2015年02月03日

命の線引き

この日は朝から、なじみの場所へ、子供たちと一緒に、鳥たちを見に行っていました。
いつも絶妙のタイミングで姿を見せてくれるサービス精神旺盛な子や、滅多に訪れることのない珍客の登場に、心躍らせながら、充実した時を過ごしました。
姿と声、滑らかな動きで魅了してくれた鳥たちに、「写真たくさん撮れたよ」とはにかみながらカメラを見せてくれた子供たちに、同じ現実の世界で起こっている数々の血生臭い出来事を、忘れさせてもらいました。
ほんの一時だけ。

出かける前にニュースをチェックしなかったのは、不安があったから・・ではなく、最近能力に疑問符が付くことが多いといっても、天下御免の日本政府が人質1人を殺されたうえに、二人目まで見殺しにするほどの大失態を犯すはずはないと、信じていた部分があったからです。
国民がこの国の舵取りを委ねた、最も優秀なはずの人たちが、そこまで無能なはずはありませんから。
結果、見事に裏切られました。
日本政府が無能だったから、愚鈍だったから──だとすれば、当然その責任を負わせるべきでしょう──ではなく、《人の命は二の次》という価値観のもとで事態の処理に当たっていたからです。

人(ヒト、ないし、命という意味では等価の身近な存在)の死は、それが唐突に報された訃報であっても、人の心を著しくかき乱します。
ましてや、事件や事故に巻き込まれ、瀬戸際に立たされた人の命が、「助かってほしい」という祈りの声もむなしく、断たれてしまったとき、人は打ちのめされ、どん底に突き落とされ、多量のエネルギーを奪われます。
赤の他人だとしても。近しい人であればなおのこと。
それでも前を向いて生きていこうと、人は懸命にあがきます。
しかし、喪い、奪われたことの悲しみ、圧倒的な喪失感を埋め合わせるには、それを上回るだけの、圧倒的に大きく、強い心の支えが必要です。
残念ながら、今の社会では、喪った人たちに対する十分なサポートを提供する仕組みは出来ていません。世界中のどこでも。
十分な支えのない人に、「自分で立ち直れ」と強要したところで、意味はありません。できないものはできないのです。
そこで、人は、ぽっかり明いた心の穴を埋めるものが他に何かないか、探し求めます。前を向いて生きていくことをやめた人以外は。
そして、この21世紀にあっても、心の支えの代替品として最も普及しているのが、怒りであり、憎しみであり、復讐心に他なりません。
ISISはまさに、世界の警察を気取る大国とそのパートナーが引き起こした大義なき戦争≠ノよって、罪のない家族を奪われた大勢の人たちの怨嗟が具現化したバケモノです。
しかし、そこにいるのは間違いなくニンゲンです。私たちと変わりない。

後藤氏の遺族は、後藤氏自身の生き様に則り、憎しみに走るのではない、もう一つの道をはっきりと提示されました。
救出を願った世界中の多くの市民も、悲しみをともにしつつも、その願いを共有しているはずでしょう。
テロリストと同じ論理に乗っかり、大義≠命に優先することを、潔しとする人はしないでしょう。
「目には目を!」とばかり報復を誓ったり、憎悪の火を焚きつける人はいないでしょう。
それこそは、故人の遺志に反し、「テロリズムに屈すること」だからです。

逆にもし、人々の無力感・虚脱感を別の方向へと誘導し、戦争への扉をまた一つ押し開こうとする者がいるとすれば、テロに屈しないどころか、テロ組織をも利用するテロリスト以上のバケモノに違いありません。
バケモノであっても中身はしょせんヒトであり、そこまでエゴを肥大化させてしまった何らかの要因があるはずですが・・

最悪の結末を迎えてしまった以上、辛くはあっても、検証しなければなりません。
なぜ2人の命が失われてしまったのか。

安倍首相も菅官房長官も、二人の人質が殺害される前後で変わりなく、記者会見や国会答弁で一貫して使用し続けてきた言葉があります。

「リスクを恐れず」

彼らの言うリスク≠ニは何でしょうか?
彼らは決して具体的に述べようとはしませんが、文脈から考えれば、次のとおりにしか受け取れません。

   リスク = 湯川氏、後藤氏の命

すなわち、

   リスク = 国民1人や2人の命

語弊があるとおっしゃる? じゃあ、少し言い換えましょうか・・

   リスク = (自己責任のある)国民1人や2人の命

付け加えるなら、リスクという用語は将来生起し得る可能性≠フ文脈で使われますが、今回のそれは「時間内に要求に応じなければ殺害する」という大変シビアなものでした。
そして、人質の1人湯川氏は、要求に従わなかったペナルティとして殺害を実行するというテロリストの意思を明示する形で、実際に殺害されました。
つまり、特に後藤氏の場合は、日本側が引き延ばしのための交渉のテーブルにさえ着かなかったのであれば、ほぼ100%回避不能なリスクだったということです。
リスクという言葉を使うこと自体過ちといえるほど。
安倍首相らの言葉が意味するのは、ほぼ確定的に失われることになる国民もとい(自己責任のある)国民の尊い人命より、もっともっともーーーっと優先すべきことが国にはあるんだ──ということです。
国民もとい(自己責任のある)国民の1人2人の命が失われるというリスクを捨てて、択るべきベネフィット、実≠ェあるのだ──というのが、日本政府の立場というわけです。
その、二人の命を救わず、見捨てることによって得られるベネフィットとは、一体何なのでしょうか?

「人道支援」

日本はこれまで、中東をはじめ世界各国に人道支援を行ってきた実績があります。
軍事介入と一線を画す人道支援に徹してきたこと(NGOの果たしてきた役割も含め)こそ、過去に海外の日本人がこうした人質のターゲットとならずに済んできた大きな理由であることは、各所で指摘されているとおり。

−イスラム国による日本人人質事件 今私たちができること、考えるべきこと
http://bylines.news.yahoo.co.jp/itokazuko/20150131-00042568/

3人の人質を無事解放できた事件と、それがかなわなかった事件。
何がその差を決定付けたのでしょうか。
2つの事例を対比し、検証することで、「命を損ねない外交のノウハウ」を確立することは十分可能なはずです。
霞ヶ関の賢い賢いエリート外務官僚さんであればなおさら。

さらに、ISISと交渉で人質解放に成功しているフランスやスペインなどの国は、「(国民の命が失われる)リスクを恐れて人道支援をしない」国なのでしょうか?
難民受け入れの実績で日本の200倍以上あるフランスも、日本に比べりゃ人道を追及していないと恥じ入らなければならないのでしょうか?(下掲)

−難民認定者数6人 過去最低水準 〜1997年以来の一桁認定〜
http://www.refugee.or.jp/jar/release/2014/03/20-2000.shtml
−<解説> 問題の根源・日本の難民制度・難民政策
http://www.kt.rim.or.jp/~pinktri/afghan/japanrefugee.html

人道支援にはさまざまな形があります。
NGOや国連機関を通じた支援も、立派な人道支援に他なりません。
もちろん、日本には日本に向いた、日本のやり方もあるでしょう。
「安倍政権の人道支援」は、過去の日本の人道支援や、人質返還交渉に成功している他国による人道支援より、はるかに優れたもので、それ故に「(自己責任のある)国民の1人2人の命を犠牲にするだけの価値がある」というのでしょうか?
ひとつ、はっきりしているのは、テロリストを刺激しない、国民の人命が損なわれない人道支援のあり方を模索することなく、「国民1人2人の人命より優先されるべき人道支援≠ェあるのだ」という考えを、安倍政権が国民にはっきりと提示したということです。
では、その1人、2人の国民の命を顧みなくていい、安倍政権ならではの人道支援とは、どのようなものだったのでしょうか?
ちょっと過去の日本による人道支援≠フ事例を引っ張り出してみましょう。

−スーダン・ダルフール地域における人道支援に対する緊急無償資金協力について|外務省
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/18/rls_0622i.html
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/kaiken/gaisho/g_0606.html
−小泉総理によるアフリカ政策演説 アフリカ − 自助努力の発生地へ(仮訳)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/18/ekoi_0501.html

