2008年10月04日

ヒトとライオンとイルカの心・その2

◇ワンコの心

 近所のおばあちゃん犬の親御さんが法事のため、代わってご飯をあげに。ガンの手術を克服し、もう二十歳に近い柴ワンコです。
 昔は、電気やガスの検針に訪れるオバチャンたちを追っ払う気丈な女の子でした。雷がダメというナイーブな一面も持ち合わせていたけど。最近はさすがに寄る年波で、足元が覚束なくなってしまい、階段が上れないため、散歩に行かず庭でおとなしくしていることが多くなりました。性格も丸くなったようです。ちょっぴり痴呆の症状も。たまにピンチヒッターでしかやってこないオッサンの臭いは、ちゃんと覚えていてくれるのですが・・。ノーリードで庭を自由にしていますが、夜はおうちに入れてもらっています。この夏の猛暑はなんとか乗り切ってくれたのですが。後1年でも2年でも3年でも、このままの時間が流れてくれれば……と祈る日々です。
 うちのフェレも、春先に捨て子だった1匹が亡くなり、もう1匹のもらい子も足と歯が悪くなってきました。
 子供たちの毛皮に触れていられる時間こそは、何物にも替えがたい至福のひと時。ただ一つの、あまりに大きな欠陥は、その時間が永遠には続かないことです。それ故に、幸せには痛みが、辛さが伴い、幸せだけをただ噛み締めるということができないのですが・・。
 悲しいことに、私は唯物論者であり、すべての命はたった一つ、たった一度きりで、だからこそ本当にかけがえのないものなのだということを知っているからこそ、死に直面した時に現実から目を背けることができません。子供の死は、即世界の終わりを意味します。その瞬間を境に、世界に在るすべてのものが生彩を失い、空気は息ができないほどに薄くなります。意味や価値というものが存在しなくなります。何故なら、それまでの幸せな日々が二度と還ってくることはないからです。 
 遺伝子を残し、生のバトンを譲り渡していくことが生物の存在仕様であり、自然の摂理であるとするなら、子を育てる役目を終えた親は、次代に活用されるべき資源を損ねないようさっさと席を譲り、その時点で"引き上げる"のが道理なのでしょう。たまたまエラーが生じて、自分の遺伝子の半分を所持するどころか、ゲノムの組み合わせすら異なる子を授かった場合も、先立たれたときの喪失感に差はありません。
 もし、命がカードのような形でお互いにやりとり可能なものであったとしたら、世界中で理不尽に命を絶たれる、とりわけ幼い命と交換できることができればどんなに素晴らしいことだろうと思います。その場合も、同種以外に譲ってしまうかもしれませんけど・・。まだ生きていていい、生きていてほしい命が無数に失われ、それを望んでいた人たちに耐えがたい苦痛を残しているにもかかわらず、死に損ないの抜け殻に等しい存在を永らえさせる、そんな現実の世界の不条理に対して、ときには抗議の拳を振り上げたい思いに駆られます。


◇ヒトとライオンとイルカの心・その2
 
 頭痛と熱と鼻水が止まらず(--;
 前回の続きのつもりでしたが、少々風呂敷を広げてネコ流の「バイオエシックス」論を展開してみたいと思います。高熱に浮かされてるわけではないけれど、多くの皆さんが反発や違和感を覚える異端記事になるかもしれません。ネトウヨ君たちは「いつもブッとんだことしか書かねーじゃねーか」というだろけど。。
 

 生物の個体を"単なる遺伝子の乗り物"になぞらえることには、ファンダメンタリスト(創造説信奉者)はもちろん、「生物は種の存続ために行動する」という文化的な先入観の混じった古典的生物学教育を受けてきた多くの日本人にも、俄かには受け入れがたいところがあるでしょう。リチャード・ドーキンスの「生物生存機械論」(邦訳のタイトルがよろしくないが・・)を初めて読んだときは、確かに筆者もある種の衝撃を受けたものです。が、反芻してからはしっくりと腑に落ちるようになりました。
 80年代以降、動物行動学界を席巻したソシオバイオロジーは、それまでの人間社会の倫理観、善悪の価値判断とリンクしていた群淘汰論的な行動進化の説明を根底から覆しました。地動説や進化論、あるいはプレートテクトニクスや量子論の登場に準ずる、一種のパラダイムシフトといえる学説でした。ちなみに、行動学者として有名なドーキンス氏ですが、調査捕鯨の非科学性を訴えるニューヨークタイムズの意見広告にも署名されています。氏はまた反宗教論者としても知られ、"ミーム"という概念を導入し、自己存続性の観点から宗教や文化を解体する作業に鋭意取り組まれています。国際PR発案の捕鯨ナショナリズムは、日本という地域で強固に定着したミームの典型といえるでしょう。
 遺伝子の存続を基本原則として、動物の行動戦略を定量的に解析し、そのパターンに合理的解釈を与えるのに成功したソシオバイオロジーでしたが、現実における多様な動物の社会様式・行動様式の存在は、机上の理論ほどシンプルなものではありません。生態系の多様性そのものと同様に、動物の社会行動も、環境が変動し様々な要素が複雑に絡み合う中で、特定の戦略のみが常に優位を占めることはなく、現実には多数の戦略が併存し得ることを示しています。それは、種の形態デザインと同じく、地球という惑星の空間スケールと永い進化史との産物でもあります。ですから、筆者は本流の進化論そのものとともに、この理論をすんなり受け入れることができるのです。
 もう一つ、"動物=生存機械"というフレーズからは一見矛盾することのようですが、ヒトを含む動物の"心"や"感情"、あるいは"愛"といったものにまで、科学的・合理的なお墨付きを与えるのが進化論の考え方だと筆者は思っています。『動物は何を考えているか』(ドナルド・グリフィス著、どうぶつ社)で詳細な論考と豊富な事例が紹介されていますが、脳という器官、そして心・感情・思考という作用/機構は、限られた遺伝子リソースを最小限に抑え、千変万化する環境に臨機応変に適応するための、非常に合理的な進化による生物学的応答の結果に他ならないのです。
 もし"心"を定義するとしたなら、脳という物理的・生物的基盤の上に成立し、感覚器を通した光学等物理情報に基づく環境に関する入力と、他者との相互作用(自己内フィードバックを含む)に基づく社会環境に関する入力をもとに、状況に適応するための出力(行動・コミュニケーション)を担う情報処理システム──というところでしょうか。そこには、五感や痛みのような知覚、生存や繁殖という生得的な要求に基づく情動や欲求、高度な意思決定から洞察に至るまでの諸相が含まれています。それらの入出力"作業"は、複雑に階層化されてはいても、いずれも個別的に分断された形で行われてはいません。私たちは、それらが脳という"一つの場所"で起こっている、統合的に処理されているということを体感的に理解しています。ゲノムでみればチンパンジーと1、2%程度の差しかないサルの一種であるところのヒトの心の働きが、他の動物とまったく別個のものであるというのは、むしろきわめて非科学的な結論と言わざるを得ません。
 心・思考・意識に関連して、ニンゲンのみに限定されると断定できるのは、記号を介した個体間の抽象概念のやりとりのみです。それさえ、チンパンジー、ゴリラ、バンドウイルカ、ヨウム、イヌ(ボーダーコリー)などの種でも、教育次第である程度可能なことがわかっています。また、野生のシャチ、ゾウ、カラスなどは、ヒトによる教育と無関係に豊富なバリエーションを有する音声言語を用いたコミュニケーションを成立させていますが、伝達される情報の中にもある種の概念が含まれている可能性は十分にあります。
 生理学的にみれば、重さや神経密度などの相対的な指標、外観のような大ざっぱな特徴≠ナしか、ニンゲンの脳をそれ以外の哺乳類の脳と峻別することはできません。鯨類は、その指標においてさえ、ニンゲンの地位を危ぶませる脳の持ち主ですが・・。ですから、進化のルーツを等しくする多くの動物で、心・感情のベースとなる部分が共通しているとしても、何の不思議もないといえます。ネオテニーのような形態的特徴から引き出される社会反応からも、種差を越えた"共通仕様"がそこに存在することは明らかでしょう。
 「イルカなどの動物にはヒトと違って感情がない」「本能によって水面に浮かぶものを持ち上げる機械にすぎない」などといった、動物の行動をまるで機械の所作であるかのように扱う説明は、そうした大脳生理学的見地以外の点でも、多くの不合理性を孕んでいます。
 生命の発生の仕組みに関しては、近年の分子生物学的研究により、一義的にはタンパク質の合成装置であるところのDNAを設計図とし、身体の各部位が発生のどのタイミングで生成するかという部分までは解明されてきました。しかし、DNAの塩基配列が、最終的に動物の"行動"という表現形で出力されるまでの過程は、ほとんど全部ブラックボックスに押し込められているわけです。生化学的には、せいぜいカルシウムイオンがゾウリムシの走性に関与しているらしいといったレベルしかわかっていません。もし、ある動物が一生涯に遭遇する環境(他個体との社会環境を含む)、一生涯になしうる行動を、すべて1対1の形式で画一的に対応させるとなったら、遺伝子の長さはとんでもなく長大になり、省力化の科学原則に著しく反するでしょう。おまけに、状況ごとに細かく設定された、ときに正反対の行動まで含まれる個々の行動を司る遺伝子は、すべてを一つの遺伝子群にまとめない限り、シミュレーターにかけたらたちまち淘汰されてしまう"負け組"遺伝子になってしまうに違いありません。
