2008年04月14日

芸術性と人間性

■奇跡の美 街に宿る不屈の心〜 チェコ・プラハ 〜|探検ロマン世界遺産 (4/12,NHK)
http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/roman/index.html
 

 芸術の街チェコ・プラハ。強国に囲まれ、侵略と圧政に苦しみ、幾多の戦乱を乗り越えながら、人々は美しい街並をそのままの形で遺してきました。
 欧州の旧い街並はどこもそうですが、目にする度に羨望の念を覚えます。住民・行政・開発企業が、過去から未来に至る街の時間軸を共有しているからこそ、こうしたことが可能なのでしょう。そこにはこれまでの街の歩み=∞生き様≠そっくり見て取ることができます。現にそこに住む人々とともに、街自体からも息吹と体温を感じ、街の良さがそのまま保持されて、これからも連綿となく受け継がれていくだろうという、未来への確信があります。戦火に傷つけられても、人々の熱意によって街は以前のままに再び蘇ります。まるで、生き物の自然治癒力のように。修復には、単に金銭面のみならず、並々ならぬエネルギーが必要とされたはずですが。
 それに引き換え、日本はどうでしょうか?
 せいぜい中途半端な広告や高さの規制どまりで、街の歴史的なアイデンティティをどのようにして保持するか──という視点が行政側にはすっぽり抜け落ちています。米国がその価値を認めて原爆投下をやめたとされ、海外からの渡航者が真っ先に訪れたがる人気の古都京都ですら、今や悲惨なありさま。どの地方の都市も、首長の首がすげ代わる度に、リレーションのある土建屋が入れ替わる度に、景気の波が上下する度に、街のグランドデザインなど考えぬまま、再開発の号令が下り、あるいは中途で放り出されるという具合。結果出来上がるのは、ぶつ切り、バラバラのモザイク模様。歴史的なまとまりもつながりも感じられず、地域住民の間の絆までボロボロに。一度失われればそれっきりか、かつての面影を遺さぬ似て非なるものと化してしまいます。そもそも、"文化""伝統""遺産"という言葉の定義、重みが、欧州と日本では決定的に違うのでしょう。
 本当に遺すべき文化の価値を知る人々は、単なる"ステータス"としてでなく純粋に文化を愛します。チェコは古典芸術のみならず、アニメの分野などでも世界的に評価の高い国。人形劇が盛んで、プロからアマチュアまで多数の劇団があり、国が率先して手厚く保護していることでも有名。彼らにとって、人形は"玩具"ではなく表現の手段。自国語を奪われ異国語を強制される中、世代を越えてチェコ語を伝えるのに重要な役割も果たしたのです。
 一方、日本の掲げる伝統文化は、主として欧米を意識したステータス誇示にすぎない気がしてなりません。「日本が」「日本の」「日本ならでは」と枕詞が躍るばかり。オークションでの海外流出を気にしたところで、問題解決にはなりません。若沖のプライズ・コレクションのように、外国人に任せたほうが、返って文化そのものとしての日本文化のグレードを保てることすらあります。無知な国内の好事家であれば逸失・損壊していたであろう一連の作品を良好な保存状態に保ち、埋もれた名作の価値を再評価させ、なおかつ広く市民の目に触れさせることさえ可能となったのですから。ドサクサで献上されたものをずっと隠し持ってた宮内庁や、石室をカビだらけにした文化庁よりよっぽどマシではないでしょうか。
 最近は、サブカルチャーの分野、いわゆる漫画、アニメ、ゲームなどで日本の作品に対する評価が世界的に高まり、オタクやコスプレ、メイド喫茶などの"文化"が輸出され、クールジャパンなどと持てはやされています。筆者がHP上で「日本が世界に発信できるのは今やメーカーのブランド名くらいだ」と書いたところ、某巨大掲示板で「いや、それは時代遅れだ。漫画やアニメがある」との指摘を受けました。まあ、オタクを名乗れるほどの知識と思い入れはありませんが、筆者も漫画やアニメは好きです。もっとも、残念ながら経済効果のほうはたかが知れており、今のところ国際収支への貢献を謳えるほどの輸出産業にはなっていませんが。
 他でもない日本人自身が、チェコにとっての人形劇やアニメとは対照的に、それらのサブカルを"児戯"とみなしてはいないでしょうか? 実際、総裁選を戦ったローゼン殿下の肝煎りでか、国際漫画賞の創設や助成事業も始まりましたが、金額は桁が違い雀の涙です。捕鯨の9億をはじめ、億単位で行政からの補助金が下りている産業はゴロゴロしているのに・・。
 チェコの人形劇は、年齢によらず誰もが楽しめる成熟した芸術になっています。一方、日本のサブカルは、大人の文化というよりはやはり子供の文化であり、むしろ観賞する受け手の側が"子供化"しているといったほうが正しそう。少子化とその対策としての業界のターゲットシフトもその一因でしょうが。
 確かに、日本の漫画については既に成熟した文化になっていると筆者も思います。それは、"漫画の神様"手塚治虫個人と、彼を目指した作家たちの功績による部分がきわめて大きいと感じます。一方で、国のほうは一流の芸術ジャンルとしての保護など今の今まで何もしてきませんでした。そして、商業的な成功を収めているのは依然として"子供向け"中心で、"芸術"や"大人の文化"の域に達しているといえる作品はほんの一握りにすぎません。見かけだけ高尚ぶって難解さを売りにすればいいというものではないでしょう。ましてや、エログロ描写を散りばめたところで、"子供が読めない子供マンガ"になるだけですし・・。
 オタクの定義を論じるつもりはありませんが、今やマジョリティと化したこれらの人々は、市場に提供される娯楽"商品"の消費者にすぎず、現実から逃避する"一時の安住の場"を求めている点で、文化の享受というには難があります。だから、"子供"なのですね。海外に輸出したのは、そういった若者のオタク化/精神年齢低下や"デスノート殺人"に見られる影の部分のほうがむしろ大きいのではないでしょうか。
 一番悲惨なのはゲーム。双方向性やマルチシナリオなど、小説や映画には不可能な新たな表現の可能性を秘めた独自のジャンルとして、文化としての地位を確立することもできたはずなのに、業界自らそれを放棄して、映画より格下の三流文化の扱いを甘んじる羽目になってしまいました。文化として育つ前に捨てられてしまったのです。それというのも、機能性というより、見た目の派手さとスペックの数字のデカさばかりを追求してソフト制作費を押し上げるハードメーカーと、リサイクル(文化はリサイクルできるもんじゃない!)の名のもとにクリエーターを蔑ろにする中古屋並びに著作権保護意識のないユーザーの所為なのですが・・・

 

 芸術性豊かな街、その街を育み、街に育まれた人たち。その文化の質・格の違いが、少々大げさな言い方をすれば、彼らをして万物の霊長のお手本というべき頂点の存在に押し上げたといえるでしょう。
 戦車を前にあくまで非暴力を貫いたプラハの春。それからさらに20年以上もの間、息も詰まる圧政の時代をひたすら耐え抜き、再び非暴力の"力"で無血のビロード革命という偉業を成し遂げた人々。ホモ・サピエンスが過去の記録を始めて以来、最も輝かしい歴史上の出来事。
 それが他でもないチェコで起きたのは、彼らの文化的成熟度と決して無縁ではないはず
 イスラエルとパレスチナ、イラクとアメリカ、北朝鮮と日本、紛争やまぬ世界の国々。拳を振り回すのは子供のやることです。万物の霊長を称する資格のない下等動物がやることです。暴力は新たな暴力を呼ぶだけで何の解決にもならないことを学習できず、大人になる試験に落第し続けている国ばかり。民衆から指導者まで誰もが"子供"だから。
 チェコやコスタリカの人々は、曲がりなりにも"大人"になった、成熟した知的生命体に脱皮した、といえるでしょう。
 捕鯨よりはるかに子供たちに伝え遺す意義のある無数の文化を疎かにしてきたニッポン。由緒ある街を見る影もなく無様に変え、クールと呼ばれて舞い上がり、価値の高いものと低いもの、護るべきものと捨てるべきもの、本物と偽物、すべてが引っ繰り返った国。制裁を声高に叫び、財政が火の車でも"国防費"だけは膨らませ、過去から目を背け続ける──そんなところも、文化のボタンを掛け違えた国に似つかわしい姿なのかもしれません。当のその国に住むニンゲンとしては、笑い事では済まされないけれど。
 捕鯨はまさに文化を映し出す鏡(そうしたのは業界とマスメディアだけど)。
 捕鯨をやめることで、日本も大人の国への道を一歩踏み出せる気がします...

posted by カメクジラネコ at 01:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会科学系
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