2009年05月10日

捕鯨・鯨肉食は世界に通用する文化?

◇クジラ関連ニュース・クリッピング

■アイヌ民族と意見交換会 道東で政府の有識者懇 (5/9,産経)
http://sankei.jp.msn.com/life/education/090509/edc0905092141000-n1.htm (リンク切れ)

「捕鯨はアイヌにとっても伝統文化。先住民に許可されていないのは日本だけだ」

 上記は支部の代表者の方のコメント(引用)。ウヨガキ君たちは謹聴。
 異論はあるでしょうが、筆者はアイヌの捕鯨については容認の立場です。シャモの企業による沿岸捕鯨捕獲枠(議長案に沿って再開された場合)は、当然その分削ってもらいますが。

■ホビークッキング2009・出展者一覧
http://www.hobbycook.jp/list.html#捕鯨 (リンク切れ)

 東京ビッグサイトで5月7日から9日までの3日間ホビークッキングフェア2009が開催され、ここで捕鯨協会が出店していたとの情報が。またぞろ得体の知れない国籍不明料理を叩き売ったり、子供にヒゲを配ったり、真っ赤な嘘だらけのパンフレットをばら撒いていたとのこと・・。
 ちなみコラーゲン(皮や軟骨)とヒアルロン酸(トサカ)で処理した「海のジビエ」とやらは、「昔ながらの鯨ではなく、美と健康を食卓に届ける新しい鯨」なんだってさ! 販売元のスクーナーは水産輸入・販売会社で、そのうちノルウェーのナガスなんかにも手をつける気かもしれません。
 坊やたちへ。別にクジラヒゲでライトセーバーごっこやっててもいいけど、アヤシイ持続的利用教団のオッサンの勧誘にだまされちゃ駄目だって、お母さんにちゃんと言っとくんだよ!


 

◇捕鯨・鯨肉食は世界に通用する文化?──文化としての重要性は第三者による客観的判断を

■「名誉の殺人」横行 (4/10,朝日)|時事用語ギャラクシー
http://archive.mag2.com/0000148810/20090413105000000.html

