2013年01月05日

ヒヨドリの心とヒトの心

 これからする話は、動物と多少なりともつきあった経験があれば、ごく当たり前≠ノすぎないことで、きっと「何をいまさら・・」と顔をしかめる方も大勢いらっしゃるでしょう。一方で、動物に関心のないネトウヨ君から、死体の研究しかしない鯨研の御用学者に至る反反捕鯨論者たちは、事実として受け入れられないことかもしれませんが・・・

 毎年この季節になると、大三島の有機農家さんから箱で送ってもらうミカンを切って、庭の木の枝に差し、野鳥をお招きするのが我が家の慣わし。やってくるのは、主にメジロ、ジョウビタキ、そしてヒヨドリ。都市近郊で至って普通に見られるありふれた野鳥。ヒヨドリは、野鳥の中でもハスキーボイスで通っているし、羽毛もグレーが基調なので、声や見た目はあまり鑑賞向きとはいえないかもしれません(アジアにしか生息していないので、海外のバードウォッチャーにはファンがいるそうですが)。それでも、仕草を眺めているだけで十二分に楽しませてくれます。
 先日から数日にわたってうちに訪れたヒヨさんは、かなり風変わりな子でした。ミカンの実を一房ずつ、順番に嘴で吸い出しているのですが、その食べ方の丁寧でお上品なことといったら。
 大体、複数のミカンを置くと、あっち行ったりこっち行ったり、右から食べてみたり左から食べてみたり、しまいには実がまだ残っているのに皮をビリビリに引きちぎって、「ぎゃー」とか叫びながら地面にうっちゃらかしていく子が多いんですけどね・・。ところが、その子は薄皮1枚すら破らず、差した位置がずれることもなく、芸術作品のようにミカンの形を保持したまま、食事を終え、静かに去っていったのです。いかにも、喫茶店でアイスフロートを注文し、音を立てないようストローでそっと吸っているお嬢さんという感じ。ヒヨは体長も体色も性的二型が明瞭でないタイプなので、オスかメスかわかりませんけど・・。
 ワケアリでうちに来た足欠け文鳥さんは、逆にズボラでオヤジな性格なので、「あなたも少しは見習いなさいよ」と、愚痴のひとつも言いたくなるほど。
 この子はとくに個性が際立っていましたが、訪れる客人(鳥)たちはいずれも、行動も性格も千差万別で、1羽とて機械的な反応≠オかしない子はいません。だからこそ、野鳥・野生動物の観察は興味が尽きないのですが。
 ヒヨドリの行動を観察していると、大体大きく二つのパターンに分かれることがわかります。
 まず、庭のミカンを見つけるや、近くの木に止まり、一声「ボクが先に見つけたぞ!」と宣言するタイプ。
 もうひとつは、こっそり食べ始め、食べ終わるまで一声も鳴かないタイプ。
 前者は、気の強いタイプ。平均よりやや大柄な、年長の個体に多い。
 後者は、気弱なタイプ。まだ年若い、体格も平均よりやや見劣りするタイプ。
 きちんと統計を取れば、両者の傾向にはきっと明瞭な差が表れるでしょう。
 自分がある程度満腹するまで、他の個体が来ても寄せ付けず、餌を独占する自信のある個体が前者。宣言≠出しておけば、近くにいる他の個体は、張り合おうとせずによそへ行くので、食事に専念できるというメリットがあります。ただし、互角以上の相手だと、逆に割り込まれて追い払われる可能性もあるわけですが。
 後者のほうは、食べ終わるまで、他の個体にはなるべく見つからないようにするわけです。ケンカをしても勝ち目がない以上、わざわざ鳴いて寄せ付ける真似をすれば損なだけですからね。もちろん、鳴かなくても見つかってしまえばそこで終わりですが。
 つまり、気の強いヒヨドリの個体が取る行動も、気の弱いヒヨドリの個体が取る行動も、それによって果実という資源を十分に利用できる確率が高まるわけです。いいかえれば、そうした行動が発達し、進化する合理性があるということ。
 もちろん、ヒヨドリは果実を中心にした雑食性で食性の幅は広く、他の野生動物に比べれば、平和的≠ニいえるでしょう。餌が十分あれば、隣り合って仲良く食べることも珍しくありません。ただ、餌をめぐって同種の個体同士で激しい闘争を繰り広げるタイプの種でも、性格類型≠フ基本は変わらないといえるでしょう。
 この行動・性格類型≠ヘ、餌を見つけたときに鳴くか鳴かないかという、個別の条件に対する一つの応答にはとどまりません。ねぐらでの場所取りから繁殖期の異性・同性とのやり取り・戦略まで、様々なシチュエーションがあり、出力としての行動もそれに応じて異なります。そして、それらの行動はいずれも理に適っています。
 そして、この行動・性格類型≠ヘ、一方から他方へ変化する場合もあります。若いうちは「気が弱かった」個体も、場数を踏んで「自信をつける」わけです。体調が悪かったり、年をとると、逆方向へシフトします。
 では、幅広いバリエーションを持ちつつ、一つの特色でまとめることのできる一連の社会行動・反応を生み出しているのは一体なんでしょうか? そう……個性であり、性格であり、感情そのものなのです。それは、遺伝子に代わって生存に有利な行動を臨機応変に出力する、統合された情報処理器官である脳の働きに他なりません。それこそが≪心≫なのです。
 気の強いヒヨドリは、自信に満ちて歌を歌います。気の弱いヒヨドリは、周囲をうかがいつつこっそり餌を食べます。
 勝気な気分、オドオドした気分、それらが状況に応じた、それぞれの個体にとっての最適の行動という出力につながります。
 ヒヨドリとニンゲンの性格類型は、基本的に同じなのです。
 野生動物であれ、犬猫その他の家畜であれ、ヒトであれ。
 テンションがハイになっているときは、積極的に行動し利用できる資源を獲得するのが有利な行動。テンションが下がっているときは、リスクを回避するのが有利な行動。シチュエーションに応じて取られる行動パターンは様々ですが、気分・感情によって突き動かされる行動は、いずれの場合にも最も適切に対処できるようになっています。
 自然とは、生物とは、≪心≫とは、実に巧い具合に出来ているものだと、感心するほかありませんね。
 負の感情もあれば、正の感情もあります。いずれも、進化的にみれば一定の合理性があります。
 社会的な相互作用という機能の側面からいえば、社会性の高い動物ほど感情が豊かだとはいえるのでしょう。

