることなく、母船式商業捕鯨が持続的に成立し得るというおめでたいビジョンと同様、非現実的な主張は誰からもそっぽを向かれるだけです。
 ただし、RMPで認可される捕獲枠のうち、日本が現実的に操業可能な海区分である1/3もしくは1/6程度(要するにJARPA2と同水準)の鯨肉生産で置き換えられる温室効果ガス排出量の削減は、もっと優れた代替品と過剰消費・廃棄削減でいくらでも簡単に達成できるはずです。上掲リンク先もご参照。
 5月2日には、ヴィーガンアースデイフェスティバル京都2010が京都で開かれます。ベジ人口がイギリスなどの5%、レバノンや台湾の30%にはまだまだ遠く及びませんが、かつて人口の9割が実質ベジだった日本としては、これで少しは世界に顔向けできるようになったというところでしょうか。ポール・マッカートニーら著名人が先頭に立ち、畜産メジャー批判と合わせ普及に努めている海外に追い着きたいもの。
 まだ一般的とまではいきませんが、ベジレスも普及してきました。以下のサイトはとても使いやすいナビゲーション・サイト。トップページで署名の宣伝もしてもらっちゃいました(^^;; ありがたいことです。

■マクロビオティック・ベジレストランガイド|VEGE-NAVI.JP
http://vege-navi.jp/

 以下はオマケで、小松氏ではないのですが、某週刊誌の3次ソースをもとに、「米国の方が犬猫を殺している」と主張している反反捕鯨論者がいる模様・・。これはシェルターの傷病老犬猫を含む安楽死数で、日本側に比較できる数字は存在しません。卑劣な印象操作とはまさにこのこと。先進国の多くで既に見られない幼獣店頭見世物陳列販売で“商品”を購入した消費者が、“不要”になったと言って放り出したものを、行政機関が税金で建てた大層なハコモノ施設で引き取り、アウシュビッツよろしく炭酸ガスで窒息死させている国とは違うんですよ。欧米諸国だけでなく、タイやトルコなども日本よりはるかに格上。アニマルポリスが活動している米国、ティアハイムの充実した殺処分数ゼロのドイツを見習おうとせず、「アッチの方が殺しているぞ」と自分たちの行いを正当化しようとする、どこまでも心の寒い国
 別所で述べていますが、筆者は欧米流のキリスト教的責任感に基づく高見に立ったつもりの積極的安楽死推進論(ニンゲン含む)には与しません。ただいずれにしても、ほとんどの施設で炭酸ガス大量殺処分を行っている日本には、言い返せる資格なし。ようやく見直しの機運が生まれつつあるのは、まだしもの救いですが。ところが、反反捕鯨論者の中には、シャチの倫理水準(?)に合わせ、「動物の苦痛に配慮することは一切やめろ」と息巻くとんでもない人物もいるようです。要するに、日本の農水省・環境省・自治体主管の動物関連の各種の法律・基準・条例の類は「ぜーんぶ改訂しろ」って言ってるんですねぇ・・。こうした主張を捕鯨サークルがしてさえくれれば、世界は「やっぱりゼロ以外にあり得ない」と猛反発し、国内でもあっという間に捕鯨賛成派が影を潜めるでしょうに。イカレた動画と同じで、過激なネトウヨも「利用できればいい」というのが捕鯨サークルの考えですから、見て見ぬふりをし続けるんでしょうけどね・・・
 同様に、米国の食糧廃棄量を持ち出している反反捕鯨論者がいますが(拙ブログでも既に過去記事で取り上げてますけど・・)、人口一人当りで比較すれば日本の方が上。これも悪質な印象操作。実は1900万ないし2200万トンといわれる廃棄量の推計は食品産業(食品メーカー・流通・小売・外食)と家庭からのもので、生産段階での日本で特徴的なJAによる規格外品や未利用漁業資源(網にかかっても売れないのでそのまま捨てられる魚)の膨大な廃棄量は含まれていません。米国は確かにけしからん浪費大国ですが、日本はその上を行っているのです。「クジラを余すところなく利用してきた」「モッタイナイを広めよう」と豪語している国が、自分より悪い国がどっかにないか粗探ししまくって自己正当化を図ろうと必死になる・・これほどミットモナイことはありません。コンビニ・外食チェーン・自販機が国中所狭しに氾濫し、見た目が悪いものを買わない/売らない主義に陥り、賞味期限が近づくとバッチイと思って選り分ける潔癖症の国として、やはり捕鯨ニッポンほどモッタイナイの正反対を行く国はないでしょう。
 食糧をこれほど無駄にしていない国、殺処分をまったく行っていない国を見習い、少しでも減らしていく不断の努力をすればいいだけの話。
 小松正之殿、「ダメになった日本の漁業を立て直したい」とのお心がけが、自分の推進した捕鯨偏重政策の所為で水産行政に大きな歪みを生んでしまった責任を感じているのか、単に自分の業績を誇るための“付け足し”なのか、どっちなんだか筆者には判断がつきかねます。前者ならまだいいんですが・・。本心から日本の漁業のためを思っているのなら、ウヨガキ化だけはやめといた方がいいですよ。

