2013年06月14日

お願い・犬猫譲渡活動をされている皆さんへ

 SNSを中心にした捨て犬猫の譲渡活動において、その一部が「いついつまで見つからなければ保健所に連れて行きます」と明示する形で行われていることについて。
 譲渡活動といってもピンキリですが、もし「保健所行も可」という形の活動が少数でないとすれば、きわめて残念なことです。

 従前から、保護した犬猫の一部を「殺す」「間引く」ことを容認する団体、活動はありました。それは、多数存在する動物愛護系市民団体・運動における大きな路線の違いの一つです。
 行政の殺処分施設に持ち込む、つまり一般の持込と結局変わらない場合もあれば、表立ってできることではありませんが、内々に安楽死処分というケースもあります。運動畑においでの方は、とっくにご承知のことだと思いますが。
 最近では、米国の大手動物愛護団体PETAが行っていた大量の自家殺処分に関する報道が、記憶に新しいところでしょう。
 多くの場合、理由はいたってシンプルで、要するにキャパシティ・オーバーということ。
 それは、多頭飼育崩壊に起因する保健所行とも、保護の帰結という意味では同一です。


 譲渡活動の主体が個人であり、頭数の実績がNPOに比較して少ないとしても、保健所行を一頭でも容認すれば、その時点で明らかなキャパシティ・オーバーです。
 背伸びのしすぎ。風呂敷の拡げすぎ。
 積極的に、主体的に「命を奪う」ことも前提に含め、許容する保護。
 はたしてそれで保護といえるのでしょうか?
 それは、行政機関である動物愛護センターが行っている「一部を譲渡し他を殺処分する業務」のアウトソーシングに他なりません。センター側の委託ではなく、自主的に行っているというだけで。
 命を選別し、生かすものと殺すものに振り分ける、殺処分の前段となる窓口業務を担っているだけです。


 個人は、拾う行為も含めて、「キャパシティの範囲」でやりましょう。
 「殺す」という一線は決して越えないでください。
 殺す作業自体は他人がやっても、その子の死を確定する行為は文字どおり「殺すこと」です。
 行政機関や団体に代わって、個人が命の選別作業に取り組む必要はありません。
 拾いきれなくても、保護しきれなくても、いいのです。
 もし拾う機会があったら、その子の飼い主が現れるまで、辛抱強く、忍耐強く、いつまでも待ち続けてください。
 どれほど時間がかかってもいいのです。時間がかかるのは責められることではありません。
 一頭拾ったら、最後の最後まで、その一頭を責任をもって生かしてください。
 「見つからなければこの子は保健所で殺される運命なのだ」などと最初から考えるのはやめましょう。
 「殺される運命」を考える必要はありません。
 里親が見つかり引き渡す日まで。
 最後まで、諦めずに。
 それは出来るはずです。
 そこまで「完結」させたうえで、「次」に移ってください。
 それが済んでから、「次」の子を捜してください。
 どうしてもできないというのなら、最初から拾わないでください。
 「保健所での殺処分という完結」はなしです。
 殺されるためにめぐり会ったのではないはずです。持ち込めば、その時点であなたは誤魔化しようもなく、「助けた人」ではなく「殺した人」になってしまいます。「殺されるための出会い」にすぎなかったことになってしまいます。
 いったん保護した子を、期限が来たからと保健所へ連れて行って殺すのだけは、どうかやめてください。
 生体販売された犬猫を「かわいそう」に思って金を払って「保護」したはいいけど、面倒を見切れず最後に保健所に連れて行く、その延長線上にすぎません。
 保健所に持ち込むのが、たとえ一時的に拾う「善人」だろうと、買って捨てる「悪人」だろうと、同じです。その子を殺している意味において、完全に同一です。数字がその違いを示すことはありません。
 殺すのは、「誰かに代わって責任を取る」ことを意味しません。永久にその責任を放棄することです。
 それは譲渡活動ではありません。《譲渡及び殺処分》活動です。
 生体販売に始まり、行政殺処分に至る一連のサイクルの中に完全に組み込まれている、殺処分の数字を生み出す流れの一部です。捨てる行為から殺処分に続くプロセスを仲介しているだけです。


