■木造校舎熱中人と鳥型飛行機熱中人|熱中時間 (4/3,NHK BS2)
http://nhk.jp/chronicle/?B10002200090804020030189
全国の木造校舎の記録を収集する趣味人の話。授業も面白そうな教頭先生だったけど、校長に昇格したら、土日に全国を探訪して廻る時間がなくなっちゃいそうだニャ〜。。
それにしても、写真で紹介されたそれらの学校の、なんと生き生きとして表情豊かであることか。地元の大工さんが集まって作り上げた温かみのある木の校舎、個性溢れるデザイン、校庭の桜や周囲の緑と見事に溶け込んだ、調和のとれた建築の見本といっていいですね。
何より、画一化された鉄筋コンクリートの校舎にはない、子供たちを無言で優しく受け止めてくれる存在感があります。登校拒否や校内暴力などの件数を調査すれば、校舎が木造か鉄筋かで数字の違いが明確に表れそう・・。
古くは明治に建てられたこうした学校は、単に木造というのみでなく、親子3、4世代に渡って子供たちが通い続けてきたことで、土地との、そしてその土地で暮らす人々との、切っても切り離せない絆が結ばれてきたはず。
こういうものこそ、まさに真に残すべき文化遺産ではないのでしょうか? 地域の自然と一体化したかけがえのない伝統、それは教科書の文字ヅラなんかでとても代用できない、郷土を愛する心を子供たちの間にごく自然に育むはず。
現在では休校や廃校になっているところも多く、現役で活躍しているのはもはや百校あるかないか。地域の統廃合や生徒数減少に伴い、その傾向には今後も拍車がかかるでしょう。そして、"財政"や"危険性"などといった取るに足らない理由を文化に優先させ、保存すらされずに重機が入り、校舎そのものが瓦礫と化していくのです。デザインを保持しつつ耐震強度を増すことだって、やろうと思えばできるはず。日本が世界に誇っているハズの技術力を用いれば。
後代に伝えるべき大切な伝統よりもカネと土建政治を優先しておきながら、世界に抗って地球の裏側の野生動物を飽食の国が屠ることだけは、ブンカの名のもとに正当化しようとする。浅井の小学校の環境教育を取り上げた番組でも触れましたが、日本という国は本当に、物事の優先順位を引っ繰り返す国なのだなあとつくづく思います...
参考リンク:
■本物の伝統ばかり消えていく・・
http://kkneko.sblo.jp/article/13064029.html?1339086589
◇贋物の伝統は美化される・・・
■南氷洋に行った最後の鯨取り|生きる×2 (4/3深夜、BS朝日ニュースター)
http://www.minkyo.or.jp/01/2004/11/007878_1.html
2004年放映の東北の地方放送局による、鮎川の沿岸捕鯨を撮ったドキュメンタリーの再放送。
捕鯨砲手の日々を淡々と追っただけのドキュメンタリーですし、捕鯨を生業にしてきた個人の方を非難するつもりはありません。「肉は鯨しか食わない」と言っといて台所で鶏を料理してたとか、細かいツッコミどころはあったけれど、まあそれはどうでもよろしいニャ〜。。
鯨捕りにもいろいろあって、過去の乱獲の事実を直視できる人も少なくはありません。一方で、まったく直視できない人も、残念ながら少なからずいるようです・・。
その産業に従事していた方々が、アイデンティティの喪失感を覚える気持ちはわかります。環境の変化に対して保守的な反応を示すのは、そもそもニンゲンという動物の属性なのですから、仕方のないことでしょう。
けれど、共産国でも非民主的な独裁国家でもない(ハズの)日本で、生計を立てる道がいくつもあり(権力者に生活どころか命まで無理やり取り上げられるということもなく)、既にクジラの漁期外に漁業で収入を賄い、家族と過ごす時間も増えたのだし、見る人から見ればむしろとても幸せなのではないか、とは思います。
捕鯨産業は国家と企業が推進して初めて成り立つもの。個人の伝統芸ではありません。「途絶したって復活させるのに技術的問題はない」とは、とある日本の大御所鯨類学者の弁。近代捕鯨はそもそもそうやって始まったのだから、当たり前の話ですが。
もう一点。捕鯨砲の射出場面を見ていて改めて覚えたのは、激しい"恐怖感"でした。慣れた人に理解してもらえるとは決して思いませんが。
家一つ、車一つ、船一つ、木っ端微塵に破壊できる、下手すれば何人ものニンゲンを一撃で葬り去れる、それだけの強大な破壊力を備えた、そのまま軍事兵器として転用できる代物。なんてったって、"砲"なんだもの。
ニンゲンというひ弱な草原のサルは、そんなあまりにもご大層な代物を持ち出さないと、大海を泳ぐ自分の体重の何百倍もある野生動物を屠ることなどまったく不可能なのです。その時点で、ヒトとクジラという動物の関係は、自然な捕食−被食関係とは決して相容れないのです。
これはあくまで個人的な意見ですが、古式捕鯨時代の日本の鯨捕りやインドネシアのラマレラのように、裸一貫手銛一本で立ち向かうのであれば、筆者は捕鯨を認めてもいいと思っています。それなら、まだしもフェアというものですから。