平和の定着について日本は、その過程において人間の安全保障が重要概念であることを強調してきており、この観点から、2月にここアディスアベバで発表したイニシアティブに加えて、ダルフールで続く深刻な人道状況へのAUの取り組みを引き続き支援していきます。アブジャで行われていた和平交渉の最終期限が48時間延長されました。全ての関係者が和平合意締結に向けて最大限の努力を払うことを期待しています。また、小型武器対策やテロ対策でも、アフリカ自身の取り組みを後押ししていく考えです。(引用)

ちょうど第一次安倍内閣前の小泉内閣時代の話(外相は麻生氏)。
金額は1億ドル(当時)。民族対立が発端となり「世界最悪の紛争危機」と謳われた同国の内戦では、ISISを彷彿とさせる深刻な人権侵害が報告されていたわけです。ついでにいえば、米対中ロの対立構造も持ち込まれていました。
しかし、外務省の説明も、「スーダンのダルフール地域における人道状況の改善のため」とあるのみ。
引用したのは、小泉元首相の2005年5月アフリカ訪問時のスピーチ。どうせ官僚が書いたんでしょうけど、「(中国が肩入れしている)政府系民兵組織と戦う周辺地域に1億ドル」なんて、勇ましい挑発の表現はもちろんありません。
官僚が用意した原稿に自分で余計な文言を付け加えないだけ、元首相はまだ賢かったといえそうですね・・

日本政府による人道支援が、「余計な一言」など一切加えることなく可能なのは、誰の目にも明らかです。

−安倍首相の中東訪問 ばら撒き850億円超の中身
http://hunter-investigate.jp/news/2015/01/28-abe.html

人道支援というと、私たち庶民はつい、NGOを通じた医療、福祉、教育分野を中心とする草の根の援助をイメージしがちです。
しかし、全体で25億ドルの規模に上る中東地域への今回の支援策の中で、ISISがかみついたのは2億ドル。
その名目は、私たち国民が思い描く人道支援≠ニはややニュアンスが異なっています。

「日本のISIL対策でのエジプトの国境管理能力強化のための50万ドルを含む、総額2億ドル規模の新規支援」

装備等を含むエジプトの軍・警察組織による監視体制の強化への支援という意味で受け止められるのは、ごく自然なことでしょう。これでは、純粋な人道目的なのか、軍事的要素が含まれているのか、私たち日本国民の目で見てさえ区別がつきません。

加えて、サウジ紙でも取り上げられたという、ゼネコン、銀行、商社、軍事関連企業のトップの面々を引き連れてのイスラエルに対するトップセールス

これが、日本企業の中東地域駐在員がテロ対象になることを避けるのに貢献してきた、これまでの日本の人道支援との、あるいは、人質をうまく取り戻した他の援助国との違い──安倍政権が謳う《(自己責任のある)国民1人、2人の命より重い人道支援》の中身ということになります。

複数の人質がいる非常にセンシティブな状況にあることを把握していたのであれば、「さまざまな状況を勘案したうえで」、あえて援助を実施するに当たって付ける必要がまったくない、「ISIL対策」という文言を省いたうえで、イラクで発生している難民救済とのみ謳うことは、十分可能だったはずです。
イスラエルに売り込みに行くのは、人質問題が解決してからでも遅くはなかったはずです。

それでは、これまでの、あるいはよその不十分な人道支援と同じで、安倍カラーが打ち出せない?
威勢のいい文句をぶち上げるのは、国民1人、2人の命より大事なことなのでしょうか?
ODA大綱を改定して軍事/非軍事の境界線を曖昧にし、軍事転用へのハードルも下げたうえで、イスラエルとのビジネスを急いで取り付けることが、国民1人、2人の命より優先すべきことだったのでしょうか?

そして、同じく安倍首相や菅官房長官がこの間連発していたのが「テロに屈しない」という言葉。政府を代表する立場のみならず、NHK、産経から朝日に至るまで、マスコミの論調もほぼ同じでしたが。

はたして、「テロに屈しない」とは、どういう意味でしょうか?
身代金や人質交換等の要求に単に応じないばかりか、交渉さえまともに行う努力を払わない形で、人質を殺させるという最悪の結果をもたらすことが、「テロに屈しない」ことを意味するのでしょうか?
人質解放に成功したフランスやスペイン、トルコなどの国はすでにテロに屈しており、一方、英米等人質を殺された国はテロに屈しておらず、日本はこれまでテロに屈していた国だったが、安倍政権のおかげで今回ようやく「テロに屈しない」国の仲間入りを果たせた、ということでしょうか?