 最近ではむしろ、脳をして≪遺伝子からリアルタイム処理について委託されたエージェント≫とみなす見方が有力になっています。遺伝子自身は状況に応じた臨機応変な対処を行えないため、そういった部分については脳という機関にアウトソーシング≠オているというわけです。そのほうがよっぽど効率的ですし、戦略上はるかに有望であり、進化の実態にも見合っていますから。
 行動の"傾向"に関する遺伝子は、おそらく環境による調整を受ける以前のニューロン・ネットワークの初期配置や生成パターンに関する設計情報を請け負っているのでしょう。後天的な環境条件に左右されない、親譲りの性格とは、まさにそうしたものに違いありません。しかし、直接動物の個体に行動を指令するのは、設計図にすぎず融通の利かない遺伝子ではなく、あくまでも脳/心です。「生きる」「子孫を残す」という基本となる大方針を核に、パターン化された大まかな行動指針を本能として受け継ぎ、後はその場のシチュエーション次第で、自己体験のフィードバックや親・群れの他個体による社会学習の補正を受けつつ、生存という目的によりかなった行動に修正されていくわけです。思考と意識を司る脳は、生きものの進化がたどり着いた、最も合理的・効率的な解答なのです。そして、動物の行動の社会生物学的説明が有効なのは、心の多様な働きのうち生得的な傾向に関する部分といえます。例えば、どのような異性の姿態・行動に惹かれるかというような。
 子供への母性愛。異性への恋愛感情。血縁個体への利他行動。嫉妬。狂気。帰属意識。合理的な判断能力。それらはいずれも、進化上有利な結果を導く複数の行動の組み合わせを、状況に応じて取捨選択する機能としての心の働きに他なりません。ヒトという動物の一種も含め、ときには生存のレールの上から外れてしまうこともあれ、大枠ではその目的にかなっているからこそ、心を所持する動物たちの存続と繁栄を可能にしてきたわけです。
 リアルな動物の行動を観察するとき、「なぜそれが在り得るのか?」の合理的説明を求める科学の原則と、心の存在とは、何一つ矛盾するものではありません。それによって、現象を最もうまく説明できるからです。逆に、「動物に心がない」とするのは、科学性・合理性のない主観的な偏見にすぎないのです。
 もっとも、脳による処理の底辺、心のバックグラウンドとなる知覚に関しては、動物の種それぞれで大きな隔たりがあります。可聴範囲の周波数、可視光の波長域、嗅覚細胞の数、それらの情報を最終的に処理するニューロンの脳に占める割合も、動物によってまったく違います。水中環境に適応し、視覚と聴覚が逆転して光学ではなく音響による能動的な感覚情報処理を行っている鯨類と、ヒトの心とは、その意味ではまったく別物でしょう。もっとも、それはヒトの個体同士であっても同じことです。先天的に感覚障害のあるヒトの心は、障害のないヒトの心と違っているかもしれません。いわゆる自閉症のサヴァン症候群のヒトたちにも同じことがいえるでしょう。ちなみに、筆者も実は聴覚障害があり、悲しいことにベースの弦の音やニイニイゼミの声が聞こえません(--; つまり、聴覚に異常のない方とは違う世界に住み、そうした環境で精神的な発育がなされてきたわけで、乗り越えがたい壁がひょっとしたらあるのかもしれません。
 感覚情報によって構成される環境の差がなくてさえ、同種の個体間の"心の個体差"というものに度々私たちは出くわします。ボタンをかけ違え、合図を取り違え、足並みも足の向きも揃わず、「なぜ、相手に自分の意図が全然伝わらないのか?」とか、「なぜ、相手の意図がちっとも読めないのか?」という具合に面くらうわけです・・。生物としてのヒトの特性に大差がないにも関わらず、ものの見方、感じ方がいかに違っているかということには、驚かされるばかりです。同じ本や映画を鑑賞しても、同じ景色を眺めても、同じ曲を聴いても、同じシチュエーションに直面しても、どれほど反応が異なることか。その差異を生ぜしめているものは、おそらく言語・宗教・思想・趣味・出身地の社会/家庭環境など、多岐にわたるでしょう。しかし、身体能力や感覚器の性能は、決定的要素でないどころか、ほとんど影響していないようにさえ思われます。筆者自身の例を再び引き合いに出すと、他人と比較してみて、聴覚と音楽の好みの違いに関連性があるとは思えませんし、心理的な性向であればなおさらです。