 積極安楽殺団体も、多頭飼育崩壊も、根っこは同じです。
 あなたの、あるいは誰かの目にとまらない「不幸な猫」が一頭も存在しない、ニンゲンの管理下・監視下に置かれない猫が一頭たりとも存在しない世界(ユートピア)を目指す──そんなものはフィクションです。
 イキモノを、思い描いた計画に則り管理し、個体を取捨選別して生死を決定付け、繁殖を制御し、個体数をコントロールする。自身が絶対的存在になったかの如く。
 自身も生きものにすぎないニンゲンに、そんな真似はできません。絶対にできません。ニンゲンの管理でさえ。
 それは最初から幻想≠ナす。
 「不幸な猫を一頭もなくしてやる」と片っ端から拾い集めても、選別して一部を生かし、一部を殺す、その作業が延々と続くだけです。
 幸せかどうかは一概にはいえません。しかし、筆者の立場から言えば、ニンゲンにとって生死を決められるのは不幸です。ガス室に送られ殺されるのは、これ以上ないほど明らかな不幸です。


 「一部は殺してもしょうがないね」と言ってしまった時点で、現在行われている行政殺処分を容認する社会との差は、相対的なものでしかなくなってしまいます。
 私たちの社会では大量の犬猫が殺処分されています。
 だからといって、あなたが拾って保健所に持ち込む必要はありません。
 社会で畜産が行われ、肉食があったとしても、あなたが肉を食べなくてもいいのです。
 捕鯨が行われているからといって、あなたが鯨肉を食べなくてもいいのです。
 それと同じです。
 自分が生きていくために食べるものは、必要ないといっても個々人の選択に委ねるしかありませんが、「保護→殺処分」は自分のことではありません。
 それは「命を奪うお節介」です。


 命を奪う一線を越えれば、その事実は永久に消えません。
 それは自分の感覚を麻痺させることです。
 「動物(猫)は仕方なければ殺してもいいものなのだ」と、自分を納得させてしまうことです。
 殺すのに目をつぶるよりは、保護しきれないことに目をつぶってください。
 殺しに至る一連のシステムに、積極的に自分を組み込む必要は、ありません。
 確かに、私たちは全員納税者というだけで、動物を殺処分する社会に加担しています。だからといって、自分が「誰かに代わって命を保健所に送り込む作業を引き受ける」義理はありません。
 「動物を救いたい」という志を持っている人は、「できる範囲で」救うこと「だけ」してください。
 できないことまでやろうとして、結果として命を奪うのは、動物を助けることではありません。
 ベテランが自身のキャパシティを弁えず、常習的に保健所送りを許すのは、決して誉められることではありません。
 初めて拾った人であれば、責任を理解し、自分のキャパシティを認識してもらえば済む話です。
 キャパシティは、こなせる能力に応じて、余力に応じて拡大していってください。
 そのほうが、前を向けるはずです。


 どうかお願いです。
 「自分ができる範囲で」活動してください。
 「できる範囲」とは、「殺さないですむ範囲」のことです。
 自分のキャパシティを自覚してください。
 大小を他人と比較する必要はまったくありません。
 少なくとも個人は、殺すこと「まで」活動に含めてはいけません。
 行政機関や運動団体など組織の場合、個人の良心を欺くのが容易になるのでなおさら問題ともいえますが、少なくとも一人の人が他者の命を奪う罪を一生背負い続けることにはなりませんから。



 これは筆者個人の価値観に基づく、身勝手なお願いです。
 筆者にはお願いすることしかできません。
 社会的合意と法整備の段階を踏まない限り、誰であれ、他の誰かに対して、個人の活動を強制したり、やめさせることはできません。
 行政機関や企業の活動であれば、それなりのアプローチもありますが、個人に対しては呼びかけることしかできません。
 ことこの問題に関しては、捨てる犯罪行為に対し実効性のある取締が行われず、行政自らが殺処分を引き受けているのですし・・
 拾うのは善意の方で、負う責任が小さいのはまさにそのとおりですし・・
 耳を塞がれてしまったら、声さえも届きませんが。
 声が届かないのは、原発、沖縄、捕鯨、みんな同じですけど・・
 筆者は無力です。
 しかし、無力であっても、微微たるものであっても、「できる範囲」「殺さないで済む範囲」のことをします。
 できる範囲を越えることは、しません。
 当面はクジラとジュゴンとキツネになりますが。


◇◇◇


 動物(猫)の殺処分施設持込を受忍してしまう譲渡活動とその思想的背景は、動物福祉(AW:Animal Welfare)と動物の権利(AR:Animal Rights)の問題と根深く関わっています。


