今回は太地ネタ2本。まずはイルカ猟関連の報道から。
◇太地イルカビジネス、JAZAと縁を切って万々歳?
■太地イルカの取引4割増 和歌山、15年度漁期 (5/12,共同)
http://this.kiji.is/103223288249189883?c=39546741839462401
http://this.kiji.is/103223288249189883?c=39546741839462401
JAZAのWAZA除名騒動が巷をにぎわせたのが、ちょうど昨年の今頃。皆さん、覚えてますか? 覚えてますよね??
もう忘れちった(><)という方は、下掲の過去記事及びリンクを読んで、一連の経緯を復習してニャ〜。
もう忘れちった(><)という方は、下掲の過去記事及びリンクを読んで、一連の経緯を復習してニャ〜。
■沖縄を切り捨て太地を庇う、自民党と日本政府のすさまじいダブスタ
http://kkneko.sblo.jp/article/133050478.html
■水族館の未来
http://kkneko.sblo.jp/article/145181677.html
■またやっちゃった! 産経パクリ記者佐々木氏のビックリ仰天差別・中傷記事
http://kkneko.sblo.jp/article/163126790.html
http://kkneko.sblo.jp/article/133050478.html
■水族館の未来
http://kkneko.sblo.jp/article/145181677.html
■またやっちゃった! 産経パクリ記者佐々木氏のビックリ仰天差別・中傷記事
http://kkneko.sblo.jp/article/163126790.html
12日の共同配信記事の意味するところは明らか。
振り返れば、マスコミやネットでの反応がいかに大げさで、無意味なものだったことか。
民間の業界団体であるWAZAが、展示動物の調達に関するグロスタの指針を、イルカという特殊な政治的動物にも適用させることを、加盟する会員組織にも求めただけのことなのに、あたかも外国が攻めてきたかのごとき、北朝鮮を髣髴とさせる苛烈な反発が日本国内で巻き起こったわけです。市井のネトウヨのみならず、国会議員や和歌山県知事のような公的立場にある人々からも。
今回の報道が改めて浮き彫りにしたとおり、買い手が他にいくらでもある太地にとっては、困ることなど何もなかったのです。
実際には逆だったのです。もし、JAZAが勧告に耳を貸さずWAZAから除名されていたなら、(「国際交流などどうでもいい」というごく一握りの水族館以外の)動物園・水族館の多くが多大な不利益を被るところでした。
このことは当時も各方面(筆者も含め)から指摘されていたことなのですが……。
振り返れば、マスコミやネットでの反応がいかに大げさで、無意味なものだったことか。
民間の業界団体であるWAZAが、展示動物の調達に関するグロスタの指針を、イルカという特殊な政治的動物にも適用させることを、加盟する会員組織にも求めただけのことなのに、あたかも外国が攻めてきたかのごとき、北朝鮮を髣髴とさせる苛烈な反発が日本国内で巻き起こったわけです。市井のネトウヨのみならず、国会議員や和歌山県知事のような公的立場にある人々からも。
今回の報道が改めて浮き彫りにしたとおり、買い手が他にいくらでもある太地にとっては、困ることなど何もなかったのです。
実際には逆だったのです。もし、JAZAが勧告に耳を貸さずWAZAから除名されていたなら、(「国際交流などどうでもいい」というごく一握りの水族館以外の)動物園・水族館の多くが多大な不利益を被るところでした。
このことは当時も各方面(筆者も含め)から指摘されていたことなのですが……。
それどころか、太地のイルカビジネスにとっては、うるさい注文をつけてくる、堅苦しい、しち面倒くさいだけの顧客と縁が切れて、逆に大いに潤ったわけです。一時的な不利益すら被ることなく。
ハンドウイルカの生体販売価格は9月で1頭100万円、10月以降90万円。食用では1頭2〜3万円(〜下掲毎日記事)。ちなみに、今猟期は生け捕られたハンドウ50頭が9月中の捕獲でした。
今シーズンは前年度比4割増。金額で表すと、いさな組合の売上はおよそ8千万円から1億2千万円に。実に4千万円分の増収。ホクホクですね。
さらに、これに公社が調教済オプションを上乗せすると1頭当り500万円前後に。こちらに卸した頭数は今のところ不明ですが。
一方、食用のイルカ肉の売上は全部合わせても2千万円程度。生体販売と大きな開きがあります。つまり、調査捕鯨ではないけれど、生体が事実上の主産物で肉は副産物≠ネわけです。
ハンドウイルカの生体販売価格は9月で1頭100万円、10月以降90万円。食用では1頭2〜3万円(〜下掲毎日記事)。ちなみに、今猟期は生け捕られたハンドウ50頭が9月中の捕獲でした。
今シーズンは前年度比4割増。金額で表すと、いさな組合の売上はおよそ8千万円から1億2千万円に。実に4千万円分の増収。ホクホクですね。
さらに、これに公社が調教済オプションを上乗せすると1頭当り500万円前後に。こちらに卸した頭数は今のところ不明ですが。
一方、食用のイルカ肉の売上は全部合わせても2千万円程度。生体販売と大きな開きがあります。つまり、調査捕鯨ではないけれど、生体が事実上の主産物で肉は副産物≠ネわけです。
■[記者の目] 和歌山・太地 イルカ追い込み漁=稲生陽(和歌山支局) ('15/9/9,毎日)
http://mainichi.jp/articles/20150909/ddm/005/070/074000c
■財団法人 太地町開発公社 平成25年度損益計算書|太地町議会議員 漁野尚登のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/nankiboys_v_2522/33027399.html
http://mainichi.jp/articles/20150909/ddm/005/070/074000c
■財団法人 太地町開発公社 平成25年度損益計算書|太地町議会議員 漁野尚登のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/nankiboys_v_2522/33027399.html
以下は2猟期分の太地追い込み猟の捕獲数内訳を示した表。ソースはセタベース。
■DRIVE HUNT RESULTS | Ceta-Base
http://www.ceta-base.org/taiji/drive/results.php
http://www.ceta-base.org/taiji/drive/results.php
冒頭にリンクを掲げた共同記事の記述について、ちょっとチェックしてみましょう。以下、背景着色部分引用、強調筆者。
生体販売の数字117頭は合っていますが、936頭の方はセタベースと一致しません。リリースした個体を含むのか、突きん棒との合算なのか否か、この大ざっぱな書き方だと判然としませんが・・。
生体販売の数字117頭は合っていますが、936頭の方はセタベースと一致しません。リリースした個体を含むのか、突きん棒との合算なのか否か、この大ざっぱな書き方だと判然としませんが・・。
日本動物園水族館協会(東京)が追い込み漁で捕獲された個体の入手禁止を加盟施設に義務付けて以降初の漁期だったが、規制の有効性が改めて問われそうだ。(引用)
上掲したように、これはWAZAおよびJAZAという業界団体内の規約に各会員が従うかどうかの話でしかないのですから、よそがそれを「問う」こと自体まったくの筋違いです。(法的な)規制は現在存在しないのです。
「義務付けて以降初の漁期」という表現も正しいとはいえません。WAZAでは十年以上前からイルカの入手方法について議論され、2004年の年次会議で既に太地追い込み猟の非人道性を強く非難する決議を出しています。これは調達も含め展示動物の福祉に配慮するWAZAの倫理規約に即した内容であり、イルカを特殊視して日本を悪者扱いしたものではありません。WAZAもJAZAも、日本・太地に遠慮して、この間厳格な運用を怠っていたという謗りは免れませんが。
繰り返しますが、そもそも規制なんてものは何もないのです。必要なのは、日本の動物愛護・動物福祉面での法整備と運用。その中で、実効性を伴う展示動物の調達における倫理指針をきちんと設けることであり、あるいはCITES(ワシントン条約)、CMS(ボン条約・日本は未批准)等の国際法において同様に具体的な規制基準を設けるよう促していくことです。
現状を例えるなら、製品の安全性や品質についてメーカーの業界団体が法的拘束力のない自主基準を設けるだけでは、未加盟の業者がいくらでも売ることができてしまい、消費者が不利益を被り続けるのと同じこと。
法的な規制が導入されるまでは、<消費者=水族館を利用する人々>が<サービスの提供者=水族館>を賢く選ぶしかないのです。
持続可能な水産物の指標となるMSC(マリンエコラベル)と同様、イルカの調達方法について他の展示動物と同様に動物福祉に配慮されているかどうか、水族館を娯楽サービスとして消費している一人ひとりの消費者の姿勢が、改めて問われて≠「るのです。
動物園・水族館についてはそもそも展示も含めさまざまな議論があり、日本の水族館は他の先進国に比べ何周分も遅れているのは事実です。イギリスではとっくの昔に水族館のイルカ飼育はなくなり、米国では『ブラックフィッシュ』効果でシーワールドがシャチの飼育・繁殖を断念しました。他の先進国でも批判が強まっています。新興国として太地産イルカの需要が高まっている中国・韓国等でも、既に反対の声が上がっています。そんな中、日本の水族館消費者のほとんどは、何の疑問も抱かずにショーを愉しんでいるのが実情です。
しかし、消費者が情報を入手し、相対的によりよい方を選択することは可能であり、またその手段が提供されるべきです。いま現在は飼育・展示施設のほとんどのイルカが太地産ではありますが、非人道的な捕殺と決別した水族館か、イルカ殺しと共存共栄の路線を未だに歩みながらその事実を伏せる水族館か、そこは見極めるべきでしょう。
「義務付けて以降初の漁期」という表現も正しいとはいえません。WAZAでは十年以上前からイルカの入手方法について議論され、2004年の年次会議で既に太地追い込み猟の非人道性を強く非難する決議を出しています。これは調達も含め展示動物の福祉に配慮するWAZAの倫理規約に即した内容であり、イルカを特殊視して日本を悪者扱いしたものではありません。WAZAもJAZAも、日本・太地に遠慮して、この間厳格な運用を怠っていたという謗りは免れませんが。
繰り返しますが、そもそも規制なんてものは何もないのです。必要なのは、日本の動物愛護・動物福祉面での法整備と運用。その中で、実効性を伴う展示動物の調達における倫理指針をきちんと設けることであり、あるいはCITES(ワシントン条約)、CMS(ボン条約・日本は未批准)等の国際法において同様に具体的な規制基準を設けるよう促していくことです。
現状を例えるなら、製品の安全性や品質についてメーカーの業界団体が法的拘束力のない自主基準を設けるだけでは、未加盟の業者がいくらでも売ることができてしまい、消費者が不利益を被り続けるのと同じこと。
法的な規制が導入されるまでは、<消費者=水族館を利用する人々>が<サービスの提供者=水族館>を賢く選ぶしかないのです。
持続可能な水産物の指標となるMSC(マリンエコラベル)と同様、イルカの調達方法について他の展示動物と同様に動物福祉に配慮されているかどうか、水族館を娯楽サービスとして消費している一人ひとりの消費者の姿勢が、改めて問われて≠「るのです。
動物園・水族館についてはそもそも展示も含めさまざまな議論があり、日本の水族館は他の先進国に比べ何周分も遅れているのは事実です。イギリスではとっくの昔に水族館のイルカ飼育はなくなり、米国では『ブラックフィッシュ』効果でシーワールドがシャチの飼育・繁殖を断念しました。他の先進国でも批判が強まっています。新興国として太地産イルカの需要が高まっている中国・韓国等でも、既に反対の声が上がっています。そんな中、日本の水族館消費者のほとんどは、何の疑問も抱かずにショーを愉しんでいるのが実情です。
しかし、消費者が情報を入手し、相対的によりよい方を選択することは可能であり、またその手段が提供されるべきです。いま現在は飼育・展示施設のほとんどのイルカが太地産ではありますが、非人道的な捕殺と決別した水族館か、イルカ殺しと共存共栄の路線を未だに歩みながらその事実を伏せる水族館か、そこは見極めるべきでしょう。
気になるのは最後の一文。昨年にも報道されたとおりですが。
昨年8月の受注時には、例年並みの約150頭の申し込みがあった。(引用)
■No drop in orders for Taiji dolphins despite restriction (8/11,JapanTimes)
http://www.japantimes.co.jp/news/2015/08/11/national/taiji-moratorium-means-aquariums-may-reducing-dolphin-shows/
http://www.japantimes.co.jp/news/2015/08/11/national/taiji-moratorium-means-aquariums-may-reducing-dolphin-shows/
要するに、太地が今年4割も増収を達成したのは、受注が増えたからではないわけです。
太地が捕獲したイルカを求める水族館・卸売業者(輸出)の購入順は抽選で決める仕組みになっていますが、今年はそのアタリの確率が高かったわけです。
主な理由は、表にもあるとおり、売れ筋のハンドウイルカの捕獲が大幅に増えたこと。積極的に捕獲したのか、たまたま沿岸への来遊が昨年より多かったのかわかりませんが。
太地が捕獲したイルカを求める水族館・卸売業者(輸出)の購入順は抽選で決める仕組みになっていますが、今年はそのアタリの確率が高かったわけです。
主な理由は、表にもあるとおり、売れ筋のハンドウイルカの捕獲が大幅に増えたこと。積極的に捕獲したのか、たまたま沿岸への来遊が昨年より多かったのかわかりませんが。
もし、わざわざがっつくようにハンドウイルカの捕獲数を増やしたのだとすれば、WAZA/JAZA、あるいは内外の反イルカ猟団体・市民に対するアテツケ、「自分たちはダメージなど負っていないのだ」という姿勢のアピールにも映ります。太地町長三軒氏ら関係者の発言を踏まえれば、何の不思議もないと思いますが……。
そんなところも、米国や日本の圧力に屈せず、「核を持つのをやめろ」と批判されればされるほど頑なさを増し、核開発への道を突き進もうとする北朝鮮にそっくり。
米国こそが最たる核保有国であり、日本がその核の傘に依存しているのも、核不拡散条約がきわめて不平等な条約であることも、確かに事実ではあります。戦争はすべからく残虐なものであり、「核さえなくせばいい」わけではないのも。
しかし、いくら正論≠セからといって、それは北朝鮮が核を持つことを正当化する口実にはなりません。
戦争も、差別も、「どれがより残虐な兵器か」「どれがより陰湿な差別か」をめぐる議論に終始して、現実を一歩も変えようとしないなら、私たちの社会は一歩も前へ進むことができなくなります。それでは戦争も差別もない世界など決して実現できやしません。
太地のイルカ猟に関しても、まったく同じことがいえると思いませんか?