 パキスタンでは未だに、女性が不倫した場合に部族の判断で制裁を受ける「名誉の殺人」という忌まわしい風習が残っているとのこと。同様の風習は、南アジアのほか中東、アフリカなど世界各地に見られ、犠牲者は年間5千人に及ぶと推計されています。パキスタンの名誉の殺人の例の場合、部族ぐるみで事件や犯人を隠したり、警察より因習に拘る長老の権限の方が強かったりで、こうした悪弊がいつまでも横行し続けているそうです。また、中央政府からの独立運動が盛んな地域では、反発する州選出議員による容認発言も。多くは明らかな冤罪と見られ、一部は犯罪隠蔽に利用されるケースまで。
 似たような事例は他にもいくつも挙げられますね。寡婦を亡夫の遺骸とともに"火葬"する風習、割礼、奴隷制(アフリカの一部などで未だに残っています)、カニバリズム、麻薬や覚せい剤、煙草etc.etc. 
 ひとつ言えるのは、これらは間違いなく地域の伝統、固有の文化であるということです。幸運にも廃れた文化。その途上にある文化。あるいは、頑迷に残り続けている文化。そしてそれは、"抵抗勢力"が持ち出す正当化の口実に他ならないということです。
 日本においてもそういった文化は枚挙に暇がないでしょう。日本では同情を誘うが外国人には理解しがたい無理心中(筆者も理解できんけど・・)。切腹。水面下に潜み結婚差別などで突然身に降りかかってくる同和という陰湿な差別。自治会やPTAなど組織運営のしがらみに残る滅私奉公、あるいははみ出し者への村八分の処置。談合天下り死刑もそのひとつかもしれません。筆者はパッと思い浮びませんが、市民ブロガーの皆さんも、もっと気の利いた事例をこれまでいくつも挙げてくださっています。
 それらの風習は、文化としての格付けからいえば、単なる素材に過ぎない食習慣より間違いなく上でしょう。地産地消、不殺生、ハレとケなどの根幹となる食文化であれば、同格に近いかもしれませんが。
 にもかかわらず、それらの風習を決して遺してはならない、潰さなければならないのは、民主主義や基本的人権という、地域の文化などより上位の普遍的な大原則があるからです。
 残念ながら、現実にはその普遍性は磐石ではなく、抵抗勢力の力と主張(声の大きさ)が強いが故に、ヒトの命や自由・平等より文化が優先されるという逆転現象が起こっているわけです。しかし、国際社会はそうした旧い因習の根絶に向けて前進し続けなくてはなりません。
 情報が一瞬で国境を飛び越える現代においては、経済や政治体制のみならず、文化や価値観の垣根も取り払われました。欧州のEU加盟論議にもなったグローバルとローカルの対立・相克は、一筋縄で結論が出せる問題ではありません。しかし、はっきりしているのは、文化や価値観は相対的なものであり、絶対的なものではないということです。
 どの国・民族・地域ももはや孤立して存続することは不可能な以上、文化そのものが異文化と干渉し合い、影響を及ぼし合うことで一定不変ではあり得なくなった以上、特定の地域のみが文化というものを定義して済む時代ではなくなったのです。ある文化を、その受益者がアイデンティティとして不可欠であると唱えても、それが本当に重要性が高いものかどうかは公平・公正な第三者による客観的な判定を待たなくてはならないでしょう。とりわけ、人権や民主主義といった普遍的な価値に抵触するものでないかは、むしろ部外者によってしか裁定できないとさえいえます。それは朝日記事のケースを見ても明らかです。
 確かに、人権や民主主義・平等の原則に比べ、環境権や自然の権利、動物福祉/アニマルライトといった新しい概念は、まだ完全に定着したといえるほど、十分に議論され尽くされてはいないでしょう。しかし、議論の余地があるのは、開発途上国の住民の生活・利害に直結するような場合です。
 経済大国の国策企業が、持続的利用の責を負うところの自国の自然ではない、世界共有の財産である公海・南極海上で、伝統とまったく無縁な移入技術・資本でもって、40年前に開発を始めたばかりの野生動物を捕殺し、高級食材として供する状態をもって、「固有の文化」と称すること、果たして世界に対して通用するでしょうか?
 とりわけその国が、子供たちが栄養失調で苦しむ第三世界への食料援助を上回るほどの大量の食糧を廃棄し、地産地消という本来の食文化とは裏腹に世界中から莫大な環境負荷をかけて食料をかき集め、食品・流通企業による偽装が後を絶たないという、世界でも類を見ない食文化崩壊国であるとするならば、文化の高尚さの程度はあまりにも低すぎるといわざるを得ません。脆弱で固有性が高く、地球温暖化の脅威にも直面している南極海生態系の一部である、K種タイプの野生動物を優先的に保護していこうという国際的普遍性のある価値観に対して、到底太刀打ちできるとは思えません。
 繰り返しますが、文化は絶対的権威ではありません。ただの新しい食材ならなおさらです。コ○ラのマーチを国を挙げて毎年補助金出して存続させるとか、そういうレベルの話です。クロミンククジラのベーコンは文化だが、ゼラチンのベーコンは文化でない!」「美と健康を食卓に届ける新しい鯨ジビエ・シリーズや、クジラ肉のポワレカキのフライ添えカフェドパリバターソース(舌噛みそうだニャ)は、日本古来の神聖な伝統的食文化である!」などという、日本人以外にまったく理解不能な(筆者は生粋の日本人だけど全然理解できないよ!)勝手な言い分を、世界に押し付けられるはずがないのです。
 水産庁の森下参事官は、外国相手にそんな御託が通用しないことをもう十分お分かりだから、「文化論は"あまり"使わない」とおっしゃっているのでしょう。ここで「あまり」というのは、外向けには使わないけど内向けにはこっそり使うという意味かもしれませんが・・・

posted by カメクジラネコ at 01:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会科学系
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