 もう一つ、社会的に近しい個体として、友人や恋人(家族という群れの核をなす配偶者候補)を選ぶときの基準というものを考えてみましょう。対人的な好感度を測るとき、ヒトのみの特性といわれる理性・抽象思考が、あまり大きな役割を果たしていないと思いませんか? 友人・家族・恋人との日々の会話というものは、社会関係を強化・補修するコミュニケーションの一環ですが、話される会話の内容自体、やりとりされる言語情報は、実はどうでもよかったりするわけです。今日のテレビの話題だろうと、ニンゲンとは何ぞやという哲学的内容だろうと。いま彼/彼女の言った台詞の内容がAだろうとBだろうと。親密な関係になりうるかどうかを決めるのは、趣味・性格を始めとする"相性"がしっくりくるか。どこと言われてもすぐには説明できない、全体的な"雰囲気"が決め手だったりします。それらは前述の、種内個体差の激しい感性、ものの見方や感じ方の相違に他なりません。手始めに趣味や思想等の共通属性から入るとしても、親密度があがる(グッとくる、ピンとくる、ビビッとくる)きっかけは、言葉の概念によらないシチュエーションなのではないでしょうか。要するに、きわめて動物的。思想や宗教観も重要な要素かもしれませんが、それもむしろ相性の一部ですし、性格より上位の基準にならなかったりします。保守(あるいは革新)政治家同士で犬猿の仲のヒトがたくさんいたり、支持政党の異なる夫婦(そういえば別党の議員の組み合わせもあるし・・)を見ればおわかりのとおり。
 すなわち、ヒトの個体関係はまさしく社会性哺乳類のそれなのです。サルの一種として、群れの個体同士に築かれる社会関係の延長線上にあるのです。どれほど言葉で取り繕っても、ヒトの社会性・個体間コミュニケーションの基本が動物史的に引きずってきたものであることは、否定の余地がありません。
 そうしてみると、種差というのは、あまりに幅広い個体差と比べれば、実際たいしたことはないのかもしれません。一番大きな線は、私と他者(ヒトとそれ以外とを問わず)であり、ヒトの中の民族や人種、一部の思想や宗教に限定されたグループでもなければ、ゲノムで区分される種としてのヒトでさえないのかもしれません。自己と他者の絶対的に隔絶された一線に比べれば、そんな違いは些細なものなのかもしれません。
 少々哲学的な議論に踏み込みますが、記号化しうる情報以外の、感覚・感情・感性については、自我の檻から出ることは誰にもできません。自覚の有無、客体と主体、その間には絶対的な壁が存在します。「用意周到に構築された唯我論を論破することは不可能だ」ということは、しばしば指摘されるところですが、そうした唯我論的立場からすれば、生命のある他者も無生物と何ら変わらないわけです。私たちヒトは社会生活を営み、そこにリアルさを見出す動物であるが故に、普通そうした立場をとることはないのですが。
 社会性哺乳類であるところの我々ヒトは、個体間で意思疎通を試みるコミュニケーション能力や共感能力を発達させてきました。その延長線上に、記号化された言語というものが出来上がってきたわけです。言語自体は、前述したように、イルカやゾウやカラスなども、少なくとも数十のボキャブラリーを含む言語を間違いなく持っています。共感能力についても、脳のかなり基本的な機能として多くの社会性哺乳類や鳥類の個体が持っていることを、筆者は疑っていません。「呼べば来るカメ」もそうかも・・。ヒトとほぼ変わらない、生得的衝動から状況判断・洞察に至る連続的な心理状態の諸相を持つとすれば、やはり心の一側面である感情の面においても、これらの動物がヒトにきわめて近いといえるでしょう。それは、イヌネコ等を家族に持つ多数のヒトの証言を待つまでもありません。イルカに癒されるヒトも、ヒトを癒すイルカも、お互いに近い動物であればこそそれが可能なのです。
 ライオンの子殺しには、社会生物学的に合理的な説明がつけられます。しかし、それは機械的な反応ではありません。ソシオバイオロジーが主流になる以前ですが、著名な動物学者の小原秀雄氏はライオンの異常行動に対してある種の"狂気"という表現を使われました。その解釈は、遺伝子的に見た子殺しのメリットと決して相容れないものではないだろうと、筆者は思います。遺伝子に付託された脳/心の働きとして、餌生物の乏しい過酷な環境ではしばしば狂気に駆られ、豊かな環境では正気を維持できるとみなせば、観測と理論は見事に符合します。ライオンについては、ヒトの手で育てられ野生に帰された個体のあまりに有名な逸話があるように、ヒトと社会的コミュニケーションが可能な心を持っていることは否定できません。子殺しという事実に対しては、目を背けたくなる印象を多くのヒトが抱くでしょうが、そうした心理はヒトの社会において後天的に形成されたものでしょう。筆者は、「他の雄の子供を不快に感じる、嫉妬に通じた殺伐とした雄の心情」に感情移入することができます。雌全般には理解できにくいかもしれませんが、これは文化的に学習・醸成された心理ではありません。