 

◇吉高の大桜

(過去記事はこちら)
http://kkneko.sblo.jp/article/28833920.html
http://kkneko.sblo.jp/article/14961110.html

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 今年も会いに行ってきました。天候不順が続いたのと土日を避けて行ったこともあり、この日はまだ二分咲きでしたが。気になったのは、今年は花芽がかなり少なかったこと。年内に養生の作業をする予定とのことですが、なんたってもう300歳だからねぇ・・。
 この大桜、第二次大戦中に物資不足を理由に薪にされるところだったそうです。ハチ公像じゃないけど・・。ところが、あんまりデカくて伐る道具もなかったもんだから難を免れたとか。冷や汗もののエピソード。
 これほど見事な、誰からも親しまれている桜をただの資源として伐り倒そうとしたニッポンが、私はでっきれえです。
 辛くも難を逃れたこの木を、大切に見守ってきた人たちのいる日本が、私は好きです。
 印旛村は今年4月から印西市に吸収合併されましたが、何しろ植木屋がミニ土建と化しているような街で、首都圏近郊としてはまだかなり豊かに残っている自然が台無しにされちゃわないかと不安を感じます。桜の開花予報などをまめに発信していた村役場の人も、合併で人員削減され仕事を引き継いだらしく、サイトの更新も疎かになる始末。ついこの間の「東京マガジン」でも登場し、市役所の担当者が番組史上に残りそうな迷言を発したり・・。
 今回訪れた際も、7月には成田に直通する予定で試運転が開始された北総鉄道の電車の走る音が聞こえ、静寂を破って雰囲気をぶち壊していました。もうすぐそばから高架が見えるんですよね・・。老いた桜もさぞかし五月蝿かろうに。寿命にも差し障りそう。

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 きれいに使われている休憩所(5年前までは駄菓子屋さん)。地域コミュニティが都会の街よりよっぽど維持されている証拠。この先が心配だけど・・。

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 今回は吉高宗像神社まで足を伸ばしました。印旛沼もすぐ見下ろせるところにあります。立派な木があって寛げる場所です。シーサーかギリシャ神話の海の怪物を思わせる愉快な狛犬(?)が鳥居の前に2体鎮座。

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 蛙塚。明治二十年代に建立された蛙を祀る塚。字はほとんど判読不能だが、どうも「下に蛙が埋まっている」と読める・・。一体どんな事件が起こったのやら。開墾時に犠牲(?)になったカエルたちを供養したのかしら・・

042105.jpg
 毎回訪れる化石発掘現場の近くではイノシシ、キジ、テンらしい足跡がくっきり残ってました。もうひとつ大きなのはイヌのよう。この辺はキジ撃ちが入ってきてるかもしれない・・

 今回もオオタカはじめ野鳥にたくさん出会いましたが、桜見物に来た人の連れたワンコの方が遭遇回数は多かった・・
 印旛村には松虫寺という寺と、牛むぐりの池と呼ばれる池があります。池の方はニュータウンの調整池にされちゃいましたが・・。松虫姫は、奈良時代に実在したお姫様(聖武天皇の第三皇女)。重い病気(ライ病とも天然痘とも)にかかり、行基らとともに下総の地に養生に訪れ、養蚕や機織の技術を伝えたとされます。その松虫姫を運んだ一頭の牛がいたのですが、姫が都に帰ることになったとき、既に老いていて同行できず、姥とともに残ることに。一緒に帰れないことを悲観した牛は、池に自ら身を投じて命を絶ち、哀れんだ村人がそのときから牛むぐりの池と呼ぶようになったそうな・・・
 胸にじーんとくるお話ですね。日本人なら。本来の。 
 殺す文化はもう要らない。殺さない文化を取り戻そう。地産地消と合わせて。
 殺さない文化はどうでもいいが、殺す文化は南極にまで拡張しなければ気がすまない──そんな国に成り果ててしまったことを知ったなら、姫も牛もさぞかし嘆くことでしょう。

参考リンク:
−印旛沼の心やさしい竜
http://www.inbaryu.sakuraweb.com/
 

◇捕鯨と戦争のない明日のために

 おかげさまで、クジラとジュゴン・リンク署名は日本語版・英語版合わせ1000筆を突破しました。アースデイ代々木のイベント会場にてオフラインでの署名にも来場者の方々にご協力いただけました(Mさん、多謝m(_ _)m)。残念ながら開始当初の勢いが途中で衰えてしまったのは、主催者の私の不徳(&準備不足・リレーション不足・ステータス不足)の致すところで、賛同人としてお名前をお貸しいただいたロバート・シーゲル先生と小原秀雄先生、翻訳作業等でお力添えをいただいたCFTさんはじめ、ご協力いただいたたくさんの方々には本当に申し訳なく思っています。とりわけ小原先生には、拙著を学生の皆さんに紹介までしていただきながら、ご期待に応えることができず合わせる顔がありません。
 前世紀に終わっていて然るべきだった歴史の負の遺産を今日まで引きずってしまったのは、捕鯨協会の委託を受けた国際PR・梅崎義人氏らの演出の手腕と、大勢の“信徒”たちの凄まじいまでのルサンチマン・パワーがあったからですが、同時に、こちら側のアプローチにも大きな問題があったことは否定できません。
 ただひたすら反対を唱え、一方的に相手に価値観を押し付けるやり方、暴力までふるうやり方は、やはり間違っています。相手側のプロモーションに利用され、逆予定調和にはまりこむだけ。欧米中心の反捕鯨運動の海洋生態系・クジラたち野生動物に対する責任はあまりに大きいといわざるを得ません。
 集まった署名の数は確かに多くないかもしれません。ですが、日本語版の署名にお寄せいただいた皆さんのコメント欄を読んでみてください。皆さん一人一人が自分自身の考えを、自分自身の言葉で伝えてくれています。そのひとつひとつが、もう私の出る幕などないと感じるほど、強く胸に響くものがあります。そしてまた、英語版署名の方も、欧米だけでなく、アジアから南米から中東から、本当に世界中の国々の方がサインしてくれました。日本と同じ捕鯨国のノルウェーやアイスランドからも。
 この署名は、これからの時代の、あるべきアプローチです。
 お互いに譲り合いましょう。
 クジラを守りたければ、米軍の利権のために沖縄の海を壊すのはやめてください。

 ジュゴンを守りたければ、水産庁と拡張主義者のメンツのために南極の海を汚すのはやめてください。
 最初から何も変えられないと決め付けたり、諦めるのでなく、実効的な成果を引き出すために、引くべきところは引きましょう。

 お互いに譲れば、“恨み”に駆られていつまでも引きずることもありません。
 価値観の違いを憎しみのステージにまで引き上げてしまうのは、万物の霊長にあるまじき愚かなことです。 

 イスラエルとパレスチナじゃないけれど、欧米に対する怨嗟に駆られた捕鯨ニッポンのプロパガンダは歴史上の汚点にしかなりません。
 日本が拡張主義的姿勢を引っ込め、米国の本音の部分にある不信感をなだめることは、沖縄の平和に間違いなくつながります。逆に、南極の捕鯨にこだわり続けることで、失うものはあまりに大きすぎます。
 
 海兵隊と核と公海母船式捕鯨が、近い将来に過去のものとなりますように。
 基地・軍隊・戦争と、商業捕鯨・工場畜産・犬猫殺処分のなくなる日が、そう遠くない将来に訪れますように。
 豊かな自然と動物たち(ヒト含む)の命が脅かされない平和な世界を、次か、その次くらいの世代には築くことができますように。
 自然の多様性を損ねず、命を貪らない暮しができるくらいに、人類が賢くなる日がきますように。

 カガクの力で何もかもコントロールできると嘯き、同じ命を資源/商売の道具としかみなさず、力づくで南極の自然まで征服しようとしたがるニンゲン自身、ただのサルの一種にすぎません。死ねば肉であり、塵。
 ヒトが、本当にクジラやウシやイヌやネコたちより優れた動物であると証明するためにも、過去の過ちから何も学ばず自分を誤魔化して尊大に振る舞うのは、もういい加減やめたいもの。
 ニンゲンが自然の一部であり、動物の一種であるという事実は、どれだけ文明が発達しようが決して変えられないのですから。
 フィクションはフィクションの中でだけ楽しみましょう。日本人なら得意のはず。


 そういうわけで、筆者は本日4/21から署名集約日の5/20までの二十日間、断食(本断食)に入ることにしましたニャ〜。署名も届けなきゃならんので(汗)、もちろん生還予定で水と梅干は摂取しますが。
 まあ責任もあるんですが、本も売れないし新作コケて他に芸がないもんで(--;; しばらくの間あまりネットにつなげなくなりますが、ご了解のほどを。折り返し点で一度生存報告をしたいと思います。署名は集計後数日以内にマスコミにも連絡のうえ首相官邸まで届けます(オバマ大統領宛は米国から発送)。
 引き続き応援(署名の方の)よろしくお願いいたししますm(_ _)m

posted by カメクジラネコ at 21:03| Comment(2) | TrackBack(0) | クジラ以外