2012年08月12日

アラスカのザトウ/ロンドン五輪とクジラ

◇アラスカのザトウフォト

 

 借り物ですが、食うより観る派の方はご堪能あれ。入手できたら、フィーディングの動画もお届けしたいと思います。

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 今年のアラスカはザトウとの遭遇率は高かったものの、シャチはなかなか出てきてくれなかったとのこと。

 海鳥の乱舞する採食シーンがありますが、鳥たちにとって、クジラたちは効率的な採餌のためになくてはならない存在
 空を飛ぶ鳥たちから、はるか海の底に棲むゴカイたちに至るまで、数多くの海の生物たちと関係性を築き上げてきたのです。それは、気の遠くなるほどの太古の時代から脈々と受け継がれてきた、自然の、生命の伝統です。たかだか9千年、4百年ぽっちにすぎない、表面的で一方的なニンゲンとの関係とは、およそ次元が違うのです。底の浅いブンカなどとは比較にならないのです。
 古今東西の鯨獲りと呼ばれる人々は、クジラの生態についてまるで無知でした。江戸時代の日本人の大半は、クジラを大きな魚と勘違いしており、尾鰭の向きさえ間違って認識していました。当時も捕鯨を快く思っていなかった一部の動物好きを除いて。


 気になるのは、東日本大震災で流出した大量の瓦礫。放射能に関しては、太平洋の東側では過去の大国の核実験以上の影響はないでしょうが、大小の漂流物自体がクジラのみならずラッコ、海鳥、ウミガメをはじめ多くの海棲野生動物にとって重大な脅威となりえます。店の看板が見つかって持ち主のもとに返されたといったエピソードが、心温まるニュースとして紹介されていますが、アラスカをはじめとする北太平洋東部の野生動物たちにとっては、大量の漂流物はおよそ迷惑な話でしかありません。最終的にはハワイなど太平洋の真ん中に集まるとみられますが、そこはザトウクジラたちにとって大切な繁殖場。
 311は、ニンゲンが自然の猛威のまえでいかにはかなく無力な存在であるかを、当のニンゲンたちに思い知らせました。もっとも、長い時間の尺度からすれば地震や津波は過去に幾度も繰り返されてきたことで、その度に天然の漂流物も陸から海に供給されてきたでしょう。しかし、今はその中に、文明由来の、自然が対処できない厄介な代物が含まれています。
 福島第一原発からの放射性セシウムやストロンチウム。沿岸部で保管されていた大量のPCB。TBT・TPTなど漁業・船舶用途で生産されたその他の各種有害物質も、国際条約で使用は規制されたものの、PCB同様一部未処理のまま保管されていた分があったかもしれません。また、東北沿岸に堆積していた有機塩素・重金属等の有害物質は、津波によって海底から巻き上げられ、再び生態系に取り込まれて影響を及ぼす可能性があります。大小無数の難分解性のプラスチック片は、クジラ・魚・ウミガメ・海鳥などさまざまな野生動物にとって死の罠となります。
 指定された有害物質の保管・監視は、環境中にこれ以上流出しない(希釈した上での放出を含む・・)ことを前提としていますが、地震や津波のような災害が起こればその前提は崩れてしまいます。従来の有害物質規制・管理の考え方はまだまだ甘いといわざるをえないでしょう。

 自然を管理できるとの発想がどれほど傲慢で浅はかな思い込みにすぎないか、すべての日本人が思い知ったはずでした。しかし、残念なことに、311の、あの福島第一原発事故の惨状を目にしてすら、身の程を弁えることができない、傲慢な思想に取り憑かれたままのヒトが、少なからずいるようです……。
 野生動物を管理できるなどと胸をそびやかす前に、自然に、他の動物たちにこれ以上迷惑をかけないよう、ニンゲンはまず徹底的に自分たち自身を管理する能力を身に付けるべきではないでしょうか? そして、自然の前ではあくまで謙虚であるべきではないでしょうか?



