いつも絶妙のタイミングで姿を見せてくれるサービス精神旺盛な子や、滅多に訪れることのない珍客の登場に、心躍らせながら、充実した時を過ごしました。
姿と声、滑らかな動きで魅了してくれた鳥たちに、「写真たくさん撮れたよ」とはにかみながらカメラを見せてくれた子供たちに、同じ現実の世界で起こっている数々の血生臭い出来事を、忘れさせてもらいました。
ほんの一時だけ。
国民がこの国の舵取りを委ねた、最も優秀なはずの人たちが、そこまで無能なはずはありませんから。
結果、見事に裏切られました。
日本政府が無能だったから、愚鈍だったから──だとすれば、当然その責任を負わせるべきでしょう──ではなく、《人の命は二の次》という価値観のもとで事態の処理に当たっていたからです。
ましてや、事件や事故に巻き込まれ、瀬戸際に立たされた人の命が、「助かってほしい」という祈りの声もむなしく、断たれてしまったとき、人は打ちのめされ、どん底に突き落とされ、多量のエネルギーを奪われます。
赤の他人だとしても。近しい人であればなおのこと。
それでも前を向いて生きていこうと、人は懸命にあがきます。
しかし、喪い、奪われたことの悲しみ、圧倒的な喪失感を埋め合わせるには、それを上回るだけの、圧倒的に大きく、強い心の支えが必要です。
残念ながら、今の社会では、喪った人たちに対する十分なサポートを提供する仕組みは出来ていません。世界中のどこでも。
十分な支えのない人に、「自分で立ち直れ」と強要したところで、意味はありません。できないものはできないのです。
そこで、人は、ぽっかり明いた心の穴を埋めるものが他に何かないか、探し求めます。前を向いて生きていくことをやめた人以外は。
そして、この21世紀にあっても、心の支えの代替品として最も普及しているのが、怒りであり、憎しみであり、復讐心に他なりません。
ISISはまさに、世界の警察を気取る大国とそのパートナーが引き起こした大義なき戦争≠ノよって、罪のない家族を奪われた大勢の人たちの怨嗟が具現化したバケモノです。
しかし、そこにいるのは間違いなくニンゲンです。私たちと変わりない。
救出を願った世界中の多くの市民も、悲しみをともにしつつも、その願いを共有しているはずでしょう。
テロリストと同じ論理に乗っかり、大義≠命に優先することを、潔しとする人はしないでしょう。
「目には目を!」とばかり報復を誓ったり、憎悪の火を焚きつける人はいないでしょう。
それこそは、故人の遺志に反し、「テロリズムに屈すること」だからです。
バケモノであっても中身はしょせんヒトであり、そこまでエゴを肥大化させてしまった何らかの要因があるはずですが・・
なぜ2人の命が失われてしまったのか。
彼らは決して具体的に述べようとはしませんが、文脈から考えれば、次のとおりにしか受け取れません。
そして、人質の1人湯川氏は、要求に従わなかったペナルティとして殺害を実行するというテロリストの意思を明示する形で、実際に殺害されました。
つまり、特に後藤氏の場合は、日本側が引き延ばしのための交渉のテーブルにさえ着かなかったのであれば、ほぼ100%回避不能なリスクだったということです。
リスクという言葉を使うこと自体過ちといえるほど。
安倍首相らの言葉が意味するのは、ほぼ確定的に失われることになる国民もとい(自己責任のある)国民の尊い人命より、もっともっともーーーっと優先すべきことが国にはあるんだ──ということです。
国民もとい(自己責任のある)国民の1人2人の命が失われるというリスクを捨てて、択るべきベネフィット、実≠ェあるのだ──というのが、日本政府の立場というわけです。
その、二人の命を救わず、見捨てることによって得られるベネフィットとは、一体何なのでしょうか?
日本はこれまで、中東をはじめ世界各国に人道支援を行ってきた実績があります。
軍事介入と一線を画す人道支援に徹してきたこと(NGOの果たしてきた役割も含め)こそ、過去に海外の日本人がこうした人質のターゲットとならずに済んできた大きな理由であることは、各所で指摘されているとおり。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/itokazuko/20150131-00042568/
何がその差を決定付けたのでしょうか。
2つの事例を対比し、検証することで、「命を損ねない外交のノウハウ」を確立することは十分可能なはずです。
霞ヶ関の賢い賢いエリート外務官僚さんであればなおさら。
http://www.refugee.or.jp/jar/release/2014/03/20-2000.shtml
−<解説> 問題の根源・日本の難民制度・難民政策
http://www.kt.rim.or.jp/~pinktri/afghan/japanrefugee.html
NGOや国連機関を通じた支援も、立派な人道支援に他なりません。
もちろん、日本には日本に向いた、日本のやり方もあるでしょう。
「安倍政権の人道支援」は、過去の日本の人道支援や、人質返還交渉に成功している他国による人道支援より、はるかに優れたもので、それ故に「(自己責任のある)国民の1人2人の命を犠牲にするだけの価値がある」というのでしょうか?