 フェミニストに文句を言われる前にあらかじめ断っておくと、シリアゲムシの強制交尾ではありませんが、動物心理学的な背景が(一部に)あるからといって、社会的・政治的背景を無視したり、ましてやニンゲン社会で子殺しを正当化することなど当然許されることではありません。もっとも、チンパンジーの子殺しに関しては、感情移入できないというか、逆にニンゲンに近すぎて少々怖い気もするんですけど・・。
 一方で、動物種間で広く共通する心理の代表的な事例が母性愛でしょう。ミイラになった子を抱きつづけるチンパンジーやニホンザル、同様に仔イルカの亡骸を背負い続けるイルカ、あるいは全身に火傷を負いながら火事の家に飛び込んで仔猫を運びだす母猫の、生物学的算盤勘定からすれば利益のない、あるいはリスクの高すぎる狂気と紙一重の愛情は、母性愛が個体や状況によるバリエーションのない単調な機械的反応ではない≠アとを示すものです。そしてまた、一種のエラーと解される非遺伝的利他行動も、本能が機械的反応にすぎなければ決して起こり得ないもの。個体によっては、他の母親の嫡子、あるいはネオテニー的特徴を共有する他種の幼若個体に対してすら、我知らず母性愛を発揮してしまうものなのでしょう。それは、母親を体験したヒトの雌であれば実感できる感情のはず。本能と軽蔑されるものの掛け替えのなさを知っているはず。自分の子を傷つける痛ましい事件が相次いでいる今の日本では、もしかしたら否定的な反応が返ってくるかもしれませんが・・。人工授精に頼ってでも自分の遺伝子を残したがるヒトたちもまた、肌の色の違う養子や犬猫の"子"には利他的愛情を注げないのかもしれませんし。父性愛も同様に生物学的に根拠のある"愛"ですが、ゴリラなどと違いヒトという種においてはかなり弱いのかもしれませんね・・。ニンゲンの社会構造がもともと母系だったか父系だったかは議論の分かれるところですが。
 いずれにしろ、それらは気の遠くなるほど長い歳月をかけて地球上に存続してきた自然界・生物界の、偶然と必然の数知れぬ積み重ねから生まれてきた、自然の≪自然な存在仕様≫なのです。こどもに対する掛け値なしの、誰もが理屈抜きで神々しさを覚える母性愛も、属する集団の垣根を取り払った博愛も。餌を前にして他の個体を押しのける剥き出しのエゴも、子殺しにさえつながる狂気も。いずれも生物学的な由来があります。バックグラウンドで働いているのが遺伝子の存続という原理だとしても、機械的な本能として蔑み否定することも、原理主義的に美化することも、どちらも過ちです。自然がありのままにあるということは、ニンゲンの価値判断の範疇外のことだからです。自然というものは、ディープエコロジストが崇拝する善でも、宗教ファンダメンタリストが敵視する悪でもなく、そうしたニンゲンの価値観から隔絶されたところで、ただ確かなものとしてそこに"在る"だけなのですから。

 さて……反反捕鯨プロパガンダが大成功を収めた背景のひとつに、「非科学」「非合理」といった用語に対する日本人の敏感さが挙げられるでしょう。それほどまでに、日頃科学的合理的思想に慣れ親しみ、宗教カルトを嫌悪しているはずの日本の一般の方々でも、なぜかニンゲンの心や精神に関しては、突然オカルト的発想≠ノすがりつきたがる傾向を持つことが、筆者には不思議に思えてなりません。
 確かに、心や精神といったものが科学によって完全に解明され得るかといえば、答えはNOでしょう。しかしそれは、科学の未熟さ、科学的分析手法や方法論の限界、あるいはニンゲンがニンゲンの視座から決して離れられないことに起因しています。心というものが、科学では捉えきれない、自然の摂理から切り離された"何やら得たいの知れないもの"だから、ではありません。それなのに、どういうわけか、何か神秘のベールに包まれたもの、聖なるもの、霊的なもので「あって欲しい」という願望を抱き、ともすれば神といった想像上の非合理な超常の存在(その実はヒトの映し身であるフィクションのキャラクター)にその出自を求めたりするのは、ある意味滑稽ですらあります。その一部は、明らかに死という自然現象に対する拒絶反応からくるものと考えられますし、謎は謎のままであって欲しいという気持ちもわかるのですが・・。
 古典的な宗教や神話は、確かに千年単位の時をかけて、億人単位の創作者がよってたかってこねあげただけのことはある、素晴らしい"文芸作品"でしょう。しかし、フィクションはフィクションとして楽しむべきで、やはり現実を捻じ曲げて自分や他人を欺くのはいけません。ニンゲンは紛れもなく自然の一部であり、動物に他ならず、自然の法則に反する存在では決してあり得ないのです。物理法則から数学まで、一切の科学を拒否するならいざ知らず。人間性、ニンゲンの諸権利、ニンゲンであることの高尚さ、尊さの根拠は、科学的事実から目を背けるのではなしに、まったく別のところに求めなければなりません。
 ヒトは、ヒトがヒトたる所以をずっと捜し求めてきました。他の動物にないヒト固有の特徴というと、道具の二次・三次利用を始め、いろいろありそうです。戦争をする能力、環境を改変(破壊)する能力、地理的な境界を越えてネットワークを築く能力、武力衝突を回避して話し合いで問題を解決する能力、新しいものを創造し伝播し後代に伝える能力、知識を蓄積し科学技術を発展させる能力、生命を尊重し犠牲を減らす能力、etc.etc.・・・・
 チンパンジーやダーウィンフィンチ、ササゴイからバブルネットを漁に使うザトウクジラまで、道具を使う動物は珍しくありません。言語を持つ種は前述したとおり。状況に応じて創造的に機転を利かせる動物も、飼育下のサイやコアリクイ、犬や猫やフェレット、野生のカラスやイルカにだってできることです。戦争も、環境破壊も、自然の自己存続性を原理としながら、"存続されるべき自己"の定義のほうが生物学的なそれからいつのまにか"別のもの"に置き換えられてしまい、抑制が働かなくなってしまったものと見て取ることができます。哺乳類のくせに攻撃性だけグンタイアリやウィルスのレベルになったというところでしょうか。反対に、平和主義や平等主義のほうは、ヒトをヒトたらしめるまっとうな理由に見えます。が、実際には無益な衝突によるリスクの回避も、典型的な動物の行動進化のパターンの一つなのです。どのみち、圧倒的な武力に見合うだけの回避能力は、ヒトにはまったく備わっていなさそうですが・・。博愛は利他行動のエラー、ないしは対象となる血縁個体の人類共同体への拡大普遍化にすぎません。"動物性を原点としない人間性"を探るのはかなり難しそうです・・。結局、ニンゲンは動物としての"しがらみ"から決して逃れることはできないということでしょう。
 そもそも、ニンゲンの作り出した文明社会は、動物本来のヒトとしての行動様式を修正してきました。そして、善悪の価値判断というニンゲン独自の基準を編み出してきました。死が生態系のサイクルの一部として当たり前に起こる自然界の方向性とは、異なるベクトル、ないしはズレが生じたといえます。自然と直接関係ないように見える種社会内部のモラルも、元をただせば動物としてのヒトの社会性の個々の要素を肯定的に、あるいは否定的に解釈して、拡張したり抑制したものとみなせるでしょう。
 善と悪とがともに動物性と無縁でないとするなら、ヒトが紛れもない動物であるという科学的事実を踏まえぬまま、倫理を構築するのは不可能であり、かつ無意味です。といって、文明化の過程で徐々に培われてきた倫理的な価値観を放棄して野生に帰れ、と唱えることもまた無理な相談です。ヒトが動物でありながらさらに一段高位の存在であるためには──というよりもそこに近づくためには──ニンゲンの動物性を弁えた上で、"人間性"について絶えず検証し続けていくことが必要でしょう。
 科学技術についてはどうでしょうか? ニンゲンの価値を高める倫理的物差しとなり得るでしょうか? それは、生物としての種とはまた異なる"人類"という集団の蓄積、歴史的所産であり、実際には個々人の生物学的な能力ではありません。だからこそ、コントロールしきれない負の部分が出てくるのでしょう。
 芸術は? これも人類全体の所産ですし、芸術家=人類という定義に当てはめようとすれば、芸術家のスキルを司る遺伝子(これは確実にありそう・・)を持たないヒトの99.99・・%は、人類の範疇から漏れてしまうでしょう。絵筆を握るゾウは含まれるかもしれませんけど・・。
 抽象思考、教育、表現といった諸能力は、ヒトという種の能力を説明するキャプションにすぎず、ヒトが万物の霊長として肩をそびやかして偉ぶるほどの至高の存在であると証明するには、物足りなく思えます。チーターが時速100キロで走り、マグロが時速300キロで泳ぐというのと同レベルで。