そんなところも、米国や日本の圧力に屈せず、「核を持つのをやめろ」と批判されればされるほど頑なさを増し、核開発への道を突き進もうとする北朝鮮にそっくり。
米国こそが最たる核保有国であり、日本がその核の傘に依存しているのも、核不拡散条約がきわめて不平等な条約であることも、確かに事実ではあります。戦争はすべからく残虐なものであり、「核さえなくせばいい」わけではないのも。
しかし、いくら正論≠セからといって、それは北朝鮮が核を持つことを正当化する口実にはなりません。
戦争も、差別も、「どれがより残虐な兵器か」「どれがより陰湿な差別か」をめぐる議論に終始して、現実を一歩も変えようとしないなら、私たちの社会は一歩も前へ進むことができなくなります。それでは戦争も差別もない世界など決して実現できやしません。
太地のイルカ猟に関しても、まったく同じことがいえると思いませんか?
昨年騒動が持ち上がった際は、マスコミが必死に太地を擁護する一方で、「水族館が太地からイルカを買っているなんて知らなかった」という声も多数聞かれました。
「ウシを殺してイルカを殺さないのはサベツだが、同じ種・群れのイルカを追い込んで水族館で芸をさせるものと殺すものとに選別するのはサベツではない」との感覚で、イルカショーを存分に愉しむことができるという特殊思考の方以外は、きっとそこに大きな矛盾を感じられることでしょう。
家族連れで、アベックで、水族館を楽しむのも結構。
しかし、本当の裏側を知らずに心の底から楽しむことができますか? 最近はバックヤードを案内する企画も流行っていますけど。
いまあなたの目の前で演技をしているイルカは、いくら愛嬌たっぷりに見えても、仲間を殺され、子供と引き離され、その仔イルカも家族の絆を失って命を落としているかもしれないのです。
そこにあなたは癒しを見出せますか?
大切なのは、「水族館がどこへ向かっているのか」ということ。
今年、太地から新たにイルカの供給を受けた水族館として報道されたのは、以下の「志布志湾大黒イルカランド」「わくわく海中水族館シードーナツ」の2館。
「ウシを殺してイルカを殺さないのはサベツだが、同じ種・群れのイルカを追い込んで水族館で芸をさせるものと殺すものとに選別するのはサベツではない」との感覚で、イルカショーを存分に愉しむことができるという特殊思考の方以外は、きっとそこに大きな矛盾を感じられることでしょう。
家族連れで、アベックで、水族館を楽しむのも結構。
しかし、本当の裏側を知らずに心の底から楽しむことができますか? 最近はバックヤードを案内する企画も流行っていますけど。
いまあなたの目の前で演技をしているイルカは、いくら愛嬌たっぷりに見えても、仲間を殺され、子供と引き離され、その仔イルカも家族の絆を失って命を落としているかもしれないのです。
そこにあなたは癒しを見出せますか?
大切なのは、「水族館がどこへ向かっているのか」ということ。
今年、太地から新たにイルカの供給を受けた水族館として報道されたのは、以下の「志布志湾大黒イルカランド」「わくわく海中水族館シードーナツ」の2館。
※ 23日になって読売が報道したため、リンクを追加。JAZA非加盟施設リストの「じゃのひれドルフィンファーム」を確信犯施設(赤太字)に。
■串間の施設に新入りイルカ、太地町から4頭 (5/1,読売)
http://www.yomiuri.co.jp/kyushu/nature/animalia/20160502-OYS1T50050.html
■新たなイルカお目見え 上天草市の水族館 (3/22,熊本日日)
http://kumanichi.com/news/local/main/20160322003.xhtml
http://www.yomiuri.co.jp/kyushu/nature/animalia/20160502-OYS1T50050.html
■新たなイルカお目見え 上天草市の水族館 (3/22,熊本日日)
http://kumanichi.com/news/local/main/20160322003.xhtml
■太地の生け捕りイルカ販売増、「入手禁止」1年 (5/23,読売)
なお、昨年は太地に同調する姿勢を示していた館が4館(太地町立館は除く)ありましたが、実際にJAZAを脱退したのは現時点では「あわしまマリンパーク」のみ。
■Five aquariums may quit association over Taiji dolphin ban (5/25,JapanTimes)
http://www.japantimes.co.jp/news/2015/05/25/national/five-aquariums-might-quit-jaza-over-taiji-dolphin-ban/
http://www.japantimes.co.jp/news/2015/05/25/national/five-aquariums-might-quit-jaza-over-taiji-dolphin-ban/
以下に、引き続き太地のイルカビジネスを支える形で貢献する可能性のあるJAZA非加盟館をリストアップしておきます。赤太字は今年JAZAから脱退ないし太地からイルカを購入したり入札に参加したことが判明している確信犯的施設。
ニンゲンが自然・野生動物に対する絶対君主∞暴君≠ニして振る舞い、生殺与奪の権利を振りかざし、同じイルカを食い殺したりショーを鑑賞したり好きなように愉しむことをよしとする方は、以下の施設を応援してお金を落とすのも一興。
「そんなの嫌だ」という方は、最低でも現JAZA加盟の水族館を訪れるようにしましょう。
ニンゲンが自然・野生動物に対する絶対君主∞暴君≠ニして振る舞い、生殺与奪の権利を振りかざし、同じイルカを食い殺したりショーを鑑賞したり好きなように愉しむことをよしとする方は、以下の施設を応援してお金を落とすのも一興。
「そんなの嫌だ」という方は、最低でも現JAZA加盟の水族館を訪れるようにしましょう。
★JAZA非加盟水族館
わくわく海中水族館シードーナツ(熊本)
犬吠埼マリンパーク(千葉)
あわしまマリンパーク(静岡)
新屋島水族館(香川)
海きらら(長崎)
仙台うみの杜水族館(宮城)※
犬吠埼マリンパーク(千葉)
あわしまマリンパーク(静岡)
新屋島水族館(香川)
海きらら(長崎)
仙台うみの杜水族館(宮城)※
※ このうち、昨年開館したばかりの仙台うみの杜水族館は、東日本大震災で被害を受け、閉館となった加盟館のマリンピア松島水族館の代わりに新設されましたが、経営は八景島グループ。飼育動物はマリンピア松島から委譲されています。イルカは横浜の八景島シーパラダイスからも持っていったとのこと。早急にJAZAに加盟してもらいましょう。
☆JAZA非加盟イルカ飼育施設
ドルフィンファンタジー伊東(静岡)
イルカ島海洋遊園地(三重)
淡路じゃのひれアウトドアリゾート(兵庫)
南紀田辺ビーチサイドドルフィンin扇ヶ浜(和歌山)
日本ドルフィンセンター(香川)
イルカ島海洋遊園地(三重)
淡路じゃのひれアウトドアリゾート(兵庫)
南紀田辺ビーチサイドドルフィンin扇ヶ浜(和歌山)
日本ドルフィンセンター(香川)
本島イルカ村(香川)
室戸ドルフィンセンター(高知)
壱岐イルカパーク(長崎)
つくみイルカ島(大分)
志布志湾大黒イルカランド(宮崎)
室戸ドルフィンセンター(高知)
壱岐イルカパーク(長崎)
つくみイルカ島(大分)
志布志湾大黒イルカランド(宮崎)
ドルフィンファンタジー石垣島(沖縄)
ルネッサンスリゾートオキナワ/もとぶ元気村(沖縄)
ルネッサンスリゾートオキナワ/もとぶ元気村(沖縄)
*太地イルカ追い込み猟と不可分の施設
太地町立くじらの博物館(以下すべて和歌山)
ドルフィン・ベェイス
ホテルドルフィンリゾート
和歌山マリーナシティ
ドルフィン・ベェイス
ホテルドルフィンリゾート
和歌山マリーナシティ
リスト参考資料:
■「日本の施設で飼育されているイルカたち 水族館はイルカの飼育に適しているか?」|ヘルプアニマルズ
http://www.all-creatures.org/ha/saveDolphins/aquariumreport.pdf
■加盟園館検索|日本動物園水族館協会
http://www.jaza.jp/z_map/z_seek00.html
■「日本の施設で飼育されているイルカたち 水族館はイルカの飼育に適しているか?」|ヘルプアニマルズ
http://www.all-creatures.org/ha/saveDolphins/aquariumreport.pdf
■加盟園館検索|日本動物園水族館協会
http://www.jaza.jp/z_map/z_seek00.html
参考リンク:
■いるか漁業(追い込み漁)と生体販売の関係
http://togetter.com/li/824325
■WAZAによるJAZAへの協会会員資格停止通告と、これまでの飼育下鯨類をめぐる環境についての一連ツイート
http://togetter.com/li/821186
■「池上彰のニュースそうだったのか!!2時間SP」の中で言及されたWAZAJAZA問題部分まとめ
http://togetter.com/li/837312
■激論!コロシアム【イルカが消えるだけじゃない!?日本を追い込む"やっかいなニュース"の真相!】(2015.6.13放送)
http://togetter.com/li/834969
■いるか漁業(追い込み漁)と生体販売の関係
http://togetter.com/li/824325
■WAZAによるJAZAへの協会会員資格停止通告と、これまでの飼育下鯨類をめぐる環境についての一連ツイート
http://togetter.com/li/821186
■「池上彰のニュースそうだったのか!!2時間SP」の中で言及されたWAZAJAZA問題部分まとめ
http://togetter.com/li/837312
■激論!コロシアム【イルカが消えるだけじゃない!?日本を追い込む"やっかいなニュース"の真相!】(2015.6.13放送)
http://togetter.com/li/834969
◇哀しき虚飾の町・太地〜影≠フ部分も≪日本記憶遺産≫としてしっかり伝えよう!
■平成28年度「日本遺産(Japan Heritage)」の認定結果の発表について|文化庁
http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/2016042501.html
http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/2016042501.html
■「日本遺産」 新たに19件が選ばれる (4/25,NHK)
http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/700/243220.html
■捕鯨文化語る「鯨とともに生きる」が日本遺産に認定 (4/25,WBS和歌山放送)
http://wbs.co.jp/news/2016/04/25/79967.html
■熊野灘の捕鯨文化が日本遺産に (4/26,紀伊民報)
http://www.agara.co.jp/news/daily/?i=313618&p=more
■捕鯨文化が日本遺産に 命に感謝する物語 (5/3,紀伊民報)
http://www.agara.co.jp/column/ron/?i=313960&p=more
http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/700/243220.html
■捕鯨文化語る「鯨とともに生きる」が日本遺産に認定 (4/25,WBS和歌山放送)
http://wbs.co.jp/news/2016/04/25/79967.html
■熊野灘の捕鯨文化が日本遺産に (4/26,紀伊民報)
http://www.agara.co.jp/news/daily/?i=313618&p=more
■捕鯨文化が日本遺産に 命に感謝する物語 (5/3,紀伊民報)
http://www.agara.co.jp/column/ron/?i=313960&p=more
先月、文化庁が熊野灘の捕鯨文化を「日本遺産」として認定しました。
報道をチェックしたところ、19件のうちとくに和歌山の捕鯨の名を挙げたのは、各大手紙地域版と地域紙くらい。ただ、NHKは全国ニュース(Web版でのみ)で代表例のひとつとして言及した模様。
日本の捕鯨推進派はこれまで、ことあるごとにブンカブンカと口うるさく吠えてきたわけですが、一口に伝統文化といってもピンからキリまであります。捕鯨・鯨肉食文化が一体どの程度格調高い文化≠ネのか、数ある日本文化の中でどのように重く位置づけているのか、われわれ日本人にとってすらイマイチピンとこなかったわけです。
何しろ、1970年代までは、新聞の社説はどこも蛋白自給論までで、日本捕鯨協会/国際ピーアールがこのキャッチコピーをひねり出すまで「伝統」を持ち出していたところは一紙もなかったくらいですから。
以下は2009年の記事ですが、その後も今年まで文化勲章受賞者と文化功労者の中に捕鯨関係者は見当たりません。
報道をチェックしたところ、19件のうちとくに和歌山の捕鯨の名を挙げたのは、各大手紙地域版と地域紙くらい。ただ、NHKは全国ニュース(Web版でのみ)で代表例のひとつとして言及した模様。
日本の捕鯨推進派はこれまで、ことあるごとにブンカブンカと口うるさく吠えてきたわけですが、一口に伝統文化といってもピンからキリまであります。捕鯨・鯨肉食文化が一体どの程度格調高い文化≠ネのか、数ある日本文化の中でどのように重く位置づけているのか、われわれ日本人にとってすらイマイチピンとこなかったわけです。
何しろ、1970年代までは、新聞の社説はどこも蛋白自給論までで、日本捕鯨協会/国際ピーアールがこのキャッチコピーをひねり出すまで「伝統」を持ち出していたところは一紙もなかったくらいですから。
以下は2009年の記事ですが、その後も今年まで文化勲章受賞者と文化功労者の中に捕鯨関係者は見当たりません。
■文化の日に《ほげ〜ぶんか》について考える(拙ブログ過去記事)
http://kkneko.sblo.jp/article/33456331.html
http://kkneko.sblo.jp/article/33456331.html
そもそも日本は、経済優先・開発優先で、街の景観から歴史的建造物、遺跡、あるいはダムの底に沈められた由緒ある有形無形の文化遺産まで、他の先進国と比較しても伝統の価値に重きを置いてきたとはいえない国です。
国際的には、国際捕鯨委員会(IWC)においても先住民生存捕鯨に定義される一部の捕鯨に限り、別格の扱いを受けています。迫害されてきた歴史を持つ各地の先住民・少数民族の伝統に対しては一目置かれるべきだというのが、国際社会の共通認識であればこそ、当然の措置といえるでしょう。その定義に間違いなく当てはまるはずだったアイヌの捕鯨は、かつて日本政府が政治的意図のもとに潰してしまったわけですが……。
国際的には、国際捕鯨委員会(IWC)においても先住民生存捕鯨に定義される一部の捕鯨に限り、別格の扱いを受けています。迫害されてきた歴史を持つ各地の先住民・少数民族の伝統に対しては一目置かれるべきだというのが、国際社会の共通認識であればこそ、当然の措置といえるでしょう。その定義に間違いなく当てはまるはずだったアイヌの捕鯨は、かつて日本政府が政治的意図のもとに潰してしまったわけですが……。
■倭人にねじ伏せられたアイヌの豊かなクジラ文化
http://kkneko.sblo.jp/article/105361041.html
http://kkneko.sblo.jp/article/105361041.html
それら、ないがしろにしてきた数々の文化に優劣をつけ、国が税金を投じてアピールするのは、反反捕鯨論者の主張するところのサベツに当たるのではないかという気がしますが……。
ともあれ、今回の文化庁の指定で、やっと箔が付いた形になるのかもしれません。
ともあれ、今回の文化庁の指定で、やっと箔が付いた形になるのかもしれません。
しかし、はたして本当にそういえるのでしょうか?