ちょっと過去の日本による人道支援≠フ事例を引っ張り出してみましょう。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/18/rls_0622i.html
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/kaiken/gaisho/g_0606.html
−小泉総理によるアフリカ政策演説 アフリカ − 自助努力の発生地へ(仮訳)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/18/ekoi_0501.html
金額は1億ドル(当時)。民族対立が発端となり「世界最悪の紛争危機」と謳われた同国の内戦では、ISISを彷彿とさせる深刻な人権侵害が報告されていたわけです。ついでにいえば、米対中ロの対立構造も持ち込まれていました。
しかし、外務省の説明も、「スーダンのダルフール地域における人道状況の改善のため」とあるのみ。
引用したのは、小泉元首相の2005年5月アフリカ訪問時のスピーチ。どうせ官僚が書いたんでしょうけど、「(中国が肩入れしている)政府系民兵組織と戦う周辺地域に1億ドル」なんて、勇ましい挑発の表現はもちろんありません。
官僚が用意した原稿に自分で余計な文言を付け加えないだけ、元首相はまだ賢かったといえそうですね・・
日本政府による人道支援が、「余計な一言」など一切加えることなく可能なのは、誰の目にも明らかです。
http://hunter-investigate.jp/news/2015/01/28-abe.html
しかし、全体で25億ドルの規模に上る中東地域への今回の支援策の中で、ISISがかみついたのは2億ドル。
その名目は、私たち国民が思い描く人道支援≠ニはややニュアンスが異なっています。
イスラエルに売り込みに行くのは、人質問題が解決してからでも遅くはなかったはずです。
威勢のいい文句をぶち上げるのは、国民1人、2人の命より大事なことなのでしょうか?
ODA大綱を改定して軍事/非軍事の境界線を曖昧にし、軍事転用へのハードルも下げたうえで、イスラエルとのビジネスを急いで取り付けることが、国民1人、2人の命より優先すべきことだったのでしょうか?
身代金や人質交換等の要求に単に応じないばかりか、交渉さえまともに行う努力を払わない形で、人質を殺させるという最悪の結果をもたらすことが、「テロに屈しない」ことを意味するのでしょうか?
人質解放に成功したフランスやスペイン、トルコなどの国はすでにテロに屈しており、一方、英米等人質を殺された国はテロに屈しておらず、日本はこれまでテロに屈していた国だったが、安倍政権のおかげで今回ようやく「テロに屈しない」国の仲間入りを果たせた、ということでしょうか?
ISISは、「お前の国民はどこにいたとしても、殺されることになる。日本にとっての悪夢を始めよう」と宣言しました。もはや日本国民であるというだけで、私たちはテロリストから標的とみなされるようになってしまったのです。
すでに、国民の預かり知らないところで、日本は勝手にISISと戦う有志連合の一員に加えられてしまっています。
軍事行動に参加したわけでも、これから参加するわけでもないのに、空爆をしている有志と同列扱いされてしまったのです。
長年人道支援に徹することで、中東の人々に一定の理解を得ることに成功し(ビジネスが目的の面もあったとはいえ)、軍事援助が疑われる援助を自らに厳しく戒めてきた日本が、なぜ?
今回の中東訪問で安倍首相が虚栄を張ったから──という以外に考えられないでしょう。
もちろん、外務省は「米国に寄り添うことが日本にとって最大の国益になる」との信条のもと、イスラエルを支援する米国の立場に合わせるよう、少しずつ日本の外交方針を調整してきました。それは、沖縄からTPPまで、一連の対米交渉の経緯を見ても明らか。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150126-00000007-pseven-soci
テロは予告どおり決行され、かけがえのない2人の命が失われました。日本政府は実質、指をくわえて眺める以上の働きをしなかったも同然でした。
現実的な合理主義者の観点から見ても、海外在住邦人、現地日本法人はもちろんのこと、すべての国民がテロに巻き込まれるリスクが突然跳ね上がったのです。
結果としては、米国と一蓮托生で軍事作戦に参加するといった、大きな政策転換が図られたわけではないにもかかわらず。
身代金を払うことで味をしめて邦人誘拐が繰り返される可能性については議論もありますが、誘拐から殺害、破壊の対象に切り替わることをプラスだと考える人間はいないでしょう。
http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2014/0515kaiken.html
皆さんが、あるいは皆さんのお子さんやお孫さんたちがその場所にいるかもしれない。その命を守るべき責任を負っている私や日本政府は、本当に何もできないということでいいのでしょうか。内閣総理大臣である私は、いかなる事態にあっても、国民の命を守る責任があるはずです。そして、人々の幸せを願ってつくられた日本国憲法が、こうした事態にあって国民の命を守る責任を放棄せよと言っているとは私にはどうしても考えられません。(引用、強調筆者)
自衛隊による作戦行動以外の解決法は、何一つ存在しなかったのでしょうか?