 では、知性や理性は? それらが具体的にどういうものかとなると、どうも釈然としません。もし、他の動物殺しを正当化できるほど、ヒトが確固たる知性や理性の持ち主であったなら、私たちの社会に汚職や犯罪や戦争といったものは一切見当たらないはずでしょう。「お前にそれだけの高い知性や理性が備わっているのか?」と問われれば、そう言い切れる自信は筆者にはまったくありません。
 後残っているのは──生命の尊重くらいでしょうか。
 ある概念に価値を見出し、それを大切にするということは、イルカやチンパンジーを含め、他の動物にはかなり難しいことのように思われます。動物たちにできるのは、ただその価値を体現することだけですから。
 もっとも、何に価値を賦与するか、その優先順位については、議論の余地はあるでしょう。平和主義・博愛主義を改良された動物性、軍拡主義を歪んだ動物性とみなし、それぞれに正負の価値を与えることは、悪くない試みかもしれません。軍拡主義者は認めないでしょうが・・。
 一方、伝統文化を挙げるヒトもいそうですね。しかし、それは各宗教と同じくドーキンス氏の言葉を借りればただのミームです。第三者による伝統の重み付けを可能にする共通指標がないうえに、異文化と比較して優劣を付けたがるようではお話になりません。
 愛国心、国家への忠誠もまた然り。群れへの帰属意識を、個体同士の顔の見えない、動物らしいリアルな社会的コミュニケーションの実態のない範囲にまで拡大させただけのものにすぎません。あるのは、メディアによって演出された、つながっているという思い込みに基づく偽りの社会性のみ。哺乳類というより、むしろ社会性昆虫の巨大な群体を彷彿とさせます。一匹一匹が水面に浮かぶ屍と化してアリの行軍を支えるような、ただの部品として扱われるような。比喩的な表現としてしばしば使われる国家や民族の"DNA"なんてものは、もちろん存在しません。それはミームです。
 ミームの典型である宗教の、「神の手による創造」といった定義は、進化という科学的事実を頭から拒絶している時点でそもそもナンセンス。そのうえ、迷信を否定するヒトが"ヒト"の中に含まれない点においても、まさに非人間的定義といえるでしょう。
 してみると、特定の一部のヒトたちの嗜好に偏らない概念を抽出して普遍的価値を見出す作業は、これまたなかなかに大変そうです。しかも、それらの多くは、アプリオリに自明のものとして絶対視するなり、循環論法に頼ることでしかその価値を定義付けできず、"シンパ"以外には受け入れられる余地がありません。「フィクションのキャラクターに造られた」という定義、すなわち≪二重のフィクション≫という薄っぺらな存在にされるのは、筆者自身はまっぴらごめんです。そんなカテゴリーに含められるくらいなら、畜生で、ケダモノのままで結構。
 それを言ってしまえば、「生命を尊重する能力」に価値を置くのも同じことかもしれません。ただ、他の定義に比べても、宗派やイデオロギーその他の社会的階層によらず、相当多数のヒトたちが抵抗なく受容できるのではないでしょうか? ミームとしてみた場合の"生命力"はかなり弱そうですけど・・。また、この定義もアプリオリではありますが、それはリアルな、特に身近な生と死そのものを見つめることで体感的に会得される尊さです。
 身近な生命を愛惜しく感じ、掛け替えのないものとして認識することは、遺伝子の存続という生物学的法則に則ったごく"自然な"仕様です。そして、「自分にとって大切な命があるように、他者にとっても大切な命がある」と敷衍する能力は、ニンゲンという種に特徴的な高い共感能力と合理的思考によってもたらされるものです。すなわち、理性と感性の統合により導き出される"自然な"結論といえるでしょう。この定義の何よりの利点の一つは、生命を尊重しないヒト(すなわちヒトの定義に含まれないヒト)がいても、生命を蔑ろにされない点でしょうか。「差別をしない」ことまでヒトの定義に含めれば、相手がヒトだろうがヒトでなかろうが、差別を受けることもなくなりますし、ね・・。
 残念ながら、ヒトというサルの一種のあるべき野生状態を想定した場合より、はるかに大量かつ無駄に多くの生命を奪っている現実からすると、ヒトはこの万物の霊長の定義≠ゥらはおよそ程遠い存在ということになってしまいますが・・。そして、食糧を大量に廃棄し、犬猫を大量に殺処分し、国内の野生動物を大量に駆除し、さらに南極の野生動物の命まで奪い続ける捕鯨ニッポンは、"人間らしさ"と反する行為が推奨される代表的な国ということになるでしょう。