 「涙には目を洗う保護機能しかない、ニンゲンだけが特別だ」と思い込んでいる反反捕鯨君もいるようですが、社会性動物が悲しいときに涙を流す反応は、一種のディスプレイだと筆者は考えています。嬉しさ、悲しさ、という感情は、コミュニケーションの機能を伴う、群れの個体間での共有・相互作用の側面が大きいといえます。苦痛を感じたとき、子供を喪失したときなど、利益を共有する群れの個体のバックアップを必要する切迫した状況に陥ったとき、SOSの信号をわかりやすく発信するためのものでしょう。闘争に負けたときの悔し涙などは、勝者に対する鎮静作用の意味合いもあるのかもしれません(ワンコのお腹ゴロンではないけれど・・)。ニンゲンがどの種より涙を頻繁に流すのは(嘘泣きも含めて)、他の個体の感情を読む能力が低く、しばしば汲み違える鈍感な動物だからなのかもしれませんが・・。いずれにしても、「悲しいから」涙を流すのです。動物(ヒトを含む)は。
 愛も、最も多様な行動を惹起する感情のひとつ。動物の間でかなり普遍的にみられ、汎用性が高い一方で、ときに遺伝子にとっては意味のない相手にまで対象を広げるエラーも引き起こしてしまう、生物学的ソフトウェア=感情・≪心≫といえますが、改めて説明する必要はありませんよね?
 動物の喜怒哀楽については、国際的に著名な動物・人類学者である女子栄養大名誉教授の小原秀雄氏なども、豊富な観察事例に基づく洞察をなさっています。
 これまでも何度か取り上げてきましたが、では、感情・≪心≫がなぜこう≠ネのか? 自分のある感情と他者(ヒトあるいはヒト以外)のある感情が、本当に同じ≠ネのか? を科学的に検証する手立てはありません。分子生物学・大脳生理学的見地から、心のメカニズムを解明する研究が進んだとしても、それらは結局脳の電位、生化学的反応についての記述でしかなく、≪心≫の説明とはいえないのですから。
 もっとも、そうした試みは、感情がニンゲンという種固有のものではなく、「動物のもの」であることをますます立証することになるでしょう。快楽物質とされるエンドルフィンは、ニンゲンだけでなくイヌからラットまで多くの動物が持っています。ホルモンの作用から自律神経系の働きまで、感情にかかわる生理的・生化学的メカニズムは、ニンゲンに限らず多くの動物で共通しています。
 ついでにいえば、ストレスなど心の働きや社会性については、実験動物の結果を外挿する研究が盛んに行われているのも、ご存知のとおり。それもマウスで。当たり前の話ばかりで、論文数稼ぎのためのバカげた研究といえますが・・。
 もうひとつ余談。ネコはヒト、あるいはイヌや他のサルに比べ社会性が低く、感情も乏しいと考える向きもあるようですが、まったくの誤りです。ネコは群れを作らず単独行動とみなされがちですが、行動圏が重複する個体同士で行動時間・ルートを調節するなどして、リソースをうまく共有する独特の社会性を備えています。いわゆる“ネコの集会”も、行動圏の重なるネコ同士の顔合わせで、緊張を回避・緩和する巧みな知恵といえます。ネコがイヌとはまた異なる形で、ヒトとの間に異種混成社会を形成するようになったのも、そうした社会性が背景にあると、筆者は考えています。
 ニンゲンは、ニンゲンの感情や≪心≫は、決して何か特別な、神聖な、超常的なものではありません。それは、社会性動物としての、自然な機能なのです。


 日頃「科学」「科学」とうるさい捕鯨擁護者ですが、こと動物の感情の問題になると、外野のウヨガキ君から著名人層まで、まるで米国の福音主義者のごとく、非科学的な神秘論者に変貌してしまうヒトが日本でも多数見られるようです。言ってることは単なるヘリクツだし、そもそも動物にも、動物学にも興味を持てないタイプの所為か、先天的な本能と後天的な学習行動、反射・感覚・感情・社会行動の区別もついてなかったりしますが・・。
 確かに、動物(ヒト含む)の感情を見抜く感受性は、持って備わった能力と経験値に基づくスキル≠ノよって大きく左右されます。ダメなヒトはいつまでたってもダメでしょう・・。不向きなことを無理強いするつもりはありません。しかし、自分たちに理解できないからといって、自然現象を頭から否定するのは、科学的態度とはとても呼べませんね・・・

参考リンク:
■ザトウクジラの社会性
http://kkneko.sblo.jp/article/24045343.html
http://kkneko.sblo.jp/article/24090035.html
■ヒトとライオンとイルカの心
http://kkneko.sblo.jp/article/20494608.html
http://kkneko.sblo.jp/article/20366571.html
■シャチとザトウクジラの深すぎる愛
http://kkneko.sblo.jp/article/60552101.html

posted by カメクジラネコ at 19:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 自然科学系
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/61242762
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック