2008年11月01日

食といのちを見つめること・その2

◇まずはニュースチェックから・・ 

■<国連人権委>死刑廃止へ 日本政府に「最終見解」 (10/31,毎日)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081031-00000025-mai-int (リンク切れ)

 日本政府へ。「内政干渉」などという、北朝鮮そっくりの見苦しい言い訳はやめてください。
 日本国民の皆様へ。北朝鮮国民のように、権威にだまされたり、周りになびくのはやめましょう。税金で人殺しをすることが、無垢のこどもの手まで血まみれにすることが、本当に正しい道だと思いますか? それは凶悪犯罪を防止するうえで、本当に必要なことだと思いますか? いままさに、かつてなく次々と死刑を執行しているこの国で、なんで治安が悪化し犯罪が増えている(といわれている)んですかね??


■二審も「軍の深い関与」認める=大江さん著書の名誉棄損否定−沖縄戦集団自決訴訟 (10/31,時事)
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1518.html

 当然でしょう。後一つ。
 ノーベル賞受賞で大々的に騒ぐ国なのですから、文学賞を受賞した世界的作家を、国とマスコミが全面的にバックアップするべきでは?

 
■航空幕僚長を更迭…論文で「わが国が侵略国家は濡れ衣」 (10/31各紙)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081031-00000049-yom-pol

「暴行リンチ殺人は隊員の未来を祝うはなむけです」
「虐殺と侵略はアジアのみんなに喜ばれたのです」
 これが日本の自衛隊の正体・・ですか?
 本題の記事とも関連しますが、殺される者の痛みが何一つわからない加害者の手前勝手な言い分です。 


◇続いて金曜日のTV評 

■ペット大集合!ポチたま (10/31-19:00,テレビ東京)
http://www.tv-tokyo.co.jp/pochitama/

評価:×
 
 動物番組の中では、他局に比べ比較的マシだったのですが・・。今回、紹介された大阪のペットショップは最悪でした。
 おそらく繁殖用の個体なのでしょうが、散歩と給餌以外の時間、犬たちをなんとキャリーケージ(檻でもサークルでもなく!)に放り込んで床に所狭しと並べていたのです・・。その中の1頭のフレンチブルの子が、ケージの中から前面に体当たりしてキャリー毎移動する様を、よりによって""として紹介。「本人(犬)は楽しんでやっている」などと嘯いていましたが、ストレスによる異常反復行動にしか見えませんでした。そのうち頭部の皮膚を損傷したり前肢を故障しますよ。しかも、0点でいいのに満点評価。タレントの評価なんぞ別にどうでもいいんだけど・・。
 番組看板犬のダイスケ君が訪問中のカリフォルニアでは、折りしも州法で犬を敷地内で繋ぐことが禁じられていることが紹介されましたが……日本人の飼育家庭はほとんどみんな罰金を取られますね。上の業者も即逮捕です。欧米(米では州の大半)では、ペットショップでの生体販売は禁止、もはや時代遅れの"風習"となっています。「なんで日本で出来ないんだろ?」という一言を番組で言うのはタブーなのですか?
 一方、猫のほうは文句なし。老夫婦に飼われていたアビシニアンは天才猫・・というより、猫の天才ぶりをしっかりPRしてくれてました。「ペット・ミステリー」なる企画名はヘンだけど。ご覧になった方、アレが学術的にどういう意味を持つか、わかります? ササゴイやカラスに負けない、非常に明確な道具の使用例ですよ。観ていない方に説明しますと、その子は夜中に1人(匹)で階段にスーパーボールを転がして遊んでいたんですが、1階に到達すると、今度はそれを口でくわえてまた上階に持っていって、上から落とす作業を繰り返すのです。誰に教わったわけでも──ニンゲンに芸として強要されたのでもありません。もちろん、閉じ込められっぱなしで単に外に出たがっただけのペットショップの小型犬とは次元が違います。まず、ボールという客体が階段を跳ねながら落ちるという現象、その様を観察することを、この猫は楽しんでいます。生存とは関係のない遊び行動≠フ一種といえますが。これは、動く物に対して否応なく注意を惹かれる反応≠ナはありません。この猫が主体的に現象を発生させているのです。そして、同じ現象を再現させるためには、「落ちてしまったボールをもう一度上に運んで落とせばいい」ということまで理解≠オているのです。一連の物理現象における因果関係の把握と、問題解決のための洞察をやってのけたのです。なんと素晴らしい知性でしょう! 本人(猫)にとってはゲームのつもりなのでしょうが。この子の場合、"お父さん"と部屋で一緒にボール遊びをする様子も映されていたので、階段から落ちたのは、おそらくたまたま起こった事故かもしれません。あるいは、そのとき下までボールを取りにいって、また遊びを再開したお父さんの行動をよく見ていたのかもしれません。そうだとしても、ニンゲンの行動を観察・学習して、自らが遊ぶ目的のために応用したのですから、すごいことに変わりはないでしょう。まあ、この程度の天才ニャンコは全国各地にいくらでもいるでしょうけど。同居している年輩のミックスの子とも仲睦まじく、お父さんも猫好きらしいいい方だったので、知性の発達には良好な家庭環境も関係していそうですね。
 もう一匹登場したのは、千葉の東葉高速鉄道(北総線と同じく運賃がべらぼうに高い・・)の飯山満(ハザマ)駅に12年間通っているニャンコ。どっかのミケ猫駅長は、かなりおとなしい子を紐でつないで、いかにも話題を売らんがための印象が拭えないのですが、この子は自由です。毛並も毛色もきれいで、ボランティアで毎朝ご飯をくれる方もおり、いわゆる地域猫の位置付け。通勤する学生やサラリーマン、駅員や売店員まで広く愛される存在。TV出演でヘンな影響がないかちょっぴり心配ですが、もうお年ですし、鉄道会社も欲を出してマスコットに仕立てたりはしないでしょう。後は、この先体が弱り始めたときに面倒を見てくれる方さえいれば。それと、船橋市が東京のどこぞの区のような無理解な条例を作らないよう、祈りたいものです。 