 ここでいう生命の尊重とは、具体的に犠牲を減らす、そのためにこそニンゲンならではの"知恵"を行使するということです。宗教や信仰における観念、ただのお題目としての尊重≠ニは違います。殺しておいて、適当に儀式をしたり、塚を作ったり、祈りの口上を述べて済ませることではありません。誤魔化すことではありません。それはやはり、命を奪うことを正当化する口実を提供するだけの、自己存続特化ミーム以外の何物でもありません。
 定義のもう一つの有力候補は"ニンゲンであること"・・。ですが、ニンゲンが自己の不完全さに目をつぶり、ただ単純にニンゲンであるというだけで数々の横暴を自己正当化するのでは、万物の霊長としての資格を自ら擲つようなものです。また、歴史を振り返っても、現在においてさえ、ヒトの定義がぶれることによって不利益を被る"ヒトにあらざるヒト"を必然的に生み出すことになるでしょう。

 筆者がここで"万物の霊長たるところの人間存在"の定義に関して提唱したことは、多数派の意見ではないでしょうし、どちらかといえばかなり少数派の考え方かもしれません。付け加えれば、"捕鯨反対論者の一般哲学"ではなく、完全に筆者個人の見解であることを念押ししておきたいと思います。多くの反捕鯨国を含む西洋圏に育ったヒトには、むしろより受け入れがたいものかもしれません。
 。ただし、「ニンゲンの一体どこが、なぜ尊いのか?」という根源的な問いは、捕鯨問題という個別のテーマと長く、深く向き合う過程で、避けて通れないものでした。議論自体は捕鯨協会/国際PRが批判から目を逸らすためにブチ上げたものですが・・。稚拙ながら、ここに示したのは筆者がたどり着いた一つの結論です。
 ありとあらゆるヒト以外(死刑や戦争の文脈ではヒトも含む)の動物に対して、生殺与奪の権利を持つかのように振る舞い、オオカミやトキやカワウソやアシカを絶滅に追いやり、ツキノワグマを新たにリストに加えんとし、神の遣いのシカを平然と間引き、ゴミの不始末を棚に上げてカラスを虐殺し、年間2千万トンの食物を持て余して廃棄し、メタボを患いながらも家畜を大量に殺して"製品"の等級ラベルを張り替え、見かけがグロテスクで商品価値がないという理由だけで食べられる魚さえ殺してそのまま海に投げ捨て、コレクターの満足のために外来動物を持ち込み飽きては放逐して駆除し、店先のガラス越しに愛誤的感傷を抱いて家族の代用品を購入した挙句「思ったのと違う」と責任を放棄して税金で建てた殺処分施設に押し付け、現実を何一つ変えずに供養碑さえ建てれば「命を大切にしたことになるのだ」などと声高に謳い、そのようにして地球のはるか裏側の南極の自然に属する野生動物までも、過剰な在庫を抱える飽食の国が大量に殺し続けようとすることに、筆者は日本人として深い悲しみと憤りを禁じ得ません。そして、「他の動物も殺すように、ともかくクジラであろうと何であろうと殺すんだ! 殺さないのは差別だ! 殺しを減らすことは絶対罷りならん!」と豪語するニンゲンとは一体何様なのか──と問わずにはいられません。自然界の法則から決して逃れることなどできない、たかがサルの一種の分際で。それであれば、懸命に仲間を救おうとするイルカたちのほうがどれだけマシでしょう。子殺しをすることもあるライオンですら、いつまでたっても戦争をやめられない愚かなニンゲンほど荒んではいません。「私がかわいい」「私がかわいそう」「私だけはシアワセになりたい」といって逃げることしかできない醜いヒトと比べれば、死をも越えた利他性を発揮する犬猫たちのほうが、よほど気高い存在と呼ぶに相応しいのではないでしょうか。
 いま、国と捕鯨業界は、商業捕鯨に反対する国内発の声を遮断し、鯨肉入りの給食を食わせてこどもたちを馴化しようと企てています。ブログの形で意見を公にする以外、対抗手段もなかなかなくもどかしい限りなのですが、それでも可能な限り、声を伝えていかなくてはなりません。
 野生動物が、豊かな自然の中で、ありのままに、自由に生きることの価値を認め、生きものを傷つけたり、苦しめたりすることを、少しずつでも減らしていくことのできる社会にこそ、人間性の証を見出せる……そんな世代に、今の日本のこどもたちが育ってくれるように──

posted by カメクジラネコ at 02:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 自然科学系
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