さっそく中身を検証してみることにしましょう。
さっそく中身を検証してみることにしましょう。
日本遺産は一年前から同庁が始めた認定制度で、2年目の今年は19件、昨年分と合わせて33府県の37件がこれまで指定されています。「おらが県にも!」と知事や国会議員の先生方が鶴の一声を発するだけですんなり通っちゃう、あるあるパターン≠ノはまってるようにも見えます。この分だと、おそらく各都道府県毎にまんべんなく2、3件ずつ登録させる格好になりそう・・。空港や新幹線じゃないけど。
びっくりするのは、和歌山県/文化庁が付けたタイトル。なんと「鯨とともに生きる」。
もっとも、認定された日本遺産の「ストーリー」をながめてみると、どれも明らかに町興し・観光誘致のための宣伝文句のレベルに見えます。「飛鳥を翔(かけ)た女性たち」とか「政宗が育んだ“伊達”な文化」とか「よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶」とか。筆者にはもはや、イタイオヤジがかっこつけて命名したふざけたタイトルとしか思えません・・。格調どころか、軽薄な印象さえ受けてしまいます。
また、文化庁のサイトに掲載されている申請の様式やそのボリュームも、学生向けの課題レポートにしか見えません。これでは「申請した者勝ち」になるのは目に見えているでしょう。
認定にあたっては、「単に地域の歴史や文化財の価値を解説するだけのものになっていないこと」と但し書きもついているのですが、そのプラスアルファの部分に、筆者はどうも商売っ気を感じてしまうのです。そこを除いてしまえば、どれも単なる解説にしか見えません。
そういう意味では、下部機関イコモスが提案国から提出される膨大な資料を時間をかけて審議するユネスコの世界遺産ともまったくの別物。まさに商店街・商工会のブランドに国がお墨付きを与えたにすぎないように思えます。
さらに、都道府県・市町村レベルですでに文化財指定されたものも含まれており、一種の非効率な二重行政の謗りは免れません。定義と性格がはっきりしないのは、むしろ国の日本遺産の方ですが。
当の和歌山県の提出した資料がこちら。
びっくりするのは、和歌山県/文化庁が付けたタイトル。なんと「鯨とともに生きる」。
もっとも、認定された日本遺産の「ストーリー」をながめてみると、どれも明らかに町興し・観光誘致のための宣伝文句のレベルに見えます。「飛鳥を翔(かけ)た女性たち」とか「政宗が育んだ“伊達”な文化」とか「よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶」とか。筆者にはもはや、イタイオヤジがかっこつけて命名したふざけたタイトルとしか思えません・・。格調どころか、軽薄な印象さえ受けてしまいます。
また、文化庁のサイトに掲載されている申請の様式やそのボリュームも、学生向けの課題レポートにしか見えません。これでは「申請した者勝ち」になるのは目に見えているでしょう。
認定にあたっては、「単に地域の歴史や文化財の価値を解説するだけのものになっていないこと」と但し書きもついているのですが、そのプラスアルファの部分に、筆者はどうも商売っ気を感じてしまうのです。そこを除いてしまえば、どれも単なる解説にしか見えません。
そういう意味では、下部機関イコモスが提案国から提出される膨大な資料を時間をかけて審議するユネスコの世界遺産ともまったくの別物。まさに商店街・商工会のブランドに国がお墨付きを与えたにすぎないように思えます。
さらに、都道府県・市町村レベルですでに文化財指定されたものも含まれており、一種の非効率な二重行政の謗りは免れません。定義と性格がはっきりしないのは、むしろ国の日本遺産の方ですが。
当の和歌山県の提出した資料がこちら。
■平成28年度「日本遺産(Japan Heritage)」認定概要
http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/2016042501_besshi02.pdf
http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/2016042501_besshi02.pdf
M ◎和歌山県(新宮市,那智勝浦町,太地町,串本町)
≪鯨とともに生きる≫
(ストーリーの概要)
鯨は,日本人にとって信仰の対象となる特別な存在であった。人々は,大海原を悠然と泳ぐ巨体を畏れたものの,時折浜辺に打ち上げられた鯨を食料や道具の素材などに利用していたが,やがて生活を安定させるため,捕鯨に乗り出した。
熊野灘沿岸地域では,江戸時代に入り,熊野水軍の流れを汲む人々が捕鯨の技術や流通方法を確立し,これ以降,この地域は鯨に感謝しつつ捕鯨とともに生きてきた。当時の捕鯨の面影を残す旧跡が町中や周辺に点在し,鯨にまつわる祭りや伝統芸能,食文化が今も受け継がれている。(引用)
≪鯨とともに生きる≫
(ストーリーの概要)
鯨は,日本人にとって信仰の対象となる特別な存在であった。人々は,大海原を悠然と泳ぐ巨体を畏れたものの,時折浜辺に打ち上げられた鯨を食料や道具の素材などに利用していたが,やがて生活を安定させるため,捕鯨に乗り出した。
熊野灘沿岸地域では,江戸時代に入り,熊野水軍の流れを汲む人々が捕鯨の技術や流通方法を確立し,これ以降,この地域は鯨に感謝しつつ捕鯨とともに生きてきた。当時の捕鯨の面影を残す旧跡が町中や周辺に点在し,鯨にまつわる祭りや伝統芸能,食文化が今も受け継がれている。(引用)
■『鯨とともに生きる』が日本遺産に認定!|わかやま観光情報
https://www.wakayama-kanko.or.jp/information/2016/04/26/1385/
http://www.wakayama-kanko.or.jp/information/wp-content/uploads/2016/04/20160426_1.pdf
http://www.wakayama-kanko.or.jp/information/wp-content/uploads/2016/04/20160426_2.pdf
http://www.wakayama-kanko.or.jp/information/wp-content/uploads/2016/04/20160426_3.pdf
https://www.wakayama-kanko.or.jp/information/2016/04/26/1385/
http://www.wakayama-kanko.or.jp/information/wp-content/uploads/2016/04/20160426_1.pdf
http://www.wakayama-kanko.or.jp/information/wp-content/uploads/2016/04/20160426_2.pdf
http://www.wakayama-kanko.or.jp/information/wp-content/uploads/2016/04/20160426_3.pdf
新宮市からは既に県の指定文化財になっている鯨踊が登録されています。
ところで、同市には日本の古式捕鯨のルーツが実は中国にあるという、ストーリーとしても非常に面白いネタがあるのですが、こっちは日本遺産のセットに入れなかったのでしょうか?
ところで、同市には日本の古式捕鯨のルーツが実は中国にあるという、ストーリーとしても非常に面白いネタがあるのですが、こっちは日本遺産のセットに入れなかったのでしょうか?
■太地の捕鯨は中国産!? 捕鯨史の真相
http://kkneko.sblo.jp/article/18025105.html
http://kkneko.sblo.jp/article/18025105.html
確かに、日本遺産自体が格調高いものとは言いがたい、客寄せ目的の薄っぺらなキャッチフレーズになってしまっているなら、和歌山の申請だけが特におかしいとはさすがにいえません。
村上海賊や呉の軍港そのものを復活させろなんて声はどこからも挙がるわけがありませんし、ユネスコ世界遺産の石見銀山や富岡製糸場にしたって、今から稼働させろなんて誰もいいやしませんしね。
古式捕鯨の記録や史跡、あるいは派生的な伝統舞踊等に対しては、いくら海外の過激な反捕鯨活動家だって、否定する理由は何もありませんし、そもそも意味がありません。近代以前の捕鯨産業の歴史的価値については、現在は日本の公海捕鯨に強く反対している米国や豪州等の反捕鯨国でも、日本以上に尊重され、博物館等を通じてきちんと後世に伝える努力がなされているのですし。
もっとも・・江戸時代に太地の鯨組を仕切っていた和田氏の子孫でいらっしゃる太地亮氏は、和歌山県の申請内容について以下のように指摘しています。まあ、学芸員の資質をめぐるすったもんだは、部外者の関知するところではないのですが・・。
村上海賊や呉の軍港そのものを復活させろなんて声はどこからも挙がるわけがありませんし、ユネスコ世界遺産の石見銀山や富岡製糸場にしたって、今から稼働させろなんて誰もいいやしませんしね。
古式捕鯨の記録や史跡、あるいは派生的な伝統舞踊等に対しては、いくら海外の過激な反捕鯨活動家だって、否定する理由は何もありませんし、そもそも意味がありません。近代以前の捕鯨産業の歴史的価値については、現在は日本の公海捕鯨に強く反対している米国や豪州等の反捕鯨国でも、日本以上に尊重され、博物館等を通じてきちんと後世に伝える努力がなされているのですし。
もっとも・・江戸時代に太地の鯨組を仕切っていた和田氏の子孫でいらっしゃる太地亮氏は、和歌山県の申請内容について以下のように指摘しています。まあ、学芸員の資質をめぐるすったもんだは、部外者の関知するところではないのですが・・。
https://twitter.com/mackujira/status/727327944314523649
1999年、「南紀熊野体験博」が開催され、県より小冊子が発行されました。その中に太地町が資料を提供して「和田頼治は太地角右衛門と相談、網取捕鯨を考案」とあったので、同一人物であることを伝え、県に指摘して、増刷で訂正していただきました。太地町では現在でも誤りが多いです。(引用)
1999年、「南紀熊野体験博」が開催され、県より小冊子が発行されました。その中に太地町が資料を提供して「和田頼治は太地角右衛門と相談、網取捕鯨を考案」とあったので、同一人物であることを伝え、県に指摘して、増刷で訂正していただきました。太地町では現在でも誤りが多いです。(引用)
太地亮氏はこのほかにも、今日はマスコミや当の太地町自身が真逆のことを吹聴している、子持ちクジラを積極的に捕獲していたこと等、古文書をもとに風説の過ちを指摘されています。
「親子連れには決して手を出さない日本の人情捕鯨=vという都市伝説の大きな過ちについては、筆者も再三発信してきたところ。子殺しの伝統≠フみは、それ以外に古式時代から継承した部分など一片もない調査捕鯨で格段にエスカレートした格好ですが。
太地亮氏は他にも非常に興味深い指摘をされています。
「親子連れには決して手を出さない日本の人情捕鯨=vという都市伝説の大きな過ちについては、筆者も再三発信してきたところ。子殺しの伝統≠フみは、それ以外に古式時代から継承した部分など一片もない調査捕鯨で格段にエスカレートした格好ですが。
太地亮氏は他にも非常に興味深い指摘をされています。
■太地亮氏のHP・ツイッター・フェイスブック
http://www.cypress.ne.jp/taiji/akira.html
https://twitter.com/mackujira
https://www.facebook.com/akirataiji
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https://twitter.com/mackujira
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角右衛門頼治は今より300数十年前の当時、自然保護の立場から、「海を渡って来る鳥魚は、みな処を求めて寄って集まるものなれば、海べりの岩も海硝も大事に守り、損ぜざらまじき事」と、人間と自然・動物との調和を述べております。(引用)
この精神こそは、日本遺産として国内外に声高にアピールする価値のある、最も尊い文化だと筆者には思えます。
鯨肉という単なる食材、竜田揚げといった単なるレシピなどとは比較にならない、伝統の核心というべきものだと。
和歌山県選出で捕鯨問題の発信を多数なさっている鶴保庸介参院議員には、ぜひ自然海岸の厳格な保全を国策として協力に推進していただきたいもの。
何しろ、現代の日本の海岸はテトラポッドだらけ、ガッチガチにコンクリで固められ、持続的な水産資源管理に使われるべき水産予算の相当の部分が水産ゼネコンの手に渡っているのが現状。よく知られているとおり、反捕鯨国の代表格オーストラリアの方が、自然海岸の保全に関しては日本を圧倒的にリードしているありさまなのですから。
鯨肉という単なる食材、竜田揚げといった単なるレシピなどとは比較にならない、伝統の核心というべきものだと。
和歌山県選出で捕鯨問題の発信を多数なさっている鶴保庸介参院議員には、ぜひ自然海岸の厳格な保全を国策として協力に推進していただきたいもの。
何しろ、現代の日本の海岸はテトラポッドだらけ、ガッチガチにコンクリで固められ、持続的な水産資源管理に使われるべき水産予算の相当の部分が水産ゼネコンの手に渡っているのが現状。よく知られているとおり、反捕鯨国の代表格オーストラリアの方が、自然海岸の保全に関しては日本を圧倒的にリードしているありさまなのですから。
■サーフライダーによる海岸保全の世界的なうねり|海洋政策研究所
https://www.spf.org/opri-j/projects/information/newsletter/backnumber/2005/110_1.html
https://www.spf.org/opri-j/projects/information/newsletter/backnumber/2005/110_1.html
◎フランスやオーストラリアでは沿岸域の開発や海岸事業にはすぐには着手しないことが原則となっている。
◎沿岸域の総合管理という考え方は常識で、縦割りの行政による利害の対立は少ない。さらに、どの国の海岸状態も日本と比べると自然海岸の残存率は極めて高い。また、管理システムの特徴と同時に市民の社会参加も際立って高い。(引用)
◎沿岸域の総合管理という考え方は常識で、縦割りの行政による利害の対立は少ない。さらに、どの国の海岸状態も日本と比べると自然海岸の残存率は極めて高い。また、管理システムの特徴と同時に市民の社会参加も際立って高い。(引用)
もし、この誉れ高き捕鯨文化の真髄が、日本からすでに失われているとするならば、私たち日本人はまずその失われた精神を取り戻すところから始めなくてはならないでしょう。
それをせずして、形骸化したブンカを全国区にし立て、南極の自然を貪る口実にするなら、それは捕鯨を含む、先人の築いた由緒あるわが国の伝統文化に対する愚弄以外の何物でもありません。
それをせずして、形骸化したブンカを全国区にし立て、南極の自然を貪る口実にするなら、それは捕鯨を含む、先人の築いた由緒あるわが国の伝統文化に対する愚弄以外の何物でもありません。
太地亮氏がご先祖の興した事業を誇りにされるのは当前のことと思います。
ただ・・残念ながら、太地の古式捕鯨が自然保護に資した部分は、この一点をおいてのみでした。
ただ・・残念ながら、太地の古式捕鯨が自然保護に資した部分は、この一点をおいてのみでした。
古式捕鯨はすでに過去のものであり、先述のとおり批判する意味はありません。西洋の過去の捕鯨と同じく。
ただし・・それが現代の捕鯨推進・擁護に強引に結び付けられ、その病理を覆い隠す隠れ蓑として利用されているとなれば、話は別です。
仁坂和歌山県知事は当初、イルカ追い込み猟までこの日本遺産に抱きこむ意欲≠示していました。
仁坂和歌山県知事は当初、イルカ追い込み猟までこの日本遺産に抱きこむ意欲≠示していました。
■捕鯨文化、日本遺産に申請 和歌山県、追い込み漁盛り込まず (2/10,共同)
http://this.kiji.is/70112918748218870
http://this.kiji.is/70112918748218870
仁坂吉伸知事は太地町のイルカ追い込み漁も対象とすることに意欲を示していたが、「申請テーマからそれる」として盛り込まれなかった。(引用)
仁坂知事は当初、太地町のイルカ追い込み漁も対象に考えていましたが、盛り込まれませんでした。また和歌山市と海南市が申請していた「紀州徳川家の『父母状』を継承する街」は認定が見送られました(引用〜上掲和歌山放送)
見送りの理由がまたなんともぼんやりしてますが・・。さすがに知事以外の県関係者は、海外にPRするにはあまりにも逆効果が大きいと理解していたのでしょうけど。
それでもなお、仁坂知事は驚くべき文化認識をあからさまに表明しています。
太地町などで続く反捕鯨活動に対しては「鯨を殺すな、食べるなという人たちでも、祖先は捕鯨文化の下にいる。思想は自由だが、われわれがこういう文化を持って懸命に生きてきたことに対する尊敬の念はあってしかるべきだ。彼らの文化レベルが高ければ、古式捕鯨文化が脈々と息づいてきた日本遺産の意義は分かってもらえるはずだ」と話した。(引用〜上掲紀伊民報記事)
仁坂知事のコメントからは、はちきれんばかりにふくれあがった自尊心・優越感が読み取れます。
前述のとおり、反捕鯨国でも過去の伝統捕鯨まで否定されてはいません。乱獲と密猟の史実を「共存」という空疎な言葉でごまかす日本と異なり、殺す文化から生かす文化へとクジラとの付き合い方が移り変わったにすぎないのです。太地への水族館生体販売ビジネス導入の経緯が端的に示すように、文化の内実を都合よくコロコロと変質させてきた日本と比べても、伝統文化を尊重する姿勢がないなどとはいえません。
「自分たちの文化レベルは高いが、白人なり捕鯨に反対する者の文化レベルは低いのだ」などと口にする時点で、その人物は文化人と呼ぶにはあまりにも程度が低いといわざるをえません。
もちろん、本当に仁坂氏の言うとおり、日本の文化レベルが高かったなら、アイヌの捕鯨は日本政府によって滅ぼされることなく、諸外国の先住民生存捕鯨と同じように認められていたことでしょう。
仁坂知事のこうした常軌を逸した発言には、古式捕鯨の客観的な史実とはかけ離れた美化・理想化が如実に現れているといえます。
祖先から受け継いだものがすべて善≠ニは限らないのです。人権思想も民主主義も平和主義も、過去の過ちから学んだ結果として社会に浸透していったのです。
思い出すのは、ユネスコの明治産業遺産登録騒動と、南京大虐殺の記憶遺産登録に対する日本政府・ネトウヨの猛反発。
歴史の中で耳障りのよい部分だけを切り取り、演出を施して華々しく喧伝したがる一方、影の部分・負の側面については口を閉ざすばかりか、政治的に圧力をかけてもみ消そうと図る始末。
まさに文化の政治利用。
「尊敬の念」とは、誰かに強要するものではありません。
仁坂知事がここまでおっしゃるなら、本当に古式捕鯨が神聖崇高な代物だったのかどうか、しっかり検証してみることにしましょう。
知事の言う、それを持って「懸命に生きてきた」文化の中身が、いったいどのようなものであったかを。
前述のとおり、反捕鯨国でも過去の伝統捕鯨まで否定されてはいません。乱獲と密猟の史実を「共存」という空疎な言葉でごまかす日本と異なり、殺す文化から生かす文化へとクジラとの付き合い方が移り変わったにすぎないのです。太地への水族館生体販売ビジネス導入の経緯が端的に示すように、文化の内実を都合よくコロコロと変質させてきた日本と比べても、伝統文化を尊重する姿勢がないなどとはいえません。
「自分たちの文化レベルは高いが、白人なり捕鯨に反対する者の文化レベルは低いのだ」などと口にする時点で、その人物は文化人と呼ぶにはあまりにも程度が低いといわざるをえません。
もちろん、本当に仁坂氏の言うとおり、日本の文化レベルが高かったなら、アイヌの捕鯨は日本政府によって滅ぼされることなく、諸外国の先住民生存捕鯨と同じように認められていたことでしょう。
仁坂知事のこうした常軌を逸した発言には、古式捕鯨の客観的な史実とはかけ離れた美化・理想化が如実に現れているといえます。
祖先から受け継いだものがすべて善≠ニは限らないのです。人権思想も民主主義も平和主義も、過去の過ちから学んだ結果として社会に浸透していったのです。
思い出すのは、ユネスコの明治産業遺産登録騒動と、南京大虐殺の記憶遺産登録に対する日本政府・ネトウヨの猛反発。
歴史の中で耳障りのよい部分だけを切り取り、演出を施して華々しく喧伝したがる一方、影の部分・負の側面については口を閉ざすばかりか、政治的に圧力をかけてもみ消そうと図る始末。
まさに文化の政治利用。
「尊敬の念」とは、誰かに強要するものではありません。
仁坂知事がここまでおっしゃるなら、本当に古式捕鯨が神聖崇高な代物だったのかどうか、しっかり検証してみることにしましょう。
知事の言う、それを持って「懸命に生きてきた」文化の中身が、いったいどのようなものであったかを。
「ストーリーとして提供する」のが日本遺産のコンセプトなら、太地の捕鯨が加担した乱獲・密猟・侵襲性・非持続性という「負の歴史」に触れずにすませるわけにはいきません。「ともに生きる」はあまりにも実態とかけ離れたネーミングです。
それらも含めて淡々と史実を伝える分にはおおいに結構。しかし、紀伊民報がタイトルに掲げた「命に感謝する物語」は、後ろ暗い側面をバッサリそぎ落とした子供向けフィクションであり、歴史修正主義以外の何物でもありません。
江戸時代の日本の捕鯨は、持続可能性を保障する具体的な資源管理の方策を欠いていました。当時の鯨捕りが不漁に際して行ったのは、科学的根拠のない儀式的な供養のみでした。経験に基づき、漁獲努力量(今でいうCPUE)が適正か過大かを推測し、フィードバックする仕組みを、古式捕鯨は持ち合わせていませんでした。なぜなら、クジラは「余禄」だったからです。不漁が続けば、漁場を拡大するか、近隣の組を併呑するか、あるいは単に廃業するか。
この辺りは、効率的な近代装備が乱獲への甘い罠≠ナあることを見抜き、自重した水産業の鑑≠ニいうべき海女漁や、シャチとの間で獲物を分け合う感覚を間違いなく有していたアイヌの捕鯨との決定的な差でした。
突取式捕鯨が発祥地である尾張や導入された関東各地で、あっという間に乱獲による自滅に陥ったことは、当時から理解されていました。
日本で最初に組織的な捕鯨が開始されたと考えられるのは、新聞報道も含めてしばしば誤解されていますが、太地ではなく尾張地方(今の愛知県知多半島南部)です。
それはあまりにも悲惨な代物でした。
以下は随筆家/僧侶の三浦浄心が発祥地尾州から関東に持ち込まれた鯨漁の模様を慶長見聞集の中で伝えたもの。乱獲による資源枯渇の実態が手に取るようにわかる内容です。
それはあまりにも悲惨な代物でした。
以下は随筆家/僧侶の三浦浄心が発祥地尾州から関東に持ち込まれた鯨漁の模様を慶長見聞集の中で伝えたもの。乱獲による資源枯渇の実態が手に取るようにわかる内容です。
文禄の比ほひ、間瀬助兵衛と云て、尾州にて鯨つきの名人相模三浦へ来りしが、東海に鯨多有を見て、願ふに哉と、もり綱を用意し、鯨をつくを見しに、鯨、子を深くおもう魚なり。故に親をばつかずして子をつきとめいかしをく。二つの親、子をおのが腹の下にかくし、をのが身を水の上にうかべ、剣にて肉を切さくをわきまへず、親子ともに殺さるゝ。(中略)
此助兵衛鯨をつくを見しより、関東諸浦の海人まで、もり綱を支度し鯨をつく故に、一年に百二百づゝ毎年つく。はや廿四五年このかたつきつくし、今は鯨も絶はて、一年にやうやう四つ五つつくと見えたり。今よりこの世鯨たえ果ぬべし。(引用)
此助兵衛鯨をつくを見しより、関東諸浦の海人まで、もり綱を支度し鯨をつく故に、一年に百二百づゝ毎年つく。はや廿四五年このかたつきつくし、今は鯨も絶はて、一年にやうやう四つ五つつくと見えたり。今よりこの世鯨たえ果ぬべし。(引用)
子持ち鯨ばっかり殺していると「今より後の世、鯨たえ果ぬべし」と言った三浦浄心や、一産一子の鯨類において子鯨ばかり捕っていたら年々減っていくのは当然とした「西海鯨鯢記」の著者谷村友三、かなり慧眼だったし、よっぽど自然の事考えていたのでは?(引用)
■鯨供養碑と仔鯨殺しに見る日本人のクジラ観の多様性
http://togetter.com/li/977982
http://togetter.com/li/977982
古式捕鯨前期の突取式の技術は、このように沿岸性で泳速の遅かったコククジラ、セミクジラに深刻なダメージをもたらしました。セミクジラに関しては、米国等外国の帆船式捕鯨による影響も一部にはあったと見られますが、日本近海での操業時期や捕獲数から推量しても、相対的には当時の日本の捕鯨産業のほうが資源枯渇の責任が大きかったのは否定の余地がありません。
そして、その乱獲を招いた尾張の鯨取りを招聘し、技術を取り入れ、さらに発展させたのが太地だったのです。
そして、その乱獲を招いた尾張の鯨取りを招聘し、技術を取り入れ、さらに発展させたのが太地だったのです。
■太地浦鯨方成立の概略|太地角右衛門と熊野捕鯨
http://www.cypress.ne.jp/taiji/3.html
http://www.cypress.ne.jp/taiji/3.html
この頃になると、太地浦では兄の金右衛門組とするものの、三組の鯨組(金右衛門頼奥・角右衛門頼治・忠兵衛頼則)となり、また他の地域でも鯨組が多く出来て競合しておりました。そのため、乱獲となり、捕鯨業は衰退しつつありました。(引用)
■多田吉左衛門と網掛突取捕鯨 太地亮著|津室儿のブログ
http://tumurojin.blogspot.jp/2012/05/blog-post_30.html
http://tumurojin.blogspot.jp/2012/05/blog-post_30.html
このような技術革新の結果、当時、乱獲によるためか、突き取り捕鯨の主な対象だった脊美鯨が減少し、熊野での各浦々の鯨組同士の競合が起こり、捕獲した鯨をめぐり争いが絶えなかったため、延宝三年(一六七五年)、熊野の七浦庄屋が突取捕鯨に関する取り決めを行った。(引用)
そして、こうした状況に対し、江戸時代の日本の捕鯨業者が発揮したのは、乱獲によって資源枯渇を招いたことへの反省、痛めつけられた資源を回復させるための自然への配慮ではなく、利益を維持するため新たな獲物に乗り換える知略だったのです。そのようにして登場したのが網取式捕鯨でした。
https://twitter.com/mackujira/status/728041572307079168
(突取捕鯨と網取捕鯨の差)突取捕鯨で鯨に打つ銛は約100本。潜ると銛が抜けるのがほとんど。逃走されると高価な銛の費用損失が大きかった。従い、鯨を逃せば赤字となった。網取捕鯨では鯨網で動きを止めたので逃走されず、銛もねらい打ちできたので消耗が少なく有利だった。(引用)
(突取捕鯨と網取捕鯨の差)突取捕鯨で鯨に打つ銛は約100本。潜ると銛が抜けるのがほとんど。逃走されると高価な銛の費用損失が大きかった。従い、鯨を逃せば赤字となった。網取捕鯨では鯨網で動きを止めたので逃走されず、銛もねらい打ちできたので消耗が少なく有利だった。(引用)
言い換えれば、突取式では銛を打っても捕獲し損ねる場合が非常に多かったことということ。当然、逃走したクジラは死亡したはずです。つまり、当時の不十分な統計では推し量れない資源へのダメージがあったことをも意味します。残念ながら、太地をはじめとする古式捕鯨業者には、それが自然にとって何を意味するのか、胸に手を押し当てて考える気はなかったようですが……。
ちなみに、今日では生存捕鯨の規制でも銛打ち数が基準となっています。
ちなみに、今日では生存捕鯨の規制でも銛打ち数が基準となっています。
日本の捕鯨産業は、乱獲による衰微の歴史を真摯に振り返り、自制に向かうのではなく、さらに効率的な網取式に切り替え、対象種をこれまで捕獲が容易でなかったザトウクジラにまで拡張したうえで、なおも減少の明らかなコククジラやセミクジラにダメージを与え続けました。この辺りは、近代捕鯨が乱獲を防げなかった大きな要因であるBWU制(シロナガス換算)の重大な欠陥(ナガス・イワシを捕りながらシロナガスを追い詰め続けた)にも通じるものがあります。
ちなみに、網取式捕鯨の発祥地についても諸説ありましたが、一応関係者の間では太地が定説というお話。
https://twitter.com/mackujira/status/727384216694976512
平成18年(2006年)、太地町で「第5回日本伝統捕鯨地域サミット」があり、全国より研究者が集まりました。太地町の「捕鯨発祥地」の解釈について、「延宝5年の網掛突取捕鯨の地」と規定したように思います。(引用)
平成18年(2006年)、太地町で「第5回日本伝統捕鯨地域サミット」があり、全国より研究者が集まりました。太地町の「捕鯨発祥地」の解釈について、「延宝5年の網掛突取捕鯨の地」と規定したように思います。(引用)
ただし、太地が開発した翌年の1678年にはもう、遠く離れた大村(長崎)深澤組が網取捕鯨業を始動したとされます。
■近世日本における捕鯨漁場の地域的集中の形成過程|岡山大学経済学会
http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/journal/14930
http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/journal/14930
深澤氏が太地を訪れて網取の技術を伝授されたのは1684年とする見方もありますが、いずれにせよ歴史的には瞬く間に広まったといって差し支えないでしょう。
莫大な利益を生むことがたちまち知れ渡り、網取式の技術は高知や山口、九州北部にまで伝播しました。太地の関係者が出張して教えたり、逆に各地から太地にまで教えを乞いに来るなどして、全国にあっという間に広まったわけです。みんなが同じことをやりだしたらどういうことになるか、誰も関心を持ち、時間をかけて検証することなく、ただ「同じように大金をせしめたい」という欲望から拡散してしまったということです。
太地では、網取式導入初期の捕獲数が100頭近くまでふくれあがります。
莫大な利益を生むことがたちまち知れ渡り、網取式の技術は高知や山口、九州北部にまで伝播しました。太地の関係者が出張して教えたり、逆に各地から太地にまで教えを乞いに来るなどして、全国にあっという間に広まったわけです。みんなが同じことをやりだしたらどういうことになるか、誰も関心を持ち、時間をかけて検証することなく、ただ「同じように大金をせしめたい」という欲望から拡散してしまったということです。
太地では、網取式導入初期の捕獲数が100頭近くまでふくれあがります。
鯨は、“一頭で七郷が潤う”と言われ、当時セミクジラ1頭で約120両にもなり、年間95頭捕れた天和元年(1681 年)には、6,000両を超す莫大な利益をもたらした。このことは、遠く離れた大阪にも伝わり、井原西鶴の著書「日本永代蔵」には、鯨を取って得られる金銀が、使っても減らないほど蓄えられ、檜造りの長屋に200人を超す漁師が住み、船が80隻もあり、鯨の骨で造られた三丈ほどの「鯨鳥居」があるなど、この地域の繁栄ぶりが記述されている。(引用〜和歌山県日本遺産ストーリー)
https://twitter.com/mackujira/status/727303732828889088
1683年暮れから翌春のわずか数ヶ月間で、太地では座頭鯨91頭、背美鯨2頭、児鯨3頭を捕獲して太地は全国に知られることになりました。網取捕鯨法は突取捕鯨法では難しい座頭鯨捕獲に開発されました。そして「太地角右衛門大金持よ、背戸で餅つく表で碁うつ、沖のど中で鯨打つ」と唄われました。(引用)
1683年暮れから翌春のわずか数ヶ月間で、太地では座頭鯨91頭、背美鯨2頭、児鯨3頭を捕獲して太地は全国に知られることになりました。網取捕鯨法は突取捕鯨法では難しい座頭鯨捕獲に開発されました。そして「太地角右衛門大金持よ、背戸で餅つく表で碁うつ、沖のど中で鯨打つ」と唄われました。(引用)
一方、技術的に圧倒的に優位に立った太地組に対し、近隣の鯨突組は脅威を感じて禁止を訴えます。
また、紀州藩内の鯨突方の組織が網取捕鯨の組織力と実績に驚異を感じ、突取捕鯨が行えなくなったとの認識があったものと思われるが、紀州藩に訴え、一旦この技術での捕鯨を禁止された。そこで角右衛門は逆に紀州藩に願い出て、訴訟の結果、翌年には網掛突取捕鯨の使用が再び許可されたという経緯があった。(引用〜『多田吉左衛門と網掛突取捕鯨』)
この辺りも、その後の漁業者と捕鯨会社、あるいは今日の沿岸/沖合ないし競合する漁業種間の軋轢に通じるものがありますね。
この禁止措置は1680年のわずか1年のみで、翌年には解除されました。
結果的に紀州藩が、莫大な収益をもたらす太地の肩を持ったということでしょう。まさに政治力のおかげ。
この禁止措置は1680年のわずか1年のみで、翌年には解除されました。
結果的に紀州藩が、莫大な収益をもたらす太地の肩を持ったということでしょう。まさに政治力のおかげ。
太地町の年間90頭を越えるザトウクジラ捕獲は、完全なオーバーキル、過剰捕獲です。それにしても、和歌山県の日本遺産登録資料中の記述の、なんと無自覚でノーテンキなことか。
太地の古式時代の年間捕獲数は40頭前後とみられますが、最大の鯨組・壱岐の益富組をはじめ、全国に乱立した鯨組がこぞってこれだけの規模の捕獲を行っていたとすれば、全国では年数百頭のオーダーになります。
当時の日本の古式捕鯨による捕獲数の推計については、以下の過去記事を参照のこと。
太地の古式時代の年間捕獲数は40頭前後とみられますが、最大の鯨組・壱岐の益富組をはじめ、全国に乱立した鯨組がこぞってこれだけの規模の捕獲を行っていたとすれば、全国では年数百頭のオーダーになります。
当時の日本の古式捕鯨による捕獲数の推計については、以下の過去記事を参照のこと。
■NHK、久々に捕鯨擁護色全開のプロパガンダ番組を流す
http://kkneko.sblo.jp/article/31093158.html
http://kkneko.sblo.jp/article/31093158.html
性成熟まで10年かかるザトウクジラを、年数百頭、子持ちまで捕獲してオーバーキルにならないはずがありません。
■生息数推定|小笠原海洋センター
http://bonin-ocean.net/estimation
http://bonin-ocean.net/estimation
北太平洋では、近代捕鯨が開始される以前、1900年代はじめのザトウクジラの生息数は10,000〜15,000頭で、西部北太平洋だけでも2,500頭とみられていました。しかし、捕獲が禁止になる前年の1965年頃には、この数は1,000頭にまで減っていたと推定されています。
対象をザトウクジラに限った全国のトータルでは、江戸時代の網取式捕鯨の方が、明治以降のノルウェー式近代捕鯨の年間捕獲数(最大でも1914年の160頭)を間違いなく上回っていたと考えられます。
米国等の帆船式捕鯨はザトウクジラを捕獲対象としておらず、セミクジラと違ってほぼ100%日本に乱獲の責任があります。
北太平洋西部の系統群が東部より大幅に少なく、近代捕鯨開始以前から2500頭程度と非常に低水準にあった理由は、間違いなく太地をはじめとする日本の古式捕鯨による過剰捕獲が原因としか考えられません。その後も、舶来の技術でもってさらに絶滅寸前にまで追い詰めたわけですが。網取式の技術革新と同じ過ちを繰り返す、海女漁とまさに対照的な節操のなさがここにも露呈しています。
要するに、非持続的な乱獲漁法を全国に広めたのが太地なのです。前述のとおり、網取式以前からすでに乱獲は起こっていたので、乱獲の祖とまではいえませんが。
米国等の帆船式捕鯨はザトウクジラを捕獲対象としておらず、セミクジラと違ってほぼ100%日本に乱獲の責任があります。
北太平洋西部の系統群が東部より大幅に少なく、近代捕鯨開始以前から2500頭程度と非常に低水準にあった理由は、間違いなく太地をはじめとする日本の古式捕鯨による過剰捕獲が原因としか考えられません。その後も、舶来の技術でもってさらに絶滅寸前にまで追い詰めたわけですが。網取式の技術革新と同じ過ちを繰り返す、海女漁とまさに対照的な節操のなさがここにも露呈しています。
要するに、非持続的な乱獲漁法を全国に広めたのが太地なのです。前述のとおり、網取式以前からすでに乱獲は起こっていたので、乱獲の祖とまではいえませんが。
続いて、太地等の古式捕鯨に対する「決して乱獲しない持続捕鯨=vと並ぶもうひとつの都市伝説、「決して子持ちを殺さない人情捕鯨=vについて、さらに詳しく検証しましょう。
https://twitter.com/mackujira/status/710490993813024768
太地町で公職にいた方が、明治11年の鯨船遭難に関連して、神津島で「背美の子持ちは捕らえない」と語りました。1791年、太地角右衛門頼徳は同島役所に「背美の子持ちを含め、捕らえる」の内容の公文書を送っているのを知らずに。(引用)
太地町で公職にいた方が、明治11年の鯨船遭難に関連して、神津島で「背美の子持ちは捕らえない」と語りました。1791年、太地角右衛門頼徳は同島役所に「背美の子持ちを含め、捕らえる」の内容の公文書を送っているのを知らずに。(引用)
公文書に書いてある内容とは真逆のことを流布させてしまうのは、どっかのトンデモ竜田揚げドキュメンタリー映画監督とも共通していますね・・。
実際、太地の仔鯨殺しについてはそれ以外にも様々な文献史料が残されています。前掲のまとめ『鯨供養碑と仔鯨殺しに見る日本人のクジラ観の多様性』も合わせてご参照。
例えば、以下は同町に伝わる鯨歌の一節。
お脊美子持ちを突き置いて、脊美の子持ちを突きおいて、春は参ろぞ伊勢様へ、きぬた踊りは面白や、なおもきぬたは面白や。
太地網方舵取り掛けよ、月に子持ちを二十五持ち、子持ちを月に、月に子持ちを二十五持ち。(一部引用〜砧踊り歌)
太地網方舵取り掛けよ、月に子持ちを二十五持ち、子持ちを月に、月に子持ちを二十五持ち。(一部引用〜砧踊り歌)
明日の子持ちは覚右衛門様組よ、親も取り添え子も添えて。
ここのお家はめでたいお家、鶴と亀とが舞をする。
とろりとろりと船漕ぎ寄せて、春は参ろぞ伊勢様へ、かけて参ろぞ伊勢さまへ。
組の栄へは網組よ、子持ち連魚賑々と、寄せて掛け取る羽差し水主。
いつまでも旦那かわらず網組よ、右はかわらず網組よ。
今年も一じゃ、大きな大たろ取り済ました。(引用〜明日の子持ちぶし)
ここのお家はめでたいお家、鶴と亀とが舞をする。
とろりとろりと船漕ぎ寄せて、春は参ろぞ伊勢様へ、かけて参ろぞ伊勢さまへ。
組の栄へは網組よ、子持ち連魚賑々と、寄せて掛け取る羽差し水主。
いつまでも旦那かわらず網組よ、右はかわらず網組よ。
今年も一じゃ、大きな大たろ取り済ました。(引用〜明日の子持ちぶし)
座頭の子持ちや、あさなあさなすだちでそだつ、あしたりゃ座頭つれよいさ、ソリャソリャデイチュウジャ。(一部引用〜魚踊り。デイチュウ=銛の刃先。長崎から導入されたデンチュウ銛の呼び名が変化したもの)
このうち魚踊りは今回の日本遺産の登録文化財リストにも含まれています。覚右衛門讃歌については後述。
一片の憐憫の情もなく、それでもあえて「子持ち」のフレーズを入れて何度も連呼してしまうあたりが、筆者は正直理解に苦しみます。これらの鯨歌の節からは、彼らがクジラの子をシラスと同程度の感覚で捉えていたようにすら見えます。三浦浄心の嘆きとはあまりにも対照的。
一片の憐憫の情もなく、それでもあえて「子持ち」のフレーズを入れて何度も連呼してしまうあたりが、筆者は正直理解に苦しみます。これらの鯨歌の節からは、彼らがクジラの子をシラスと同程度の感覚で捉えていたようにすら見えます。三浦浄心の嘆きとはあまりにも対照的。
歌ばかりではありません。元太地町長庄司五郎町長が代表を務めた熊野太地浦捕鯨史編纂委員会がまとめた『熊野の太地 鯨に挑む町』(平凡社)の1ページ目には、上野の国立博物館所蔵の子持ちザトウの捕獲絵図もしっかり収録されています。
そして、こちらは同じくセミの捕獲絵図。
そして、こちらは同じくセミの捕獲絵図。
■背美鯨捕鯨絵図|太地角右衛門と熊野捕鯨
http://www.cypress.ne.jp/taiji/ezu2.html
http://www.cypress.ne.jp/taiji/ezu2.html
何鯨ニよらず子持鯨及見候得者、鯨船寄り集り、子江銛を突候而しらせ綱を付、船を引せ申候得者、母鯨子をいたわり、介抱致候様ニ仕候処を、船之銛を段々突鯨を弱らせ、子の頭江鼻もりと申候銛を突、地方江潜入候得者、母鯨何所迄も慕来るを、もりを突また者網ニも懸ケ申候而取得申候。右者座頭鯨せひ鯨児鯨同様ニ御座候。(中略)
「鯨記」も「一、子持鯨は憐れなり。先ず子を突大小に順ひ森(※銛)二、三本、或は十本も突て網を扣て遠く去ざる様にするときは、母鯨二、三里行きても又立帰り、子をひれの下に隠し、己が身に森を受終に死す、誤て子を殺しぬれば半死の鯨も迯去なり。」と記していますが、山見を行いながらひたすら鯨を待つ者にとり、さまざまな条件を付けて捕鯨を躊躇していたのでは莫大な資本を必要とする捕鯨業は成り立たなかったでしょう。(引用)
「鯨記」も「一、子持鯨は憐れなり。先ず子を突大小に順ひ森(※銛)二、三本、或は十本も突て網を扣て遠く去ざる様にするときは、母鯨二、三里行きても又立帰り、子をひれの下に隠し、己が身に森を受終に死す、誤て子を殺しぬれば半死の鯨も迯去なり。」と記していますが、山見を行いながらひたすら鯨を待つ者にとり、さまざまな条件を付けて捕鯨を躊躇していたのでは莫大な資本を必要とする捕鯨業は成り立たなかったでしょう。(引用)
ここで太地亮氏のいう「さまざまな条件」には、持続的水産業であれば必須の捕獲規制も含まれることは論を待ちません。
福本和夫氏が『日本捕鯨史話』の中で銅鉱に次ぐ日本屈指の大規模マニュファクチャーと表現した古式捕鯨は、莫大な収益をもたらし、藩の財政を支える重要な産業であったが故に、正当化されなければなりませんでした。
動物福祉への配慮はいうに及ばず、自主的な捕獲削減、休漁などもってのほか。
再度慶長見聞集からの引用。
動物福祉への配慮はいうに及ばず、自主的な捕獲削減、休漁などもってのほか。
再度慶長見聞集からの引用。
文禄の比ほひ、間瀬助兵衛と云て、尾州にて鯨つきの名人相模三浦へ来りしが、東海に鯨多有を見て、願ふに哉と、もり綱を用意し、鯨をつくを見しに、鯨、子を深くおもう魚なり。故に親をばつかずして子をつきとめいかしをく。二つの親、子をおのが腹の下にかくし、をのが身を水の上にうかべ、剣にて肉を切さくをわきまへず、親子ともに殺さるゝ。哀なりりることどもなり。心有人は二目とも見ず。殺生このむ人は慈悲の心なきゆへ、世のあわれをも知らず。罪のむくひをわきまへざるのおろかさよ。(中略)
かくのごときの大殺生、天竺、諸越にも聞及ばず。一寸の虫に五分の魂有と俗にいへるなれば、五十ひろ百ひろ有鯨の魂いかばかりならん。佛は十悪罪のはじめに殺生を出せり。五戒も殺生を第一とす。此殺生の根源を尋るに、慈悲心なく欲よりおこる。三毒といふも、どんよくを第一とせり。鯨殺す人、生死の海にちんりし、六道四生の業のがれがたしといへり。
かくのごときの大殺生、天竺、諸越にも聞及ばず。一寸の虫に五分の魂有と俗にいへるなれば、五十ひろ百ひろ有鯨の魂いかばかりならん。佛は十悪罪のはじめに殺生を出せり。五戒も殺生を第一とす。此殺生の根源を尋るに、慈悲心なく欲よりおこる。三毒といふも、どんよくを第一とせり。鯨殺す人、生死の海にちんりし、六道四生の業のがれがたしといへり。
ひとつはっきりいえるのは、仔鯨を人質≠ノ取れば、大物のメスを逃がすことなく容易に捕獲できることを理解したうえで、彼らはそういうやり方をあえて好んで用いたということ。
子連れの積極的捕獲が意味するのは、浄心がズバリ指摘した、金に目のくらんだ冷血漢の血も涙もない所業のみではありません。
繁殖メスと仔鯨の積極的な捕獲は、持続性の基本への無理解の証に他なりません。
今日の水産資源管理においても、体長制限は基本中の基本。「育つまで待つ」という、伝統的な狩猟・漁労、あるいは林業においては不可欠の認識が、太地をはじめとする日本の古式捕鯨事業者には皆無だったということです。
もっとも……未成熟個体を多数殺しながら「あれは実の親子じゃないからいいんだ」とのとんでもない言い訳を平然と言ってのけた鯨研の調査捕鯨にしても、サバからマグロまで国際的批判を浴びながら科学的な規制の導入を拒み続ける乱獲漁業にしても、古式捕鯨のこの伝統≠受け継ぎ、現代流により発展させたものだという見方もできますが。
子連れの積極的捕獲が意味するのは、浄心がズバリ指摘した、金に目のくらんだ冷血漢の血も涙もない所業のみではありません。
繁殖メスと仔鯨の積極的な捕獲は、持続性の基本への無理解の証に他なりません。
今日の水産資源管理においても、体長制限は基本中の基本。「育つまで待つ」という、伝統的な狩猟・漁労、あるいは林業においては不可欠の認識が、太地をはじめとする日本の古式捕鯨事業者には皆無だったということです。
もっとも……未成熟個体を多数殺しながら「あれは実の親子じゃないからいいんだ」とのとんでもない言い訳を平然と言ってのけた鯨研の調査捕鯨にしても、サバからマグロまで国際的批判を浴びながら科学的な規制の導入を拒み続ける乱獲漁業にしても、古式捕鯨のこの伝統≠受け継ぎ、現代流により発展させたものだという見方もできますが。
■非科学的な動物"愛誤"団体──その名は「鯨研」
http://www.kkneko.com/icr.htm
http://www.kkneko.com/icr.htm
一産一仔で性成熟まで何年もかかる、繁殖率の低い大型動物で、こんなやり方を認めてしまう狩猟を、筆者は知りません。少なくとも伝統として長年続けられてきた、自然と共存する持続的な狩猟の事例としては。
こどもを人質に取る卑劣で冷酷なやり方に「伝統」の枕詞をかぶせてしまうのは、およそ日本の捕鯨礼賛論者のみでしょう。
いったいそのどこに人間らしさ≠ェあるのでしょうか?
その疑問を抱いたのは、当時でさえ、三浦浄心ばかりではありませんでした。
こどもを人質に取る卑劣で冷酷なやり方に「伝統」の枕詞をかぶせてしまうのは、およそ日本の捕鯨礼賛論者のみでしょう。
いったいそのどこに人間らしさ≠ェあるのでしょうか?
その疑問を抱いたのは、当時でさえ、三浦浄心ばかりではありませんでした。
■鯨文化:鯨を弔った鯨墓・鯨塚など
http://www.geocities.co.jp/NatureLand-Sky/3011/kujirahaka.html
■丹後の伝説:45集 鯨とり、捕鯨
http://www.geocities.jp/k_saito_site/bunkn45.html
http://www.geocities.co.jp/NatureLand-Sky/3011/kujirahaka.html
■丹後の伝説:45集 鯨とり、捕鯨
http://www.geocities.jp/k_saito_site/bunkn45.html
嘗て鯨をとりしが子鯨、母鯨にそうて上となり下となりて其の情態甚だ親しく、既に母鯨の斃る頃も、頑是なき児の母の死骸にとり付きて、乳を飲む様にも見えたり、よって屡々これを取除かんとすれども遂に離れず、拠無く子・母共殺すに至る。いかなるものもその様を見てはその肉を食うに忍びず、此処に葬りて墓を建て供養せり、定めてこの墓の鯨もザトウなるべし(京都府与謝郡伊根町 在胎鯨子塔)
日本海を望む丹後半島に位置する伊根町では、太地や西海地方のような鯨組はありませんでしたが、1656年から1928年までに約350頭、年1、2頭ほど寄り鯨を捕獲していたことが記録されています。
集団心理と慣れ=A大金の入手を正当化する理論武装によって感覚の麻痺してしまった常習的な鯨組と違い、このときの彼らは、母子クジラを殺した深い自責の念に苛まれ、その肉に手をつけることができなかったのでしょう。
ちなみに、鯨塚の中にはこんなものも含まれていたりします。
■千葉県浦安市:鯨塚「大鯨の碑」|東京湾岸内・外の鯨塚
http://www.geocities.co.jp/NatureLand-Sky/3011/haka-toukyou.html
http://www.geocities.co.jp/NatureLand-Sky/3011/haka-toukyou.html
この大鯨は当時の価格で金弐百円もの高値で売れ、大金を手にした両氏はすっかり有名人になり、どこへ行っても英雄扱いされたそうです。両氏は大鯨捕獲劇のことで仕事も手につかなくなり、このことに終止符を打つために考えた末に年配者の知恵から稲荷神社に大鯨の碑を奉納し、祀ったとのことです。これが大鯨の碑建立の経緯であります。(引用)
まとめでも述べていますが、古式捕鯨地以外も含め、突発的な飢饉から救済されたことへの感謝から、利用せず単に座礁したイルカ・クジラを祀ったものまで、鯨供養碑は全国各地にあり、建てられた経緯や動機も実に様々でした。
飢餓からの救済に関していえば、戦後の日本がまさに南極海のクジラに大恩があることを、私たち国民は決して忘れてはならないでしょう。飽食・廃食の限りを尽くしながら、高級料亭や居酒屋で尾の身を貪る腐敗した政治家や芸能人らが、日本人である筆者には忘恩の輩に思えてならないのですが。
飢餓からの救済に関していえば、戦後の日本がまさに南極海のクジラに大恩があることを、私たち国民は決して忘れてはならないでしょう。飽食・廃食の限りを尽くしながら、高級料亭や居酒屋で尾の身を貪る腐敗した政治家や芸能人らが、日本人である筆者には忘恩の輩に思えてならないのですが。
付け加えれば、日本には「鯨一頭七浦枯れる」という、日本遺産でこれ見よがしに掲げられた「七浦賑わう」の謳い文句とは裏腹の諺も、各地に伝えられてきました。
神奈川県の三崎地方では「流れ鯨を拾うと祟る」という諺があり、流れ鯨を拾ってきた船元の家は栄えた例はないと言い伝えられている。三崎の西の浜の延命地蔵の境内の「鯨塚」は、この流れ鯨の祟りを恐れて供養に建立されたものだという。(引用〜『ザ・クジラ』(文眞堂))
くしくも、三崎地方は、先述の尾張から持ち込まれた捕鯨が乱獲の末あっという間に廃れた地域と重なります。小魚を追い込んで豊漁をもたらしてくれる恵比寿様≠フイメージのみならず、過去の苦い体験も人々の記憶に残っていたのでしょう。
漁場の汚染を招く沿岸捕鯨会社の進出に猛烈に反発した漁民の反対運動については、こちらのまとめも参照。
漁場の汚染を招く沿岸捕鯨会社の進出に猛烈に反発した漁民の反対運動については、こちらのまとめも参照。
■『八戸浦”くじら事件”と漁民』に見る、漁民から見た捕鯨
http://togetter.com/li/837408
http://togetter.com/li/837408
なお、『多田吉左衛門と網掛突取捕鯨』に「座頭鯨を仮死状態にする技術」とありますが、これは背中に包丁で切り込みを入れて脊椎を損傷させ、半身不随にすることで動きを止めるという、今日の動物福祉の観点からすればまさに身の毛もよだつ屠殺法。
https://twitter.com/mackujira/status/727016113528143872
太地角右衛門頼治が1677年に網取捕鯨法を開発していますが、頼治は1662年に勢子船を塗船8挺櫓15人乗りに、櫓も改良しています。網方では組織を分業化し大規模化しました。近隣の他地域の捕鯨業が廃業の中、太地が生き残り、明治まで専業化できたのは、このためです。(引用)
太地角右衛門頼治が1677年に網取捕鯨法を開発していますが、頼治は1662年に勢子船を塗船8挺櫓15人乗りに、櫓も改良しています。網方では組織を分業化し大規模化しました。近隣の他地域の捕鯨業が廃業の中、太地が生き残り、明治まで専業化できたのは、このためです。(引用)
太地地方の鯨組の場合、一時は5組にまで分派して互いに競合し合っていたものが統合されます。今日の資本企業と同じく、規模が大きくなればなるほど、自制≠ェ困難になることは容易に想像できます。燃費データを改竄してでも生き残りを図る大手自動車メーカーではありませんが。
漁場に関しては、太地と近隣の古座浦、三輪崎等の間で定書が交わされていましたが、規制の遵守をめぐるいざこざも起きています。後にこれらの経営権も太地が買収することになりますが。
江戸初期の組織的な鯨組のルーツに関しては、水軍のカモフラージュだったとの見方もあります。紀伊藩主として封じられた徳川頼宣(家康の第十子)が捕鯨訓練の名目で数百隻から成る水軍を仕立て、鯨を敵船に見立てた調練を行いトラブルになったことが『紀伊南竜公』に記されています。
成り立ちからして、日々の糧を得るための持続的漁労とは相容れない存在だったといえるでしょう。
つまり、現代の捕鯨産業の病理の端緒が、この時代からすでに現れていたともいえます。
成り立ちからして、日々の糧を得るための持続的漁労とは相容れない存在だったといえるでしょう。
つまり、現代の捕鯨産業の病理の端緒が、この時代からすでに現れていたともいえます。
続いて、太地の鯨組を統括した和田氏について。創業した頼元の孫にあたり宰領を務めた頼治の系列が覚(角)右衛門を、相談役を務めた頼興の系列が金右衛門を代々名乗っていました。頼興が頼元の長子・頼照の長男、頼治が同じく次男。頼興が病弱だったため、家督を継いだのは弟の頼治の方。
以下、いくつか太地町の捕鯨史編纂委員会の資料から気になる箇所を抜き出してみましょう。元太地町長も編纂に関わっただけあって、非常に正直で赤裸々な内容となっています。
以下、いくつか太地町の捕鯨史編纂委員会の資料から気になる箇所を抜き出してみましょう。元太地町長も編纂に関わっただけあって、非常に正直で赤裸々な内容となっています。
この関係は明治初年までも変わることがなく、また宗家筋は代々金右衛門を、頼治の筋は覚右衛門を襲名した。またこの両家はたびたび血族結婚を重ねている。頼治の母は頼照の後妻で、頼治は頼興の異母兄弟である。頼治の母は秀吉が朝鮮の捕虜の女に生ませた女の、そのまた女の子で、耳環をはめ、里人に「朝鮮婆沙摩」と称せられたと『太地系譜』にあるが、村の内外にそれに似た記録もなく、伝承もないので、真偽のほどは保証のかぎりでない。(引用〜P73)
ただし、この保守的な世襲制度は、人の才能の発展を抑圧し、妨げる大きな弊害を伴い、人間進化の基本原則に反する非民主的な制度である。最初はそれによって、専門技術を優秀にしても、停滞するとたちまち形式主義に陥ってしまう。そこに太地鯨方が、後代ジリ貧に陥り、無理をしてついに崩壊し去った主因がある。明治十一年の大遭難や、時代の大変革もさることながら。頼元や頼治の堅実で、進取的な伝統を、後代の和田鯨方は継承し、発展させえなかったのも、そこに最大の原因があろう。(引用〜P105)
太地鯨方の象徴は和田(太地系を含める)一族であった。和田鯨方と称して、旧藩時代は金右衛門や覚右衛門は殿様とさえ呼ばれた。居館は町内にあったけれど、明治中期に小学校が建設された際、その屋敷跡を校庭として使用したほどに広大であった。(中略)全盛時代には、新宮水野藩主が和歌山の本藩から借金するのに、覚右衛門が保証人として署名したと伝えられている。
当時の大名生活を語るものにその墓石がある。土佐室津の多田の代々の墓型も特異なもので、幅一メートル、長さ二メートル弱の石の寝棺を石蓋で覆い、その枕頭に碑が建てられている。石はこの地にない花崗岩なので、この一つの墓を造るのに、鯨一頭の代金を要したと伝えられている。和田代々の墓は巨大な五輪塔で、全く大名のそれに異ならず、むろん鯨一頭の資では足るまい。(引用〜P136)
当時の大名生活を語るものにその墓石がある。土佐室津の多田の代々の墓型も特異なもので、幅一メートル、長さ二メートル弱の石の寝棺を石蓋で覆い、その枕頭に碑が建てられている。石はこの地にない花崗岩なので、この一つの墓を造るのに、鯨一頭の代金を要したと伝えられている。和田代々の墓は巨大な五輪塔で、全く大名のそれに異ならず、むろん鯨一頭の資では足るまい。(引用〜P136)
しかし幕末から明治にかけて、この規定(※筆者注:基本給・賞与の支給や補償)が果たして実行されたか否かははなはだ疑わしい。今年九一歳になる鯨方最後の名刃刺し君太夫の未亡人は「わがらの家には多少なりとも水田があったから、朝から晩まで田の中を、ぱちゃぱちゃはい回って、どうにか生きてきたけれど、一升の米でどうして家族何人もの家が暮らしていけるだ、そりゃほんとにみじめなものじゃった」と、当時を思い出して年老いた声をふるわせた。明治維新前後を生きぬいて来た村の古老たちは、みんな同様の苦しい生活を体験している。米飯はおろか麦飯でも、それだけで堅い飯を食うことは一年のうちに何回しかなかった。(中略)しかし、和田の一門がそこまで陥らないずっと以前から、水主や下働きの大多数の村民一同は、これに似た生活を耐え忍んできたとみてよいのではあるまいか。(〜P143)
かれ(覚右衛門/覚吾)は才知もあり闊達な人物だった、しかし父祖代々大庄屋に任じられ、名門を誇るかれは封建色で固まっていた。村の最高権威者をもって自認する彼は傲慢だった。ある年、近村に疫痢流行の兆しがあった。たまたまかれが隣村への一本道である村はずれに来かかると、その隣村の山道から降りて来た一婦人に出会わした。見ると季節物の山桃の実を笊に入れていた。太地に売りに来るところだったのだ。かれは「この不届き者!」と大喝すると、笊を取りあげて、その山桃の実を路上に投げ捨ててしまった。婦人は驚いて逃げ帰った。山桃は疫痢を媒介するからと、かれは信じていたからの行為だった。老幼の差別なく叱り散らすかれに、村民たちはただただ畏怖していなければならなかった。(引用〜P145)
当の宰領覚右衛門、金右衛門両家はもとより、和田一門は一切の家産をその善後処置に投入しなければならなかった。それでも強気一点張りの覚吾(覚右衛門)は百方奔走して、北海道の根室漁場の開発を企画して人を派遣したり、資金調達のために大阪に出て、熊野の物産の扱いで生計を図りつつ苦闘した。そのうち休業していた太地では、無断で一門の者が開業せんとして悶着を生じたり、覚吾はこの苦難中大阪で遊んでいると悪評を立てられたり、ついに収拾不可能に陥った。こうして日本の水産業界に最大の企業組織鯨方の端緒を開くと同時に、その中心勢力たりえた太地鯨方は、ここに栄誉ある三〇〇年の歴史を閉じたのであった。(中略)ひとたび改進を怠れば、世襲という封建の階級に安住する結果を生じて、腐敗するばかりだったからである。しかも旧来の地位を保たんとして、そこから権威主義が生まれ、事大主義が生まれて来る。巨大な墓石はよくそれを象徴しているかに見える。民謡鯨歌の歌詞・曲譜にさえもそれが見られる。元来、日本の民謡は労働生産を賛美するところから生まれたもので、したがって、鯨歌なども、その範疇を出るものではない。(中略)ところが太地のあや踊り歌曲などはそれからはずれてしまっているのだ。(中略)いつしか元禄・享保の江戸中期の町民芸能の影響を受けて生産の祝い歌というよりも、たんなる祝い歌、覚右衛門賛歌中心へと移行したことを示している。(中略)太地の鯨歌・鯨踊りが、早くから町内青年の魅力を失った原因はここにあると思える。こうした些細な現象からも、和田中枢部が封建事大主義から抜けきれず、停滞した非進歩性が十分にうかがわれよう。(引用〜P155)
で、この『熊野の太地 鯨に挑む町』の解説に対しては、とくに背美流れの部分を中心に、太地亮氏が古文書をもとに強い調子で反駁しています。
■太地捕鯨史の現状 (3/5,熊野新聞)
https://twitter.com/mackujira/status/705980375307137025
https://twitter.com/mackujira/status/705980375307137025
同書で背美流れの描写のもとになっているのは、太地五郎作氏著『熊野太地浦捕鯨乃話』。
このうち、指摘@子持ち鯨捕獲に関しては、確かに亮氏の指摘に分があり、五郎作氏が盛った≠アとは否定できないでしょう。