◇ロンドン五輪とクジラ〜捕鯨外交と五輪外交の共通性

 期間中、液晶画面に噛り付いて目の下にクマを作ったヒトが大勢いたでしょうね。大飯の次の再稼働が着々と進められようとしているのに、お祭り騒ぎで浮かれてる場合じゃないというヒトも少なくなかったでしょうが。
 筆者は大体スポーツ音痴でプロスポーツ観戦の趣味もなく、商業主義のIOCと便乗商売のマスコミへの批判ももっともだと思いますし、いくらエコを標榜しても環境破壊と大量消費を象徴するイベントとして胡散臭い目で眺めていますが、そこに国際社会の縮図が見て取れるのも確かです。とくに、五輪に相当入れあげている国の場合、体裁を取り繕う親善外交の舞台ではお目にかかれないような、素の顔本性が露になりますからね・・。ただのスポーツの祭典というより、政治ショーとしての観点なら、チェックするだけの価値もあるというもの。


 国が金メダルへの到達度に応じ協議団体へ予算を配分している日本は、いつにも増してがむしゃらな姿勢が目立ったように思います。
 柔道男子、体操男子では日本側の猛抗議で判定が覆りました。内村選手の鞍馬のフィニッシュはかなり無様な落ち方でした。これが新体操とかだったら難度の評価は当然付かなかったでしょうね。そのことは、「2位でも4位でも同じ」と漏らした内村選手本人が誰より痛切に感じていたはず。「よくがんばった」と拍手を送る気にはとてもなりませんでした。あのみっともない抗議のおかげで。
 筋金入りのスポーツ選手にとってみれば、自身の持つパフォーマンスを最大に引き出せたとは言いがたい演技をしてしまったら、仮に最初から評価されたとしても、メダルを辞退したくなるくらい恥ずかしい思いでいっぱいでしょう。個人総合の金も、「メダルのために」大技を封印して獲ったもの。
 それでよかったんでしょうか?
 選手個人の気持ちより、組織の意向を優先させる。それもこれもメダルのため。すなわち、世界に日本の威光を知らしめるため。そのためにこそカネを出して「やらせてやっているのだ」、と。「誰のおかげで好きなスポーツで飯を食っていけるのか」と。
 それはつまり、一人の個人を国威発揚のための単なるメダル製造機として見ていることになりませんか?
 「プレッシャーを感じない」という内村選手の新人類ぶりには唖然としましたが、もちろんそんな動物などいやしません。プレッシャーを克服する彼なりの対処法、おまじないだったんでしょうね。確かに、本人も金メダルは欲しかったに違いないし、取れて嬉しいでしょう。しかし、国の評価がどうあろうと、メダルを優先したがためにチャレンジできなかったこと、すべてを出しきれなかったことは、いつまでも悔いとなって彼の心に残るはず。

 メダルに貪欲な日本の姿勢が最も顕著に表れていたのがサッカー女子。
 「金メダルのためなら泥臭くてもいい」という関係者の台詞がありましたが、泥臭いというのは、むしろ綺麗な言い方ですね。
 組み合わせの運でそうなったのなら仕方がありませんが、前の試合で「わざと引き分ける」のは、さすがにアンフェアな手口といわれても仕方ないでしょう。実力で勝っている相手に対し、自分たちが有利な状況に持ち込むために、移動の負担を強いるという形で競技と無関係なところで仕掛けたのですから。
 日本はブラジルと正々堂々と勝負しませんでした。南アとも。ブラジルの監督の「日本は勝利には値しない」という言葉を、多くのブラジル国民が共有したでしょう。自分たちを負かした相手が勝ちあがっていくことで自分たちの強さの証明にもなる、そういう考え方もありますが、その後の対戦で日本チームを応援したブラジルのサッカーファンは少なかったのでは。南アの選手、国民の人たちに対してもかなり失礼な話。「格下のお前たちはどうせここで落ちるんだから」と利用したのですから。
 すべてが監督個人の意向であるとは筆者は信じませんが、美談に仕立てて国内の批判を封じるやり方には、呆れる以上に背筋が寒くなります。
 今後も「泥臭い」やり方で押し通すなら、少なくとも「なでしこ」という呼称は付け直したほうがいいのでは。
 選手に非があるとは言いません。むしろ、彼女たちも人格を無視したメダル製造機としての、犠牲者の側面があったのではないでしょうか?
 決勝戦、右肩上がりによくなっているという評価とは裏腹に、なでしこの選手の動きは明らかによくありませんでした。移動を余儀なくされた米国選手の方が一貫して上回っていました。「ドイツの審判がハンドを取っていれば」との声もありましたが、PK1つで覆った試合だったとは思えません。準決勝の米加戦の方が米も苦戦を強いられましたし、観客の側も見応えがあったのでは。
 余談ですが、まあ確かに傍目にも、審判の判定は例のハンド以外も含めかなり米国よりの印象を受けましたけどね・・。しかし、サッカーではよくある話。それに、南アやブラジルとの日本の戦い方も米国ビーキにつながった理由の一つなのでは。
 あのW杯のときのように、澤選手が友人にしてライバルである米ワンバック選手と互角のやり取りを繰り広げていたなら、歴史に残る名勝負としてすべての国の観客の胸を打ち、目に焼きついたことでしょう。
 どちらがメダルを取ったかに関わりなく。
 しかし、彼女のコンディションについては、ファンの皆さんならご承知のとおり。
 W杯後、日本は彼女に競技に専念・集中する時間、ベストの環境を与えませんでした。CMやバラエティ番組への出演に駆り出し、スポンサーの継続的な確保とリーグへの集客力向上という余計な課題を押し付け、彼女自身にそれが使命だと思い込ませてしまいました。
 彼女が別の国の選手だったら、あるいは違う結果になっていたのではないでしょうか?