 A.ニンゲンによって確保されない状態は容認できないが、命を奪うことは受忍限度内
 B.命を奪うことは容認できないが、ニンゲンによって確保されない状態は受忍限度内


 この相違は小さいようで途方もなく大きなものです。
 関心のない人たちから見れば、動物愛護の内輪の揉め事で、毛ほどの差もあると思われないかもしれません。
 しかし、この二つは宗教の中におけるキリスト教と仏教ほどにも開きがあります。
 どちらの宗教も、ヒトの福利のためにあるものだとしても、根底の部分で相容れないのと同様に。こんな比喩を出すと、また誤解を受けるかもしれませんが・・。
 別の喩えを持ち出すなら、計画経済と自由経済と同じくらい対立する概念です。内容としてはむしろこっちの方が近いかもしれませんね。
 AWとARの違いについては、各所で解説されていますし、過去記事でも触れましたが、AWは「5つの自由」に代表される「福祉のみ」に配慮する立場。誤解がありますが、「殺せ」ではありません。「殺すか殺さないか不問」です。不問であるが故に、殺しが前提となっていても導入が容易な概念です。そこが利点という言い方もできるでしょう。「弱い動物愛護」という見方もあるようですが、それも誤解です。一方、ARはニンゲンによる利用に関わりなく、動物の固有の権利を尊重する立場。権利の概念の中身についてはもちろん議論があります。この2つは、自然保護における干渉主義と放任主義の二つの立場とも密接な関わりがあります。一般にARの方が過激、ラディカルな印象がありますが、運動団体の手法・戦術ではなく「考え方の違い」であって、穏健なARと過激なAWもあり得ます。また、どちらも現実的な立場も非現実的な立場も取り得ます。
 実は「福祉か権利か」は表面的な違いで、重要なのは、二つの概念のベースとなる価値観です。

 動物とニンゲンの「命の違い」により重きを置くか、「命の同質性」により重きを置くか──。

 家庭・地域でキリスト教を始めとする宗教の影響を強く受けて価値観が醸成される欧米圏その他の地域の市民は、圧倒的多数が基本的にAWの立場に近いといえます。
 日本は伝統的価値観でいえば、世界でも少数派といえる、ARに近い動物観・生命観・自然観が主だったのですが、明治以降に西洋の価値観に侵食され今ではすっかり形式だけになりました。西洋との違いを強調するとき「だけ」、生かすためではなく殺しの正当化の文脈で「のみ」、引き合いにされることがあります。捕鯨論争がその典型ですが。

 一言でいえば、AWの底流にあるのは、ニンゲンの命だけは特別だ、という考え方。だから、共通の概念を導入しようとするARの立場に首を捻るわけです。その裏には、ニンゲンは神の子であり、(ニンゲン以外の)動物たちは、神から神の子に与えられた"賜物"である。だから、"賜物"を正しく愛護し、福祉に配慮する責任を、ニンゲンは神に対して有している──という宗教的思想が潜んでいます。それぞれの宗教の立場で推進してもらうのは、もちろん当の動物にとって結構なことなのですが。
 対するARのベースにあるのは、人権を敷衍した個体の権利の概念と併せ、ヒトがサル目の哺乳動物の一種にすぎず、命はすべてひとつであり、生は再現不能な現象である──という科学的動物観・生命観に結びついています。
 日本の場合、神の創造という考え方にピンとこない人が多数であっても、皮相的なニンゲン至上主義だけは、おそらく世界のどこの民族よりも支配的になってしまったように感じます。
 そして、日本の動物愛護は、一部の先進国のAWと表面的に同質のものが主流になってしまっています。移入され、常に欧米と対比されながら運動が行われてきた背景がある以上、やむを得ないことかもしれませんが。
 余談になりますが、日本の捕鯨の現状に関しては、AW/ARいずれの観点からも容認されるものではありません。どちらに対する配慮も恐ろしく欠如しているからです。配慮する姿勢がなく、「配慮するな」と堂々と叫ぶのが反反捕鯨の立場だからです。一部実在するトンチンカンなAW/ARを使えば、捕鯨擁護の屁理屈もひねり出せなくはないけど・・
 畜産や狩猟・捕鯨などの問題の方がAW−ARのスタンスの差が鮮明になりそうに思えますが、犬猫問題は身近で裾野が広く、産業動物とは利用の仕方、命の奪われる状況が異なるため、とても厄介です。


 野生動物はAR、犬猫はAWという立場も、少なからず存在します。「野生動物と犬猫は違う」という理屈なのですが・・。この立場はしばしば、「野生動物は自由でいいが、犬猫は徹頭徹尾ニンゲンによって管理されるべきであり、それが犬猫の幸せなのだ」ということを、ことさらに強調する傾向があります。
 しかし、犬猫はヒトの手で造りだされたホムンクルスなどではありません。本質的に、他の動物と何も変わらない命です。多少歪められただけです。ニンゲン自体、自己家畜化の過程を経てこうなっちゃった≠けですけど・・・
 有史以前から、ヒトと犬猫は一種の異種混交社会を形成してきました。ヒトの側の働きかけが強かったとしても、それは決して一方的な関係ではありませんでした。おそらく最初は何人かの動物好きによる、何度か養育の試みがあったのでしょうが、それ以前からお互いに距離が接近していく共進化の過程に入っていたでしょう。それが一方的な支配関係に変質していったのは、やはり近世・近代に入ってからに違いありません。それでも、必ずしもニンゲンの思惑に沿ったとはいえませんでした。
 遺伝子が企業ビジネスの特許資産になるご時世、現代に入って犬猫のホムンクルス化が現実味を帯びてきたともいえるでしょう。しかし、それでも「ニンゲンが犬や猫という種、命を管理し、コントロールすることが可能だ」というのは、あまりにも奢ったオプティミズムではないでしょうか?


 確かに、犬はもうある程度ヒトの鋳型にはまってしまったのは否めません。しかし、猫はヒトに寄り添いながらなおかつ自由であるのが本質の動物です。そこが猫の猫たる所以です。
 猫を猫でなくすることはできません。猫にあらざる異質なホムンクルスにすることは。
 日本では地域猫活動の普及で殺処分数を減らせる余地もまだ残っていますが、いずれ必ず限界がきます。現場で携わっている方は、それを感じているはずです。
 非理性的で非妥協的な一部の動物嫌いへの対処も壁の一つ。下手に出るだけでは、「たかが動物」という意識が変わらず、やはり解決しないのです。行政とNPOの広報にはしばしばいいことしか書かれていませんが、筆者は関係者の愚痴、腹の内も聞いて知っています。
 そして、蛇口の生体販売問題。
 優先順位がひっくり返った皺寄せを食らっているのは、間違いなく動物です。
 市民のエネルギーが、保健所行を容認する《尻拭い活動》につぎ込まれてしまっているのです。
 ある程度の繁殖制限、健康管理は必要でしょう。しかし、究極の、完璧なコントロールなどそもそも不可能なのです。絶対にできやしません。
 一部の楽天的すぎる地域猫活動の描くビジョンは、画餅でしかありません。永遠に到達などしません。
 殺処分施設が稼働したまま、助成金が出るシステムも回り続ける、というだけです。


 業界、行政機関、マスコミがこの状況を生み出しているとしても、殺処分のシステムを回している社会の元凶は、命を「その程度のもの」とみなすようになった、日本人の価値観・感性の変質なのです。


 奈良時代から連綿となく続いてきた、殺処分というシステムに頼る以前の日本のヒトと動物との関係を、改めて見直す必要があるのではないでしょうか? もうその時期に来ているのではないでしょうか?
 伝統的な生命観、命を慈しむ健全な心を持ったこどもを育てるのに適した、猫が暮らせる街を、社会が取り戻すことこそ、真の解決なのではないでしょうか?
 このままでは、堂々巡りの状況からいつまでたっても抜け出せないでしょう。猫好きはいつまでも肩身の狭い思いをし続け、猫はいつまでも一部の人たちの趣味の対象扱いされ、殺され続けるでしょう。
 文明の管理下に置かれたホムンクルス。それはもはや猫ではありません。
 かつての日本は曲がりなりにも共存できていました。
 管理型の一部の西洋諸国以外の世界中の多くの地域で、NGOが片っ端から捕まえて手術しまくらなくても、土建屋が各地に殺処分施設を建てまくらなくても、ヒトと猫の共存は出来ています。
 もっとも、欧米流の杓子定規なAWの立場からは、それらの猫たちは「幸せでない」と一蹴されてしまいそうですが・・