しかし、他の指摘に関しては、亮氏の主張するように「裏づけのない」「なんら根拠のない」でたらめな大法螺ばかりを五郎作氏が吹聴したとまでは思えません。第三者の立場からすれば、解釈について両論ありとみなすしかないでしょう。
以下、熊野新聞記事の指摘をひとつずつチェックしてみましょう。
このうち、指摘@子持ち鯨捕獲に関しては、確かに亮氏の指摘に分があり、五郎作氏が盛った≠アとは否定できないでしょう。
しかし、他の指摘に関しては、亮氏の主張するように「裏づけのない」「なんら根拠のない」でたらめな大法螺ばかりを五郎作氏が吹聴したとまでは思えません。第三者の立場からすれば、解釈について両論ありとみなすしかないでしょう。
以下、熊野新聞記事の指摘をひとつずつチェックしてみましょう。
A時刻について
冬至の「八つ時」は1時半頃ではなく、1時50分頃。ただし、八つ時といった場合、ジャスト1時50分を指すとも限りません。13:50〜15:40の間のいずれかの時間とみなすことも可能。金右衛門が正確な腕時計をはめていたはずもないのですが。雨天で辺りが夕暮れ時くらい暗かったことも十分考えられるでしょう。
冬至の「八つ時」は1時半頃ではなく、1時50分頃。ただし、八つ時といった場合、ジャスト1時50分を指すとも限りません。13:50〜15:40の間のいずれかの時間とみなすことも可能。金右衛門が正確な腕時計をはめていたはずもないのですが。雨天で辺りが夕暮れ時くらい暗かったことも十分考えられるでしょう。
B天候について
五郎作氏の記述は「殊に天候も宜しく無い」で、獲物のセミの大きさ、時刻、天候等を総合的に勘案してやめたほうが無難ではないかと諌めた、という話になっています。「無理な鯨船出航だった」という記述はありません。
宰領/相談役の指示もないまま、微妙なシチュエーションで、獲物を前に帰港するかどうかを使用者が判断することはできないでしょう。
最終的には無理だったかどうかは結果論であり、事故のリスクの高低をどう見るかで金右衛門/五郎作氏と角右衛門/亮氏の見解が異なるという話になります。
金右衛門の日記にない記載への疑問については後述。
五郎作氏の記述は「殊に天候も宜しく無い」で、獲物のセミの大きさ、時刻、天候等を総合的に勘案してやめたほうが無難ではないかと諌めた、という話になっています。「無理な鯨船出航だった」という記述はありません。
宰領/相談役の指示もないまま、微妙なシチュエーションで、獲物を前に帰港するかどうかを使用者が判断することはできないでしょう。
最終的には無理だったかどうかは結果論であり、事故のリスクの高低をどう見るかで金右衛門/五郎作氏と角右衛門/亮氏の見解が異なるという話になります。
金右衛門の日記にない記載への疑問については後述。
C角右衛門と金右衛門の口論について
金右衛門は本来和田氏の宗家で、単なる山見担当者ではなく宰領を補佐する鯨方のトップ2。五郎作氏は山見の作業内容について詳細に説明していますが、主として金右衛門が担い、金右衛門に差し支えがある際には角右衛門が担うことになっています。つまり、宰領補佐兼山旦那役の金右衛門に対し、角右衛門の方は宰領兼山旦那補佐役だったわけです。
角右衛門が経営者としての総括的判断業務に専念し、本部にこもっていたため来遊すら把握しなかったというのは、亮氏の推測であり、筆者には無理があるように思います。角右衛門が常にではないにしろ、経営に直結し自身が担う可能性もある山見の現場に足を運ぶこともあったと考えるのは自然でしょう。逆に、角右衛門が金右衛門に絶大な信頼を寄せ、現場を安心して任せきりにしていたとみるのは、後代にまで続く両家の確執を考えると矛盾があります。
金右衛門の日記は淡々と簡潔に起きた出来事を並べていますが、奇妙なことに、配置された各船の行動を記してはいても、山見が個々の段階に応じて出していたはずの舟に対する指示に関する記述が含まれていません。亮氏のいう「連携」の具体的中身がないのです。これでは鯨漁に山見は不要といわんばかり。金右衛門自身が総指令役の山旦那≠ナあるにもかかわらず。
二人の口論について記述がないのもやや不自然ですが、山見の動きが日記に記されていないのは、金右衛門自身が席を立ち、自らは指示を出さず別の場所で漁の模様をながめていたからだと考えれば辻褄は合います。日記を書いた時点では、宰領と相談役それぞれの責任について触れたくなかったという事情もあるかもしれません。
五郎作氏が両者の口論をあえて遺そうとした背景については、さらに後述。
金右衛門は本来和田氏の宗家で、単なる山見担当者ではなく宰領を補佐する鯨方のトップ2。五郎作氏は山見の作業内容について詳細に説明していますが、主として金右衛門が担い、金右衛門に差し支えがある際には角右衛門が担うことになっています。つまり、宰領補佐兼山旦那役の金右衛門に対し、角右衛門の方は宰領兼山旦那補佐役だったわけです。
角右衛門が経営者としての総括的判断業務に専念し、本部にこもっていたため来遊すら把握しなかったというのは、亮氏の推測であり、筆者には無理があるように思います。角右衛門が常にではないにしろ、経営に直結し自身が担う可能性もある山見の現場に足を運ぶこともあったと考えるのは自然でしょう。逆に、角右衛門が金右衛門に絶大な信頼を寄せ、現場を安心して任せきりにしていたとみるのは、後代にまで続く両家の確執を考えると矛盾があります。
金右衛門の日記は淡々と簡潔に起きた出来事を並べていますが、奇妙なことに、配置された各船の行動を記してはいても、山見が個々の段階に応じて出していたはずの舟に対する指示に関する記述が含まれていません。亮氏のいう「連携」の具体的中身がないのです。これでは鯨漁に山見は不要といわんばかり。金右衛門自身が総指令役の山旦那≠ナあるにもかかわらず。
二人の口論について記述がないのもやや不自然ですが、山見の動きが日記に記されていないのは、金右衛門自身が席を立ち、自らは指示を出さず別の場所で漁の模様をながめていたからだと考えれば辻褄は合います。日記を書いた時点では、宰領と相談役それぞれの責任について触れたくなかったという事情もあるかもしれません。
五郎作氏が両者の口論をあえて遺そうとした背景については、さらに後述。
D明治11年度の不漁について
15億円は誤り、当時の7千円は現在の通貨換算でおよそ1億5千万円。
この年度が「不漁でなかった」とする太地亮氏の見解は誤りであると、筆者は判断します。
クジラは通年獲れるわけではなく、漁期中の上り(春)と下り(秋)の回遊の時期に集中します。下り鯨は黒潮に逆らうコースになることから沿岸により接近するので獲りやすく、一方で上り鯨のほうは繁殖海域から索餌海域に向かう季節にあたるため痩せているという事情もあります。
注目すべきは7頭の内訳。ザトウクジラ2頭、セミクジラ1頭、そしてコククジラ4頭。
コククジラは初期から乱獲されて減少していたため、4頭はたまたまと当時の関係者も見ていたはずです。年度前半のピークがすぎても、収益の高いセミクジラはたった1頭、網取式後期に捕獲の過半を占めてきたメインのザトウクジラもたった2頭。このペースではザトウで年間10頭いくかも疑わしく、網取開始期の90頭台とはそれこそ雲泥の差。金右衛門、角右衛門とも、この状況を不漁と認識していたのは間違いないと思われます。大阪での借り入れが不意になり北海道への事業進出が頓挫したことで、年越しへの不安がより一層煽られたのも事実でしょうが。
ちなみに、明治年間の土佐津呂組及び浮津組の年平均捕獲頭数はそれぞれ17頭、年平均収入は約1万6千円及び約1万9千円でした(〜『日本の捕鯨』高橋氏)。
15億円は誤り、当時の7千円は現在の通貨換算でおよそ1億5千万円。
この年度が「不漁でなかった」とする太地亮氏の見解は誤りであると、筆者は判断します。
クジラは通年獲れるわけではなく、漁期中の上り(春)と下り(秋)の回遊の時期に集中します。下り鯨は黒潮に逆らうコースになることから沿岸により接近するので獲りやすく、一方で上り鯨のほうは繁殖海域から索餌海域に向かう季節にあたるため痩せているという事情もあります。
注目すべきは7頭の内訳。ザトウクジラ2頭、セミクジラ1頭、そしてコククジラ4頭。
コククジラは初期から乱獲されて減少していたため、4頭はたまたまと当時の関係者も見ていたはずです。年度前半のピークがすぎても、収益の高いセミクジラはたった1頭、網取式後期に捕獲の過半を占めてきたメインのザトウクジラもたった2頭。このペースではザトウで年間10頭いくかも疑わしく、網取開始期の90頭台とはそれこそ雲泥の差。金右衛門、角右衛門とも、この状況を不漁と認識していたのは間違いないと思われます。大阪での借り入れが不意になり北海道への事業進出が頓挫したことで、年越しへの不安がより一層煽られたのも事実でしょうが。
ちなみに、明治年間の土佐津呂組及び浮津組の年平均捕獲頭数はそれぞれ17頭、年平均収入は約1万6千円及び約1万9千円でした(〜『日本の捕鯨』高橋氏)。
E対象のセミクジラの大きさについて
B同様、「技術的に無理な大きさだった」と大きさのみに原因を問うことは五郎作氏はしていません。獲物が大きかったことは亮氏自身もHP中で書いています。
熊野新聞の記事中では、「では、何が遭難事故を引き起こした原因なのか」がはっきり書かれていませんが、天候/海況、時間、獲物の大きさという諸々の条件に加え、深追いしすぎて獲物を断念する判断が遅れた人災の側面が強かったといえるでしょう。
リスクをやむをえないものとみなすかどうかという主観のみで、結局のところ、両者の結論にそれほど大きな差があるとは思いません。
B同様、「技術的に無理な大きさだった」と大きさのみに原因を問うことは五郎作氏はしていません。獲物が大きかったことは亮氏自身もHP中で書いています。
熊野新聞の記事中では、「では、何が遭難事故を引き起こした原因なのか」がはっきり書かれていませんが、天候/海況、時間、獲物の大きさという諸々の条件に加え、深追いしすぎて獲物を断念する判断が遅れた人災の側面が強かったといえるでしょう。
リスクをやむをえないものとみなすかどうかという主観のみで、結局のところ、両者の結論にそれほど大きな差があるとは思いません。
勝浦町長も務めた太地五郎作氏は、太地亮氏と単なる同姓ではありません。どちらも由緒ある和田一門のお家柄。
といっても、亮氏が角(覚)右衛門系、五郎作氏が金右衛門系。伊東潤氏の時代小説『鯨分限』の主人公のモデル、太地覚吾こと角右衛門頼成が亮氏の曽祖父、一方の五郎作氏は太地覚吾と同時代の金右衛門頼秀の実子という間柄。どちらが宗家かについても両者で見解が分かれている模様。何をもって宗家と呼ぶかにもよるのでしょうが・・。
といっても、亮氏が角(覚)右衛門系、五郎作氏が金右衛門系。伊東潤氏の時代小説『鯨分限』の主人公のモデル、太地覚吾こと角右衛門頼成が亮氏の曽祖父、一方の五郎作氏は太地覚吾と同時代の金右衛門頼秀の実子という間柄。どちらが宗家かについても両者で見解が分かれている模様。何をもって宗家と呼ぶかにもよるのでしょうが・・。
■太地浦捕鯨図の屏風 石垣記念館で特別展示 ('13/7/14,紀南新聞)
http://www.kinan-newspaper.co.jp/history/2013/7/14/03.html
http://www.kinan-newspaper.co.jp/history/2013/7/14/03.html
五郎作は明治7年、太地生まれ。下里郵便局長を退任した翌年の大正8年に勝浦町長、同11年に和歌山信用組合専務理事、戦後は和歌山信用金庫理事長を務めた。父親は捕鯨創始者の子孫で、太地鯨組の山旦那(クジラの来遊を見張り、鯨舟を指揮する山見の責任者)だった。(引用)
背美流れについて、唯一直接当時の状況が記述された史料といえるのが金右衛門の日記『脊美流れの控え』。熊野新聞の太地亮氏の主張のうち、それ以外の部分は他の史料が示す間接証拠に基づく太地亮氏の推測です。『南海奇賞鯨之記』は太地を訪れた医師が見聞を記したものですが、発行されたのは事故より半世紀も前で、角右衛門頼成は生まれてもいません。
一方、太地五郎作氏の著書『熊野太地浦捕鯨乃話』の方も、自身の実父である金右衛門頼秀の日記を引用しています。事故当時の五郎作氏は4歳ということになりますが、著書の記述は父頼秀の体験談に基づくものと見て差し支えないでしょう。
昭和生まれの現代人・太地亮氏と違い、五郎作氏は幼少期に事故とその対応に追われる父親を目の当たりにし、当時の状況をより近しい身(価値観も含め)で知り得る立場にあったわけです。
実際のところ、古文書の記述が常に正しいとは限りません。人が書いたものである以上、当たり前の話ですが。
例えば、古式捕鯨について記された最初の史料とされる『西海鯨鯢記』ですが、そこでは発祥地が尾州ではなく隣の三河国と書かれており、著者が国名を勘違いしたものと考えられています。
一方、太地五郎作氏の著書『熊野太地浦捕鯨乃話』の方も、自身の実父である金右衛門頼秀の日記を引用しています。事故当時の五郎作氏は4歳ということになりますが、著書の記述は父頼秀の体験談に基づくものと見て差し支えないでしょう。
昭和生まれの現代人・太地亮氏と違い、五郎作氏は幼少期に事故とその対応に追われる父親を目の当たりにし、当時の状況をより近しい身(価値観も含め)で知り得る立場にあったわけです。
実際のところ、古文書の記述が常に正しいとは限りません。人が書いたものである以上、当たり前の話ですが。
例えば、古式捕鯨について記された最初の史料とされる『西海鯨鯢記』ですが、そこでは発祥地が尾州ではなく隣の三河国と書かれており、著者が国名を勘違いしたものと考えられています。
もっとも、太地亮氏と太地五郎作氏のお2人の見解が両極端に近いほど異なるのは、それ以外の要因もありそうです。
五郎作氏の著述する金右衛門と角右衛門は、確かにややステレオタイプで歌舞伎じみて見えます。
引用したとおり、主に『熊野太地浦捕鯨乃話』をもとにしている『熊野の太地 鯨に挑む町』では、金右衛門と角右衛門の人格が対照的に描かれ、ややもすれば角右衛門の方が悪者に映りがちです。
それは五郎作氏自身が、実父金右衛門頼秀と従叔父に当たる角右衛門頼成との関係をそのように見ていたことの現れでしょう。また、そこにはきっと金右衛門自身の視点も反映されていることでしょう。百名以上の人命を失い、長く続いた太地鯨方の歴史に幕を閉じさせた責任の過半は頼成にあると、金右衛門自身が考えていたとすれば、角右衛門像の辛辣な描写も腑に落ちます。それが恨み節の形で実子・五郎作氏に口頭で伝えられていたことは想像に難くありません。
先祖を一にするはずの和田両家・角右衛門頼成と金右衛門頼秀の不和・不仲は何に起因するのでしょうか。おそらく、若くして家督を継いだ頼成が、近隣の鯨組を買収したうえ北海道への事業進出を図るなど、強引な経営手腕をふるい、結果として借金のトラブルで一門が危機に見舞われるに至った経緯に対する、頼秀の不満からきているとみるのが妥当でしょう。あるいは、この2人の代以前から、両家の間にすでに何らかの亀裂が走っていたのかもしれませんが。
さらに、上で『熊野の太地 鯨に挑む町』から引用した、角右衛門に対する数々の悪評(同書p73,p145,p156)が立てられた背景には、古老が語ったような(p143)村内の大きな格差の問題が横たわっていたことも否定できないでしょう。
一方、太地亮氏は曽祖父・頼治を崇敬に値する高潔な人物として描いています。フィクション小説に登場する主人公のモデルにふさわしいヒーロー・英雄的存在として。
要するに、どちらも自身の先祖を贔屓して、お互い精一杯持ち上げているわけです。
五郎作氏の著述する金右衛門と角右衛門は、確かにややステレオタイプで歌舞伎じみて見えます。
引用したとおり、主に『熊野太地浦捕鯨乃話』をもとにしている『熊野の太地 鯨に挑む町』では、金右衛門と角右衛門の人格が対照的に描かれ、ややもすれば角右衛門の方が悪者に映りがちです。
それは五郎作氏自身が、実父金右衛門頼秀と従叔父に当たる角右衛門頼成との関係をそのように見ていたことの現れでしょう。また、そこにはきっと金右衛門自身の視点も反映されていることでしょう。百名以上の人命を失い、長く続いた太地鯨方の歴史に幕を閉じさせた責任の過半は頼成にあると、金右衛門自身が考えていたとすれば、角右衛門像の辛辣な描写も腑に落ちます。それが恨み節の形で実子・五郎作氏に口頭で伝えられていたことは想像に難くありません。
先祖を一にするはずの和田両家・角右衛門頼成と金右衛門頼秀の不和・不仲は何に起因するのでしょうか。おそらく、若くして家督を継いだ頼成が、近隣の鯨組を買収したうえ北海道への事業進出を図るなど、強引な経営手腕をふるい、結果として借金のトラブルで一門が危機に見舞われるに至った経緯に対する、頼秀の不満からきているとみるのが妥当でしょう。あるいは、この2人の代以前から、両家の間にすでに何らかの亀裂が走っていたのかもしれませんが。
さらに、上で『熊野の太地 鯨に挑む町』から引用した、角右衛門に対する数々の悪評(同書p73,p145,p156)が立てられた背景には、古老が語ったような(p143)村内の大きな格差の問題が横たわっていたことも否定できないでしょう。
一方、太地亮氏は曽祖父・頼治を崇敬に値する高潔な人物として描いています。フィクション小説に登場する主人公のモデルにふさわしいヒーロー・英雄的存在として。
要するに、どちらも自身の先祖を贔屓して、お互い精一杯持ち上げているわけです。
しかし、英雄として持ち上げるのも、悪人としてあげつらうのも、二人の間に優劣をつけるのも、いずれも過ちです。客観的な史実を反映した人物像とはいえません。太地亮氏、太地五郎作氏、どちらの人物描写にしても。残念ながら、先祖を尊崇してやまないこの両者の表現は、主観の檻から脱することができてはいません。 宗家と分家の確執を今に至っても引きずっているとも映ります。
過去の時代の人々に感情移入しすぎ、没入しすぎて、距離を置いて冷静に客観的に見ることができなくなっては、本当の太地の歴史を伝えることはできないのではないでしょうか。無論、和田家の子孫であるということの枷から自由になるのは、実際には非常に困難なことかと思いますが。
過去の時代の人々に感情移入しすぎ、没入しすぎて、距離を置いて冷静に客観的に見ることができなくなっては、本当の太地の歴史を伝えることはできないのではないでしょうか。無論、和田家の子孫であるということの枷から自由になるのは、実際には非常に困難なことかと思いますが。
確かに、子孫である太地亮氏にしてみれば、『熊野の太地 鯨に挑む町』の角右衛門の描き方に不満を抱かれるのも無理からぬ部分はあるでしょう。
しかし、同書にはこうも記されています。
しかし、同書にはこうも記されています。
かれは高慢だったが、あながちに憎むべき悪人だったとは思われぬ。(引用〜P159)
一方で、金右衛門に対しても、途中で退座し沖合いの漁夫の間でも論議にのぼったとあるように、温厚堅実といっても程度の問題であると指摘されてもいます。
まあ、部外者の目からすれば、どっちもどっちという感じですが……。
ただ、角右衛門と金右衛門のどちらも、とても人間らしかったとはいえます。完全無欠の伝統捕鯨を主導した、非の打ち所のない完璧な人物などではなく。そんなのはもちろん、作り話の中にしか登場するはずはないのですが。 過去の人物に理想を押し付けるのは過ちです。
その当時の人々の行い、倫理観や価値観を、現代に無理やり当てはめようとするのも、やはり間違いといえます。
フィギュアスケートの織田選手の先祖が虐殺を働いた織田信長だからといって、現代を生きる子孫の人物評価とは何ら関係がないのと同様に。
フィギュアスケートの織田選手の先祖が虐殺を働いた織田信長だからといって、現代を生きる子孫の人物評価とは何ら関係がないのと同様に。
こうした太地古式捕鯨の裏話、ドロドロした人間関係の部分は、今回の日本遺産登録で、後ろ暗いところなど一点もない美化された太地像を内外にアピールしたい太地町・和歌山県・日本政府としては、都合の悪いものと映るかもしれません。
太地五郎作氏の「脊美の子持ちは夢にも見るな」の美談を、太地亮氏の再三の指摘にもかかわらず、未だに太地町が掲げ続けているのも、古式捕鯨時代からの冷血無慈悲な非人道性にスポットが当たることを、好ましくないと判断しているからと想像できます。
フェロー諸島から導入した屠殺方法を、動物福祉の観点ではなく、血の色で海面が染まって見えないことを優先する形でアレンジしたのと、まさに同じように。
そう・・問われるべきは、古式捕鯨時代の鯨獲りたちの人間性ではないのです。
都合のいい、美しい神話の形で、現代の蛮行が正当化されることはあってはなりません。
都合のいい、美しい神話の形で、現代の蛮行が正当化されることはあってはなりません。
■太地調査報告|立教大学日本学研究所
http://www.rikkyo.ne.jp/grp/nihongaku/hp/seika/16Taiji.pdf
http://www.rikkyo.ne.jp/grp/nihongaku/hp/seika/16Taiji.pdf
明治1 9 1886 日本水産会社が出資、鯨組が2 組となる(引用)
さあ、ここで早くも南極海で乱獲の限りを尽くした捕鯨会社大手の名が登場しました。陰謀デマを流した張本人・産官癒着の象徴たる米澤邦男氏が副社長のポストを得たあの日水が、太地にまで触手を伸ばします。
そして、『熊野の太地 鯨に挑む町』でも明記されているとおり、南氷洋捕鯨最盛期には太地町から砲手が何人も輩出されました。この時期太地町は最も潤い、クジラ御殿が立ち並んだわけです。
乱獲の尖兵として銛打ちを供給し、公海・南極海の自然を荒廃させた重大な責任が、間違いなく太地町にはあるのです。
そして、『熊野の太地 鯨に挑む町』でも明記されているとおり、南氷洋捕鯨最盛期には太地町から砲手が何人も輩出されました。この時期太地町は最も潤い、クジラ御殿が立ち並んだわけです。
乱獲の尖兵として銛打ちを供給し、公海・南極海の自然を荒廃させた重大な責任が、間違いなく太地町にはあるのです。
■乱獲も密漁もなかった!? 捕鯨ニッポンのぶっとんだ歴史修正主義
http://kkneko.sblo.jp/article/116089084.html
http://kkneko.sblo.jp/article/116089084.html
古式捕鯨時代にすでに萌芽が見られた自制力のなさは、沿岸のイルカ猟においても同様でした。
「1969年に太地町立くじらの博物館内にある水族館で飼育するイルカ類の捕獲を要請されたことをきっかけに,生け捕り捕獲を行う追い込み漁を開始した。当初は7隻のグループで追い込み漁を行っていたが,小型鯨類の商業的価値が増加するにつれ,追い込み漁を操業する別のグループがあらわれた。その結果,2つのグループ間での漁獲競争がおこり,1回の捕獲頭数が600から800頭を越える場合もあった」(P241)
■変容する鯨類資源の利用実態 和歌山県太地町の小規模沿岸捕鯨業を事例として|国立民族学博物館調査報告
http://ir.minpaku.ac.jp/dspace/bitstream/10502/4429/1/SER97_011.pdf
http://ir.minpaku.ac.jp/dspace/bitstream/10502/4429/1/SER97_011.pdf
最悪なのがこれ。密猟。
日本の捕鯨の最もな強力な擁護者として太地町に滞在したC・W・ニコル氏が直接現場を目の当たりにした体験談の信憑性は、太地亮氏、太地五郎作氏の推測に基づく脚色された主張に比べても、はるかに高いといわざるを得ません。
日本の捕鯨の最もな強力な擁護者として太地町に滞在したC・W・ニコル氏が直接現場を目の当たりにした体験談の信憑性は、太地亮氏、太地五郎作氏の推測に基づく脚色された主張に比べても、はるかに高いといわざるを得ません。
■国際捕鯨委員会|Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%8D%95%E9%AF%A8%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A#cite_ref-33
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%8D%95%E9%AF%A8%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A#cite_ref-33
なお、この告発に対し、従来日本の捕鯨を支持してきた論客の一人であるC. W. ニコルも、太地町に住んでいた際操業違反を目撃していた事実を告白し、「味方に嘘をつくのは許し難い」「日本の捕鯨を支持するのはこれを最後にしようと思う」と述べている。C. W. ニコル「徒然の記3:裏切られた信頼」東京新聞2001年10月17日付。(引用)
■やる夫で学ぶ近代捕鯨史−番外編−その3:戦後繰り返された悪質な規制違反
http://www.kkneko.com/aa3.htm
http://www.kkneko.com/aa3.htm
半世紀に及ぶモラトリアムのおかげで、北太平洋のザトウクジラの生息数はなんとか2万頭にまで回復したと見られています。
今ではさまざまなパフォーマンスを繰り広げたり、歌を披露してくれたり、最も観察しやすい大型鯨種として、日本の沖縄や小笠原でも人気が高く、ホエールウォッチングの定着に貢献したザトウクジラですが、網取式捕鯨時代には一番多く捕獲された主要な対象種でした。
古式捕鯨時代の日本人は、クジラたちが歌を歌うことなど誰1人として知りませんでした。
クジラの社会生態について、彼らは何ひとつ知りませんでした。
ただ、親子の絆が深いことのみを狡猾に利用しようとしただけなのです。金儲けのために。
今ではさまざまなパフォーマンスを繰り広げたり、歌を披露してくれたり、最も観察しやすい大型鯨種として、日本の沖縄や小笠原でも人気が高く、ホエールウォッチングの定着に貢献したザトウクジラですが、網取式捕鯨時代には一番多く捕獲された主要な対象種でした。
古式捕鯨時代の日本人は、クジラたちが歌を歌うことなど誰1人として知りませんでした。
クジラの社会生態について、彼らは何ひとつ知りませんでした。
ただ、親子の絆が深いことのみを狡猾に利用しようとしただけなのです。金儲けのために。
都合のよい一部を切り取っただけの捕鯨礼賛ストーリーをばらまき、子供たちに、世界中の人々に、嘘をつくのはやめにしましょう。
どうしても歴史を伝えたいなら、影の部分もしっかり包み隠さず伝えましょう。
隠そうとすることのほうがよっぽど恥ずかしいことです。
違いますか、仁坂知事? 三軒町長?
どうしても歴史を伝えたいなら、影の部分もしっかり包み隠さず伝えましょう。
隠そうとすることのほうがよっぽど恥ずかしいことです。
違いますか、仁坂知事? 三軒町長?
■捕鯨の町・太地は原発推進電力会社にそっくり
http://kkneko.sblo.jp/article/78450287.html
■NHK、久々に捕鯨擁護色全開のプロパガンダ番組を流す
http://kkneko.sblo.jp/article/31093158.html
■民話が語る古式捕鯨の真実
http://kkneko.sblo.jp/article/33259698.html
■鯨塚解説
http://kkneko.sblo.jp/article/71443019.html
http://kkneko.sblo.jp/article/78450287.html
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■民話が語る古式捕鯨の真実
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