 青少年に健全な精神を育むことが、国としてスポーツ振興に取り組むことの主要な目的のはず。
 フェアプレイの精神を脇に置いて、結果にこだわる、勝ち負けにこだわる、メダルにこだわる、メダルの色にこだわる──それではたして、こどもたちの心が、健やかに、伸びやかに育つでしょうか?
 それとも、メダル(とりわけ一番綺麗な色)にこだわるのは、国旗・国歌の刷り込みが主な目的だからでしょうか?
 結局、金メダルの枚数は、人口・GNP比を考慮すれば少々情けない数字で終わりそうな気配。銅まで含めれば過去最多になったようですが、1種目で銅が2枚ある柔道・レスリングに強い国は、よそと一概に比較できないし、ね・・。
 王国の意地とばかり、他のどの種目より金にこだわり、選手たちに重圧を課してきた柔道男子はゼロ。何がまずかったのか、真剣に反省した方がいいように思えます。本当に金メダルが欲しいのなら。
 メダルにこだわりすぎることこそが、メダルに手が届かない原因じゃないのか? そう思っている日本人はきっと多いんじゃないかという気がしますが・・・


 なるほど、確かにそもそもスポーツ自体奇麗事で済む世界ではないでしょう。カネ抜きで済まされる話では。
 しかし、国費をかけた外交としての見地からも、今回の五輪における日本の動きは決して誉められたものとはいえません。
 国際協調・平和外交の一環として五輪を位置づけるならば、選手の能力を最大限引き出し、なおかつ清々しく公正なプレイをさせることで、各競技で対戦相手ともなる世界の国々とその一般市民に、日本に対する好印象を与えてこそ、成果といえるはずです。
 なでしこJAPANの戦い方や、体操の判定に対する噛みつかんばかりの猛抗議ぶりは、他の国々の人たちの目に一体どう映ったでしょうか?
 ブラジルは、歴史的に日本と非常につながりの深い親日国であり、南米諸国・新興国のリーダーとしてもますます重要な地位を占めつつある国です。
 南アも、貴重な資源を産出し、アフリカの発展を牽引する重要な国です。
 それらの国々の市民に対し、不愉快な印象を与えることが、五輪外交の成果といえるのでしょうか?
 それとも、金メダルの枚数を中国・韓国・北朝鮮などと張り合うことが、日本にとっての五輪外交なのでしょうか?


 この、海外諸国との良好なリレーション構築を重視しない、とてつもなく内向きの姿勢──どっかでもよく目にしますね・・・・
 そう、IWC(国際捕鯨委員会)における北朝鮮顔負けの捕鯨ニッポンの唯我独尊ぶり
 「目的のためなら手段を選ばない」ポリシーSSCS(シーシェパード)と実にそっくり
 
 五輪という一大国際イベントにおいては、日本という国の真の姿が、日本人の自覚しない形で、すっかりさらけ出されてしまっているのではないでしょうか──?

 

参考リンク:
■バンクーバー五輪とクジラ
http://kkneko.sblo.jp/article/35318830.html
■スノボ文化を蔑む文化最貧国・捕鯨ニッポン
http://kkneko.sblo.jp/article/35426311.html
■五輪とクジラ
http://kkneko.sblo.jp/article/17766776.html
■五輪閉幕とクジラ
http://kkneko.sblo.jp/article/18421107.html
■五輪落選とクジラ
http://kkneko.sblo.jp/article/32671327.html

posted by カメクジラネコ at 16:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会科学系
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