http://spider.art.coocan.jp/biology2/evolution080506.htm
番組はバラエティ色が強すぎたので、興味のある方はぜひ上野の科博ダーウィン展(6/22まで)に足を運んでほしいと思います。ついでにかわいいカラスたちにも会ってきてくださいニャ〜。
■ダーウィン展|国立科学博物館
http://www.kahaku.go.jp/exhibitions/ueno/special/2008/darwin/index.html
■愛しいカラスたち (拙過去記事)
http://kkneko.sblo.jp/archives/20080419-1.html
以前にも述べましたが、筆者はダーウィンのファンの一人です。在学時代、進化論はまさに論理学・演繹的推論のお手本でしたし、『種の起源』は"バイブル"でした。本物のいわゆる聖書の方は、"ファンタジーとしては"優れたものだとは思うのですが・・。もっとも、大学にも、彼が20年をかけて積み上げた精巧で隙のない論理を否定する教員(生物畑とは縁遠い文系だったけど)がいたりして、正直筆者はそちらの方に驚きを覚えたものです。
実は、筆者がダーウィンに寄せる共感には、科学的業績とは直接関係のない彼の個人的体験、そして、その体験と切っても切り離せない一種の信念に通じる部分もあります。彼は最愛の娘の一人を幼くして病で喪くしました。ありのままの自然、命に等しく訪れる無慈悲な死という"真実"を目の当たりにしたことが、旧い時代の価値観を打ち壊す生物の進化という"真理"を徹底的に突き詰めるに至る、強固なモチベーションになっていたのです。種は違えど、哺乳類として血筋を同じくするこどもたちの死を腕の中で看取ってきた私には、彼の気持ちが痛いほどよくわかるのです。
著名な進化行動学者のリチャード・ドーキンスも述べていますが、「信じる者は救われる」というのは、かなりえげつない自己存続のためのキャッチコピーでしかありません。ダーウィンは、神を愛することはし(でき)なくても、娘を愛することにかけては人後に落ちるところなど決してありませんでした。彼自身、誰がなんと言おうとも、その一点において微塵も揺らぐところはなかったはずです。「信じないから不幸になる」というのが神の摂理ならば、彼は娘への愛、娘の命の尊さを証明するためにこそ、まさに全力で神に戦いを挑まなければならなかったわけです。
ダーウィンは確かに勝ちました。自然科学者としての達成感とは裏腹に、家族を失った悲しみがそれで癒されるものでないことは、彼自身も自覚していたでしょうが・・。その後の歴史を通じても、ダーウィンの進化論の科学的・論理的な正しさは証明され、今も補強され続けています。亡くなる前、もう少し早い時代にメンデル、あるいはワトソン・クリックの発見を知ることができたなら、彼もさぞかし喜んだことでしょう。真実から目を背ける人たちに対しては、現代の精緻なネオ・ダーウィニズムも効力を持たないけれど・・。
もし、自然・命が、誰かによって創られたのであれば──しかも、その誰かが、動物の一種にすぎないニンゲンと同じ姿の、要するにニンゲンがこしらえた"フィクションのキャラクター"だとすれば──すなわちそれは、ニンゲンが"二次的フィクション"に他ならないことを意味します。まるでコミケで売られる同人誌。命は、そんな薄っぺらなものではありません。
いま、日本のこどもたちは、一度死んだ人間が生き返ると思っていたり、天国や生まれ変わりを"本気"で信じる子が、冗談ごとでないほど増えているといいます。マンガやアニメ〜願望を反映しただけのファンタジーの世界を、フィクションと知りつつ「こんな魔法が使えたら便利でいいよね」という具合に楽しむならかまわないのですが、そうではなく、フィクションの方が子供たちの現実を侵食し始めてしまったのです。米国のバカげた進化論争を、対岸の火事とながめている場合ではないかもしれません・・・
家族を病気や事故や事件によって早くに失った方に、「真実から目を背けるな」と告げるのは、ある意味残酷なことで、抵抗もあるでしょう。しかし、大人はやはりこどもたちに対して嘘を言ってはいけないのです。
すべての命は、世界にたった一つしか存在しません。生は、たった一度きりのものでしかありません。一度失われれば、本当に二度と、決して取り返しがつかなないのです。だからこそ、だからこそ、本当に命は尊いのです。
いうまでもなく、筆者はバリバリの無神論者ですが、もちろん捕鯨の賛否と宗教観は無関係です。信教の自由も否定するつもりはありません(胸の内で銘々勝手に祈るだけ、というのが"正しいあり方"だとは思うけど・・)。その点は誤解なきよう。
ご存知のように、反捕鯨国の市民にはキリスト教徒が多いのも事実です。「聖書を引き合いに捕鯨に反対している」などとトンチンカンなことを言い出すネット右翼の連中以上に、たぶん筆者はファンダメンタリストとは反りが合わないでしょう。まあ、「捕鯨ニッポン9千年の歴史」とか「捕鯨ニッポンの乱獲はなかった」「余すところなく利用してきた」という嘘八百も、「地球が7日で出来た」ってのと同レベルだから、両方同じくらい嫌いっちゃ嫌いなんだけど・・・
捕鯨に批判的な作品として、SFですが「スタートレックW 故郷への長い道」という作品があります。
内容としましては、23世紀鯨が絶滅した地球に、招待不明の探査機が鯨とコンタクトを試みますが、人類などまるで無視(それどころか探査機の影響で人類のテクノロジーは麻痺状態。
結局20世紀の地球に鯨を探すため宇宙船でタイムスリップするのですが、最後のほうで捕鯨船に捕獲される寸前の鯨2頭を救出するシーンがあるのですが、本来日本の船を登場させる予定を、日本での公開を考慮してノルウェー船に変更されたそうです。
ただ難点は、前作からの続編的な要素もあるので、細かいところでやや解り辛いことがあるところです。
「スタトレ4」は観ましたニャ〜♪ 日本じゃ一部方面からかなり激しいブーイングがあったようで。。スポック役だったレナード・ニモイは、ポール・スポングのCD「鯨の詩」のナレーションなども務めてますね。
「これは鯨の肉だな。そうだ、南極からきた冷凍肉だ。人間とおなじく赤ちゃんをかわいがる哺乳動物の肉なんだ」こう思った瞬間、(中略)そこには残忍な血なまぐさい光景が、ありありと浮かびました(132頁)
どんなかくれ場でも、人間はさぐる。精巧な機械を持っているし、またおそろしい武器を持っている。そう考えると、少年には、人間がひきょうに見えました。そして、自分の力よりほかに、たのむことができない鯨がかわいそうになりました。(133頁)
この作品は昭和25年に発表されています。また未明は明治15年生まれです。明治前半生まれの日本人が、欧米諸国でも反捕鯨の動きが微塵もみられない時代に、このような文を書いていたのは驚きです。ひょっとしたら未明の文章に書かれているような考えこそが、日本人本来の感じ方だったのかもしれません。
どうも情報ありがとうございます。さっそくHPのほうに掲載させていただきました。捕鯨擁護派の論調は、日本人の自然観・動物観が西洋の白人のそれに比べていかに優れているかをとうとうとまくしたてるものが多いですが、こっちのほうがよっぽど日本人らしく、世界にも誇れますよね。