■空飛ぶ魚を追って…赤道直下5000キロの旅|プレミアム10 (10/31-21:00,NHK)
http://nhk.jp/chronicle/?B10002200090811010030063&n=10&q=%E6%B5%B7%E9%9D%A2&o=41&np=20&or=t

評価:△○
 赤道直下のミクロネシアの島からインドネシア、台湾、そして日本まで、アジア各地の伝統的なトビウオ漁に密着したドキュメンタリー。ちなみに、ナレーションは声優のTARAKO。
 この間はミツクリザメの特集がありましたが、NHKもときどき面白い企画番組をやるものです。この前のは中身がヘンでしたけど・・。
 松明を使ったり、波任せだったり、紹介された伝統漁法はどれもきわめてユニークなものでした。日本の隠岐のは至って普通の囲い込みだったけど、沿岸漁業として悪くはなし。
 ただ、不安を覚えたのは、インドネシアで突然需要が降って湧いたために成金まで出現したトビコ漁。つまり、トビコ御殿状態。行く先はといえば、巨大な胃袋を持つニッポン・・。漁法自体は椰子の葉を使った前近代的なものですが、「カネになる」ということで漁船は700隻にまで膨れ上がっています。成魚に卵を産み付けさせるので、ARの観点からは多少マシなのかもしれません。が、育って帰ってくるどころか卵のうちにごっそりというのは、資源学的に見てもどうかと思いますし、稚魚を通じた生態系のサイクルにも問題が生じないか疑問が残ります。日本でも、昔は流れ藻に付着した卵を採集して利用していました。しかし、恐ろしいのは、よその海の自然に介入していることを知りもしない現代の消費者の底なしの胃袋ですね・・・。
 あと興味深かったのは、どこでも漁にまつわる様々なタブーがあった点。トビウオを空を飛ぶ魚として、王や神といった別格扱いをするのはいいとして、面白いのはそれらのタブーの内容。漁の前は夫婦生活禁止とか、干物は表をどっちに向けて干さなきゃダメとか・・。魚や海の自然そのものとはまったく関係ないものばかり。「〜をしたら魚が来なくなる」という、その理由の中身が、実際には魚の資源状態と因果関係のない迷信の範疇にすぎないのです。その点、単刀直入に乱獲を禁じるものが多い、アイヌなど狩猟系の少数民族の言い伝えとは対照的です。
 理由として考えられるのは、過剰捕獲が即個体数減少という目に見える結果につながりやすい陸上の野生動物に対し、魚の場合、獲りすぎといった人為的要因によらず大きな魚種交代サイクルがあること。豊漁や不漁の年にたまたまとった行動を勝手に結び付けて解釈し、それがそのままミームとして固着したのでしょう。要するにただのゲンカツギですね。
 逆にいえば、ここ1世紀の間に、人口増/需要増と近代化・商業化により、一気に漁獲量が膨れ上がる以前≠フ伝統漁業は、人力依存の技術と当時の人口に見合った漁獲しか行わなかったため、かなりサステイナブルで滅多に資源枯渇に至ることはなかったのでしょう。海の自然というのはそれほど豊かで、ニンゲンというやや場違いな利用者に対しても深い慈悲≠示してくれていたのでしょう。その唯一の例外が古式捕鯨といえますが。
 「今世紀半ばには商業利用対象魚種の多くが絶滅しかねない」とまで科学者が警告している今日との、あまりに大きなギャップを感じざるをえませんね・・・