過去に軍事的手法でそれに成功した事例といえば、1976年のイスラエル軍によるウガンダのエンテベ空港奇襲作戦くらい。40年近くも前の話で、それもイスラエル軍が空港の図面を持っていたなど特殊な条件が重なってのことで、突入部隊からも人質からも犠牲者が出ています。
旧フセイン政権の残党からなる軍事プロ集団から、今の自衛隊が隊員も人質も無傷なまま救出を敢行できるなどと考えているとすれば、「平和ボケ」「脳内お花畑」の謗りは免れないでしょう。
過去の日本も含め、「『テロに屈しないぞ!』と表明することで保たれる国家の面子」よりも、人の命を優先する国では。
ただ、「自衛隊の海外派遣を認めさえすれば、人質は救われたんだ」とこじつけるばかりで。
人質を救出できないばかりか、犠牲者をさらに増やすだけの結果になる可能性の方がはるかに高いにもかかわらず。
「くだらないこと」にこだわるのをやめさえすれば、確実に助ける手立てはあったはずなのに。
エグザイルやモモクロに会って記念写真を撮る労は厭わなくても。
人権侵害という意味では等価のはずの北朝鮮拉致被害関係者への対応に比べても、その冷淡さには驚愕を覚える他ありません。
それは、捕鯨を中心に環境と動物の問題に関わり続けてきた身として、筆者にとっては避けて通れない命題でした。
それは、同じひとつの命でありながら、今の私たちの社会において、等しく扱われているとは決して言えない、ヒトの命の取扱に関しても同じです。
答えを押し付けるつもりはありません。
ただ、思うに、誰もがいま、自分の立ち位置を改めて確認する必要があるのではないでしょうか?
違うとおっしゃる? じゃあ、「リスク」とは、「テロに屈しない」とはどういうことなのか、国民にもっと具体的にわかりやすく説明してくださいよ、総理大臣殿。
国内でも、ネットでの反応を見る限りでは、同じ命に対する赤と青のダブスタをすんなり受け入れている人が相当数いるものと理解していいでしょう。
責任を感じ、幼子と妻を置いて、知人を助けられるわずかなチャンスに賭けようとした人に向かって、自決を迫るイカレた人たちと同調するネトウヨ層の存在が示すとおり。
そもそも、米国が仕掛けた大義なき戦争による空爆が、家族を奪われた人々のやり場のない怒り・憎しみを呼び、テロ組織をここまで増長させる結果を招いたというのに──
近しい人々が発信していることですが、紛争地に暮らす人々の日常──笑顔も、悲しみも、苦しみも、ありのままを伝えることがジャーナリストの使命だと考え、それが彼自身の活動につながっていたことが、著作や講演からも読み取れます。
醜悪さも、高潔さも、正負両方の側面を抱えたのが、ありのままのニンゲン。
そのうちの一方を切り取り、憎悪の連鎖をもたらした米国とそれを支持した日本の責任に一切触れることなく、検証することなく、間違いなくニンゲンから成るはずのテロ組織の非人間性ばかりに焦点を当て、「殺し返す」ことを正当化するのは、はたして彼の遺志を継ぐことだといえるのでしょうか?
かけがえのない人の死が、21世紀の大政翼賛会に利用されないよう、命の重み、そこに線を引くことの是非を、私たちは絶えず問い直し続ける必要があるのではないでしょうか──?
−後藤健二さん「憎むは人の業にあらず...」 紛争地の人々に寄り添い続けた日々
http://www.huffingtonpost.jp/2015/01/31/goto-kenji-the-journalist_n_6587580.html
−日本人人質事件を引き起こしただけでなく救出に失敗した責任を取り安倍首相は辞任すべきだ
http://blogos.com/article/104753/
−日本人拘束 安倍首相のバラマキ中東歴訪が招いた最悪事態
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/156580