 以前告知したように、筆者は明確にARの立場です。
 ホームレス問題、あるいはアフリカや中東の難民の現実に、手を差し伸べることを限界を超えるまでやり続けることができないとしても、自分がそれらの人たちの命を奪う決定を直接下す立場に立つなどということは、心が一切受け付けることを拒絶します。
 猫に対する、猫の命に対する感覚は、その一点において完全に同一です。
 正直、募集が「○日までに応募がなければ保健所行き」という但し書き付で行われていることに対しては、とても強いショックを覚えます。幸いなことに、筆者がこれまで関わってきた里親募集活動は、そうした表現が入り込む余地はありませんでしたが。

 ガス室でなければとか、一定期間譲渡を頑張ってみたとか、条件・理由を付けて積極的な殺しを受け入れる──それは明々白々な殺しの容認、ニンゲンもしくは野生動物と犬猫の命を峻別する、特殊なAWの立場です。
 死刑や戦争などヒトの死も条件付で受け入れ、同じ文脈と考えるARもあるかもしれません。しかし、犬猫殺処分はヒトの殺処分≠ニは相容れないものですし、ヒトのハードルを下げるのはかなり問題の大きなARです。「ヒトの命も同じように軽く見る」ということですから・・


 保健所で殺されることを受け入れてしまう活動は、「命をその程度のもの」とみなす時点で、命を粗末に扱う社会に迎合してしまっています。
 捕まえてきて、「生か死か」のルーレットを無理やり回させ、悪い目が当たったら殺す。
 それは積極的に死神の役割を買って出て、与えた殺しであり、奪った命です。
 自分たちを神とみなしているのと一緒です。
 生きる(食べる)ため、ビジネスのための殺しとはまた違う、助けるという名目での殺し。
 西洋圏の一部では「慈悲」の名の下に積極的安楽殺が行われていますし、日本の動物愛護活動家の中にもそうした考え方は少なくありませんが、それと同質です。
 日本の殺処分がガス室での窒息死であることを考えると、一層質が悪いといわざるを得ません。


 再度お願いです。
 「保健所に連れて行く」という前に、どうか自分たちの活動のキャパシティを見直してください。
 無理のない範囲」で活動しましょう。



 筆者のような考えは少数派ですし、原則に拘りすぎているかもしれません。
 ただ、他の動物であれば、ここまでうるさくは言いません。
 筆者にとっては、世界中のすべての個体の中で、最も大切な存在は、ヒトではなくネコに属していました。その子の骨は肌身離さずずっと身に付けています。外猫たちとの日々も、一番大切な思い出です。筆者の付き合ってきた猫たちは、自らの意思で、そばにいることを選択してくれた子ばかりです。
 顔が半分崩れた子は、出会って数日後、捕獲したときには、ケージの中で暴れまくったのでやむなく解放したのですが、自由になってからは筆者のそばに留まりました。自分の意思で。筆者は沁みる薬を付け、苦い薬を飲ませる係でしかなかったのですが。与えたものより、与えられたものの方が、比較にならないほどはるかに大きかったのです。
 「保護してやった」などと、偉そうな台詞が吐ける身ではありません。筆者は生死など何も決めなかったのです。みんな、ただ命と命が出逢っただけです。
 ましてや、「見つからないので保健所に連れて行きます」なんて、どうして口にすることができるでしょう?
 猫も、犬も、とても高貴な存在です。
 万物の霊長を気取り、他の動物の命に対して生殺与奪の権利を有しているつもりでいるニンゲンよりも。
 彼らはみな、ニンゲンと変わりなく個性的ですが、その一頭一頭が大きすぎる存在です。
 犬や猫を前にして、筆者は自分の存在の卑小さに、ただ途方に暮れるばかりです。
 筆者が犬猫の小説を書いているのは、世の中の命に対する感覚がほんの少しでも変わっていってほしい、若い世代に変わって欲しいと願っているからです。本当に毛ほどの力にもなってませんけど・・・


 私たちニンゲンは、ずっと動物たちに支えられてきました。
 みなさんは、采配ひとつで生き死にを支配できるほどニンゲンが偉い存在だと、本当に思いますか?



参考リンク:
−生体販売考(過去記事)
http://kkneko.sblo.jp/article/66141893.html

posted by カメクジラネコ at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | クジラ以外
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