◇食といのちを見つめること・その2

<前回>
http://kkneko.sblo.jp/article/22147835.html

 いただいた野菜の中に"丸々太った"ゴボウさんがありまして。保存が利くようにと、新聞に巻いてプランターに入れて土を被せてしばらく表に置いといたところ、勢いよく葉っぱが出てきました。根の一部を残しておけば、地上部が枯れても冬越しして、また次の年になれば収穫できるという寸法です。まさにゴボウ様々であります。
 同様に、食べ終わった残りの芋の欠片や種を庭に投げるだけで、また生えてくるといった野菜類は、挙げればきりがありません。
 じゃあ、"丸々太った"ブタさんが程よく育ったところで、食用に足だけ切って"残り"をほったらかしておいたら、また生えてきて元気よく庭を駆け回るかといえば、そんなことにはなりません。死んじゃいます。世界中を探し回っても、何度でも"収穫"可能なブタさんはどこにもいません。買ってきた豚肉を植木鉢に埋めといたら生き返る、なんてこともありません。骨を庭に投げたらそこから生まれてくる家畜、なんてのもいません。
 プラナリアや出芽が可能なゴカイなどもいますが、ヒトを含む脊椎動物を始め、多くの動物では、こんな真似はおよそ"不可能な芸当"です。ニンゲンの中には、自分の脂肪を料理するコックとかいうのがいたかもしれませんが・・こりゃ再生じゃないですね。余分な脂肪だし。。
 ゴボウと同じ仲間のキクは、葉っぱをちょん切って差しておけば生えてきます。しかし、足を切って差しておけば、そこから頭や心臓が再生して本体と同じ個体ができる、なんて動物はいません。雑草は、ほんのちょっぴり根が残っていても、また盛り返してきます。イモをはじめ、各種の栄養体と呼ばれる組織もまた然り。
 遺伝子のセットは"本体"と同じ。じゃあ、イモは一卵性双生児なのでしょうか? それとも、親子なのでしょうか??
 ニンジンの成長点の先のカルス細胞を培養すれば、ニンジンができます。まるで、髪の毛から分身する孫悟空ですね。ソメイヨシノも全部同じ個体のクローン。それに対し、動物の体細胞クローン研究は、テロメアの制約など未だに科学的に解決できない大きな壁が前に立ちふさがり、成功しているとはとてもいえません。植物は不自然な手を加えなくても自分で勝手にどんどんクローニングしているのに・・。
 草は、地上では別の個体に見えても、地下では根や地下茎がつながっていたりします。足の先がつながってる双子?(親子?) 一方で、樹木は単体と捉えられがちですが、形成層は一年置きに死んだ層の上に生きた層が積み重なってできるものですから、親の死体の上に、同じ遺伝子のセットを持ったこどもの生きた皮を年毎に被せているようなもの、といえます。また、花というのはすなわち繁殖器官であって、草木の多くは一つの身体に繁殖器官がいくつも付属しており、その一つ一つを個体とみなすこともできます。繁殖様式のまったく異なる動物で想像すると、かなり気色悪いですね(--;;
 さらに、挿し木は一体どういうことになるんでしょう??? 胴体を真っ二つに切って、そのうえに他人(あるいはサルとか)のお腹を接着すれば、自分の足の上に他ニン(サル)の腕やら頭やらが育つという寸法ですね。もう何が何やらわけがわかりません(--;;; 動物の脳ミソには、もはや明らかに理解の限度を越えます・・。
 これらは植物の持つ「モジュール性」という特性のなせる故。すなわち、植物には動物でいうところの「個体」という概念が存在しないのです。
 動物と植物(最近は分類体系が大きく見直され、生物の"界"は5つとも7つともいわれていますが、ここでは大雑把に動物とそれ以外の真核多細胞生物としておきましょう・・)とは、進化の流れの中で大きく異なる生存(遺伝子存続)戦略を取ってきました。独立栄養が基本で、定着して空間資源を確保しつつ、モジュールを増やしていく戦略をとってきた植物に対し、ごく一部の共生タイプを除き、専ら従属栄養型の動物は、可動性を生かして能動的に資源を探索・取得するスタイルを選択し、発展させてきました。前者:植物は、有性生殖に頼らない柔軟な増殖オプションを多数揃え、受粉や種子拡散にあえて動物によって捕食されることまで利用するようになりました。一方、後者:動物は、リスクを回避する運動性と痛覚を備え、中には状況を総合的に判断する思考を営む複雑な中枢神経系を備えるものも出てきました。さらに、一部の分類群では、生残率を高めるうえで有利な社会性・コミュニケーション能力を獲得しました。繁殖はオーソドックスな有性生殖を基本としながらも、より生存価の高い子孫を残すための配偶者の選択に社会行動的(心理的)要素が取り込まれ、多様なバリエーションをもたらしました。
 動物が植物と異なり、個体の境界がくっきりと明瞭で、感情や感覚、個性(パーソナリティ)を備えているのは、科学的・合理的な帰結です。私たちニンゲンは、まさしくそうした動物の一種に他なりません。

※捕捉:
 植物間でも"陣地取り"のための活発な化学物質伝達はありますが、これはまさに動物と対照的な固着性という植物の特徴から発達したもので、もちろん動物(含むニンゲン)の個体間の意思疎通とは違います。攻撃的要素が強いですし・・。
 音楽(モーツァルトとか・・)を聞かせると、野菜の成育がよくなるというのも、よく耳にする話。これはまあ、当たっているのでしょう。1/f揺らぎの振動が関係してそうな気がしますが・・。
 注意していただきたいのは、ここには動物の個体間の社会関係と類似の要素が何もない、ということです。畑の作物に愛情を注いだ結果、「美味しくたわわに実った」というのは──そのこと自体はもちろん結構なことだと思いますが・・思い込み≠フ要素が強いとしても──≪双方向性のある社会的コミュニケーション≫ではありません。
 中には、「サボテンがしゃべった」とかいうヒトたちがいて、ものの本には「外でカノジョと懇ろにしてたのを、家のサボテンがテレパシーでビビッと感じた」という神秘体験が語られているそうですが、犬や猫やヒトの家族でそんな得体の知れない超能力(?)なんぞを発揮する奴がいたら、気色悪くてとてもじゃないけど同居できないニャ(--;;
 犬や、猫や、イルカや、ヒトが、"お互いに"セラピストであり得るのは、そこに社会的な絆が成立し得るからです。これは、個体ではなく連続性のあるモジュールタイプの命を体現しているサボテンには、残念ながら真似できない芸当でしょう。自分と同じ株をどんどん増やしていくことはできても。

 結論としては、動物(ヒトも含まれる)と植物の命を同じ次元で並べようとすること自体、科学的にはナンセンスです。
 もちろん、「植物の命を大切にしましょう」というのは、タイヘン結構なことであり、筆者としては何の異存もありません。筆者自身は、第三世界で飢餓に苦しむ数百万人のこどもたちがいる一方で、日本人の食糧廃棄量が年間2千万トンに上るというこのご時世にあっても、植物であれ動物であれ、命を無駄にしないということにかけては決して人後に落ちないつもりです。ベジであるというだけでも、迂回生産の形ではるかに大量の植物を殺している肉食"人種"(先進国の中ではとりわけ日本でパーセンテージの高い・・)とは比較にならないほど、少量の犠牲で済んでいるはずです。
 余談ながら、ベジのカテゴリーの中には、「木になる実などは本体を殺さないので食べてもかまわないが、根っこを掘り出したりするのはダメ」というタイプがあります。これも科学性はあんまりないけど・・。
 しかし、植物の命を貶めるつもりは毛頭ないのですが……ヒト以外の動物に、表現・宗教・報道・集会の自由などヒト固有の諸権利(/義務)を求めることがナンセンスであるのと同じように、植物の"苦痛"に人道的配慮をしたり、植物の殺処分"数"の削減を政策指標として掲げるのは、やはりおかしな話といわざるを得ません。
 そして、逆もまた然りです。「植物を殺しているのと同じだから、屠殺に文句を言うな」(実際には、日本にも人道的屠殺に関して環境省の定める基準がある。他の先進国と違い、法的な拘束力はないが)、「植物がかわいそうだから、かわいそうな動物(ヒト以外の)も殺そう」といった主張には、一片の科学性も論理性もありません。
 ところが・・・・おそらく、草食"人種"の大抵の方に経験があろうかと思いますが、「ベジ宣言」した途端につっかかってくるヒトたちがいます。MIXIや2ch等のベジ板でも、反反捕鯨に負けじとばかり反ベジ/反反肉食に熱情を注ぐヒトたちが、次から次へとちょっかいを仕掛けてきて、いつも賑わっている模様。曰く、「植物は殺していいのか?」と──。
 これは、捕鯨擁護論者の「ウシやカンガルーは殺していいのか?」という突拍子もない屁理屈とまったく同根で、結論次第ではきわめて危険な思想に結び付きかねない代物です。何となれば、彼ら──筆者や他のベジと比べ、あるいはベジではなくとも野生動物保護・環境問題に・動物福祉に関心のある人たちに比べ、明らかに植物も動物も、クジラもそれ以外も、より多く殺していることは間違いないヒトたち──は、植物の犠牲を減らすために、具体性を伴う社会への提言をしているわけではまったくないからです。
 植物を殺すことは不可避であるという、入念な検討など最初から放棄した上での前提条件から出発し、「ならば動物も殺さないのはおかしいでしょ?」という"論法"なのです。
 「植物を殺す」→「動物も同じように殺さなければならない、犠牲を減らすことも、苦痛に配慮することも一切罷りならん!」という発想は、論理構造の観点からは、そのまま「植物も動物も殺す」→「ならば(動物の一種であるところの)ヒトも殺してかまわない、生かすのは差別につながりオカシイ」という発想に容易につながるものです。
 もっとも、個人の殺人は犯罪でも、国家による死刑や戦争という形での"殺人"は合理化されているのが現実ですから、地球より重いはずのヒトの命も、しょせんその程度の扱いしか受けていないとはいえるでしょう。「地球より重い」という非科学的なフレーズ自体、日本の最高裁が死刑を合憲と認めた時のものですし。
 「犠牲をいかにして減らしていくか」という視点がすっぽりと脱落し、同じ水準に合わせる"ロンリ"(それも生かすことではなく殺すことのみ)を至高のものとして奉る──死刑や捕鯨を合理化するこうした屁理屈は、結局命の犠牲を歯止めなく、無造作に増やす結果をもたらすばかりです。

 そもそも、人種や民族、性、思想、所得、学歴その他諸々の理由による差別を禁じる、今日ではほぼ世界共通となったハズの≪平等主義≫は、私たちニンゲンの社会において、「ヒトによるヒトへの差別」を抑止する目的から提唱されたのです。ヒト同士における問題を、ニンゲンによる他の動物の一方的取り扱いの峻別に適用しようとすれば、論理的に破綻するのは当たり前の話です。それも、生かす選択肢を優先する根拠として明示するならいざ知らず、「殺しの拡大・正当化」のために都合よく捻じ曲げて解釈しようというのですから。命や自由を守るための権利思想を、正反対の目的へ転化しようとするのは、まさに本末転倒です。
 では、他人のライフスタイルの問題に嘴を挟んでくるヒトたちが、なぜこうも後を絶たないのでしょうか?
 理由は簡単。自己正当化のために他なりません。「殺すな」「肉を食うのをやめろ」といわれる前に、バリアを張っとこうという、いささか過剰防衛めいた発想ですね。
 まあ確かに、特に海外では、主張を前面に打ち出して菜食を積極的に推進している運動団体などもあるでしょう。しかし、とりわけベジ後進国日本においては、どこぞの宗教団体さんたちのように新聞広告を盛んに打ったり、家庭訪問まで仕掛けてくるほど、大声を挙げているところはひとつもありません。せいぜい、「私は食べていません」という、この国で認められているところの個人の信条の表明、「食べない選択肢もありますよ」という慎ましやかな表現の自由の範囲にとどまっています。実際には、この国で間違いなく不利益を被っているのは、選択肢が非常に限られ、ときにはベジの家庭に育ったというだけで子供たちが不遇を強いられることさえある草食"人種"のほうで、飽食・廃食の自由を満喫し、謳歌している肉食"人種"ではないはずですが・・。
 私も「肉を食うな」と他人に向かって口うるさく指図するつもりはありません。こと捕鯨/鯨肉食に関しては、自分で南極まで泳いでいって絞め殺しているならいざ知らず、税金を投じた国家=大企業複合体による政治的動機も加わった事業であって、個人のライフスタイルとはまったく別次元の問題ですから、「無責任な消費行動によって加担することはやめたほうがいい」と勧告しますが・・。

 ただ筆者は、「殺して何が悪い」と自己正当化を図ろうとするヒトたちに対しては、非常に激しい不快感を覚えずにはいられません。そして、他の温厚なベジの皆さんとは違い、どうしても口が正直なもんで、「おかしいものはやはりおかしい」とだけは言っておきます。
 命を奪うことに後ろめたさを感じるのは、ヒトとして自然なことです。そこに"罪"を正当化する耳障りのいい言葉を提供されると、誰もがすがりつきたくなるものなのでしょう。
 しかし、生物としての自己の能力の範囲で獲物を仕留めることをしない現代の大多数のニンゲンが、「どのような生を"送らされて"きたのか」「どのように生を"やめさせられた"のか」という現実を目にしなくてすむよう、社会というシステムの衝立を幾重にも間に挟みながら、「その命が"命"であったこと」を意識しないで済ませている──というのは、やはりおかしい。

 食品偽装や食品汚染が次々と明らかになるこの国で、最近食べ物への「感謝」というコトバをやたら耳にする機会が増えた気がします。筆者には、どうしてもわざとらしい印象を禁じることができません。
 そもそも感謝"できている"国であれば、食がここまで崩壊するはずがないと思いませんか? よその国の飢餓を無視して食べ物を持て余している現状を黙認すること、殺しを正当化すること、命を奪っている現実から目を背けることにお墨付きを与えること──そのすべてが、"感謝"という、具体的な対策・行動を何一つ伴わない無責任でセンチメンタルなごまかしのコトバ集約しているように思えませんか?
 大体、感謝ってヒトに対するものでしょ? ヒトって、相手に感謝されると嬉しいでしょ。そりゃ、動物の感情ってそういうもんですから。
 じゃあ、一体殺された当の動物が、感謝されて喜ぶとでも思いますか?? 本気で??? あり得ないでしょ。天国でって? それって超非科学的。
 命は殺されたらそれでおしまいです。ヒトという動物も、ヒト以外の動物も。命というものは、取り返しがつかないからこそ、本当に尊いのではありませんか?
 筆者は、自分で殺すことが不可能な動物の肉を一切食べませんが、植物の命を奪うことに対しても、感謝という奇麗事で済ませるつもりはありません。他の命を奪って自分が生き延びることは""です。重い罪。激しい後ろめたさ、疚しい思いを絶えず引き摺りながら、罪の意識を背負いながら、その罪から解放されようなどと甘いことは決して考えず、居心地のよい贖罪のリクツになど耳を貸さず、命を奪うことに対しては常に慎重であり"続け"たいと思っています。生きている限りは。生かされている限りは。
 「アリガトウ」ではなく、「ゴメンナサイ」です。
 殺すことの後ろめたさを正視することさえせず、たかが"感謝"と引き換えに肉食を正当化するのは、やっぱり卑怯じゃないですか?

 もちろん、ここで書いたことはあくまで手前勝手な個人の価値観にすぎません。
 とはいえ、皆さんにも一つオススメしておきたいと思います。
 今日より明日、ほんのちょっぴり減らしてみませんか? 来週でも、来月でも、来年でも結構。一皿で結構。
 そして、肉食・廃食に関して、平均以下を目指してみませんか?
 もし、既に日本人の平均より"少ない自信"がある方は、世界平均以下にチャレンジしてみましょう。FAOや農水省の調査によると、日本人の1人当りの年間食肉消費量は1980年には30kgだったのが2000年には40kgにまで増えてしまっています。とりあえず年間20kgを目安に設定してみましょう。1日当りに換算すれば50g程度。ムリじゃないでしょ?
 世界平均は大雑把な計算だとおよそ1人年間10kg。食肉消費量は所得との相関が極めて高いのですが、これは"肉を食べられるヒト"が、"肉どころか穀物さえまともに食べられないヒト"の分を奪う形になっているということでもあります。
 「肉を減らす代わりに植物の犠牲が増えないか?」なんて心配はまったくご無用。迂回生産のカラクリがある限り、ベジを選択したあなたの勝ちです。魚を含む野生動物でも、やはり地球上の全人口を養うことは、生態学的・物理学的キャパシティからいってまったく不可能です。諸説ありますが、せいぜい数千万人程度。フィッシュベジでも結構なのですが、その場合は日本の沿岸で採れる魚種になるべく限定しましょう。輸入や温室栽培の環境負荷が気になる人は、地場で季節に採れる野菜にするだけでまったくノープロブレム。
 それから、動物の死体を食べなくたって、セロトニンはいくらでも出ます。筆者だったら、肉をバリバリ食って条件付けに基づく"生化学的な幸福感"に浸るよりは、たとえ短命でも犠牲を少なくすることの安堵感のほうを択りますけど・・。
 いずれにしても、心臓病や大腸癌など肉食過多に伴う諸々の健康問題は、タバコと同程度のレベルで疫学的に立証されています。たまにポッと出てくるこの手の肉食のプラス効果が、果たして由々しい健康上の悪影響を相殺できる程のものなのかは、大いに疑問の残るところ。大体、食肉業界の示すデータは、ニンゲン自身の疫学統計より実験動物の結果が多く、ニンゲンよりマウスの健康のほうに関心があるように見えますね・・。どのみち、タバコが世界からなくなるまでは、「肉の摂取量が少ないことで、余命が何日か縮むんじゃないか」なんて、心配するだけ寿命が縮まって損ですよ。反ベジ論者のそうした非科学的な屁理屈につきあう必要はありません。
 筆者自身は、形態学的にも生理学的にも生態学的にも社会行動学的にも完全な草食動物として適応している動物なのですが、社会的に"擬似肉食動物"として馴化されてきてしまった一般の現代日本人の皆さんにとって、いきなり純ベジを目指すのはハードルが高すぎるでしょう。若い方が段階的移行を経ずに無理をして途中でコケてしまった場合、反動で肉食過多信奉に転向してしまう危険もありますし。全共闘世代の企業戦士じゃないけれど・・。
 しかし、初期目標が≪平均以下≫なら現実的かつ合理的ですし、ペースも自分で好きなだけ調節できます。旧い栄養学の刷り込みの所為とはいえ、菜食の健康不安を払拭できない人もいるでしょう。でも、ゼロでなければ全然OKのはず。現状維持を認める偽りの言葉に身を委ねてしまうのではなく、ただほんのちょっぴり減らすだけでもいいのです。ザックリ減らす自信のある方には大いに挑戦してもらいたいと思いますが。
 簡単にできるうえに、あなたの心はきっととても軽くなるはずです。あなたは他のヒトよりは犠牲が少なく済んでいるのだから。他のヒトほどには命を奪っていないのだから。動物の命を奪うのが少ないだけでなく、大勢の子供たちの飢えの苦しみに対するあなたの加担も少ないのだから。多くの方は、こちらの罪悪感の方がさらに大きいでしょう。そのために、「自分にも出来るちょっとしたこと」を確かにやっているのだから。それだけでもセロトニンが分泌されて、長生きできる付随効果まで期待できるかも・・・
 他人と比較だなんて、なんだか後ろ向き? ダイエットと同レベルの自分本位で志が低すぎ? そうかもしれません。しかし、他のヒトより奪っている命が少なく済んでいるというのは、やはりたいしたことなのでは? しかも、多くの人がこぞって平均以下を目指すようになれば、平均値もどんどん下がっていくことになり、社会全体の犠牲の数を着実に減らしていくことになります。たぶん、純ベジ人口を増やすよりも実効性は高いでしょう。
 オールオアナッシングで、「ベジなんて変人にはなれないから」と、ほんのわずかさえライフスタイルを変えようとせず、ごまかしのフレーズばかりが幅を利かせる《ショク/イノチの偽装社会》よりは、よっぽどマシだと思いませんか?
 1人/1世帯当りのゴミの排出量や水、電力の消費量など、環境指標でもいろいろ使える≪平均以下≫のススメ。他人より多く持つことがステータスになっていた時代が終わり、少ないことで人から羨ましがられる新たな時代が来ればいいニャ〜と、筆者はそんなふうに願っています。そのとき、私たちの社会は、うわべではなく中身として確実に、ヒトにも、ヒト以外の生きものたちにも、何より地球に優しい成熟した持続可能な社会となっているでしょう。


参照リンク:
−資源・食糧危機を克服するために「エコ宝くじ」でつらい「世界平均」生活を楽しもう(JanJan)
http://janjan.voicejapan.org/living/0806/0806099139/1.php
−肉食.com
http://www.nikusyoku.com/
−ベジタリアンが暮らしにくい国(拙ブログ記事)
http://kkneko.sblo.jp/article/21557770.html


 さらに次号へ続く(汗) 今日から上映される子供(家族)向け邦画に一言物申しておきたいので・・・。ホントはこっちが本題の予定だったんだけど。。
 ・・やっぱり結論だけ先に言っておこうかニャ。。
 『ブタがいた教室』を子供たちに観せたいと思っている方へ。
 筆者は推奨しません。どうしても観せたいという方は、『いのちの食べかた』必ずセットで観せるようにしましょう。でなければ、『ベイブ』のDVDを借りてきて観せたほうがマシ。


−『いのちの食べかた』
http://www.espace-sarou.co.jp/inochi/
−『ベイブ』
http://info.movies.yahoo.co.jp/detail?ty=mv&id=28622
−『ブタがいた教室』
http://www.butaita.jp/

posted by カメクジラネコ at 12:27| Comment(2) | TrackBack(0) | 社会科学系
この記事へのコメント
日本は気候には恵まれていますが山林が多く、宅地や田畑を作れる土地が限りています。
山を切り拓くのは論外ですが、その山から猪や鹿が下りてきて畑を荒らすことがあります。ネットを張っても彼らは浸入しますが、安定した野菜の供給のためにはやはり多少の数殺すか、もしくは殺処分に反対する方々の食べる分の野菜が育てられる畑を潰して落葉広葉樹林などを作らなければならないと思うのです。
Posted by 泰 at 2014年01月29日 00:45
>泰さん

コメントありがとうございます。
憂慮されるお気持ちはわかるのですが、過疎化の問題、里山の荒廃はむしろ、私たち人間の側に原因のほとんどがあると思いませんか?
長期的視野を欠いたまま落葉広葉樹林を軒並み二次林にして、生態系のバランスを崩してしまい、その後やはり里山の管理ができなくなったことで、野生動物が山から下りる状況が作られているわけです。
多少の数を殺しても、根本の原因が取り除かれなければ焼け石に水で、安定した野菜の供給にはつながりません。現状がその証明に他ならないでしょう。
山村で耕作放棄地が増えている中で、「畑を潰して落葉広葉樹林を作る」という発想は、やはり筋が通りませんよ。
Posted by ネコ at 2014年01月29日 23:49
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