今回、人質を見殺しにする形となった日本政府の対応によって、もたらされた重大な帰結は明らかです。
ISISは、「お前の国民はどこにいたとしても、殺されることになる。日本にとっての悪夢を始めよう」と宣言しました。もはや日本国民であるというだけで、私たちはテロリストから標的とみなされるようになってしまったのです。
すでに、国民の預かり知らないところで、日本は勝手にISISと戦う有志連合の一員に加えられてしまっています。


日本は軍事行動には参加していないが、米国務省のサイトに出ている対イスラム国「有志連合国」のリストに載っている(引用)

もっとも、安倍首相は今日(2日)の国会答弁で、今のところ°爆に参加せず、後方支援もしないと明言しています。
軍事行動に参加したわけでも、これから参加するわけでもないのに、空爆をしている有志と同列扱いされてしまったのです。
長年人道支援に徹することで、中東の人々に一定の理解を得ることに成功し(ビジネスが目的の面もあったとはいえ)、軍事援助が疑われる援助を自らに厳しく戒めてきた日本が、なぜ?

今回の中東訪問で安倍首相が虚栄を張ったから──という以外に考えられないでしょう。

もちろん、外務省は「米国に寄り添うことが日本にとって最大の国益になる」との信条のもと、イスラエルを支援する米国の立場に合わせるよう、少しずつ日本の外交方針を調整してきました。それは、沖縄からTPPまで、一連の対米交渉の経緯を見ても明らか。
しかし、用意周到な外務官僚が、今回のように情勢への配慮も抜きに、いきなり一気に3段も5段も階段を駆け上るような真似するでしょうか?

−安倍首相中東訪問 外務省は時期悪いと指摘も首相の反応は逆
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150126-00000007-pseven-soci

「総理は『フランスのテロ事件でイスラム国がクローズアップされている時に、ちょうど中東に行けるのだからオレはツイている』とうれしそうに語っていた。『世界が安倍を頼りにしているということじゃないか』ともいっていた」(引用)

脱官僚・霞ヶ関改革を掲げた民主党・鳩山政権のときは、内閣の首長として絶大な権力をふるう総理大臣を言葉巧みに説き伏せ、誘導し、あきらめさせるべく辣腕を振るったであろう官僚のトップたちといえど、居丈高なウルトラナショナリストの言いなりになり、手綱なり鈴を付けたがる者ももはや誰もいなくなった──というのが今の官邸の実情なのでしょう。

安倍首相と、彼におもねるマスコミや大企業の幹部たちにとって、「テロに屈しない」とは、いかなる手段を講じてでもテロを起こさせない、あらゆる抑制策を講じる、という意味ではありませんでした。
テロは予告どおり決行され、かけがえのない2人の命が失われました。日本政府は実質、指をくわえて眺める以上の働きをしなかったも同然でした。
現実的な合理主義者の観点から見ても、海外在住邦人、現地日本法人はもちろんのこと、すべての国民がテロに巻き込まれるリスクが突然跳ね上がったのです。
結果としては、米国と一蓮托生で軍事作戦に参加するといった、大きな政策転換が図られたわけではないにもかかわらず。
身代金を払うことで味をしめて邦人誘拐が繰り返される可能性については議論もありますが、誘拐から殺害、破壊の対象に切り替わることをプラスだと考える人間はいないでしょう。

−平成26年5月15日 安倍内閣総理大臣記者会見
http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2014/0515kaiken.html

  昨年11月、カンボジアの平和のため活動中に命を落とした中田厚仁さん、そして高田晴行警視の慰霊碑に手を合わせました。あの悲しい出来事から20年余りがたち、現在、アジアで、アフリカで、たくさんの若者たちがボランティアなどの形で地域の平和や発展のために活動をしています。この若者のように医療活動に従事をしている人たちもいますし、近くで協力してPKO活動をしている国連のPKO要員もいると思います。しかし、彼らが突然武装集団に襲われたとしても、この地域やこの国において活動している日本の自衛隊は彼らを救うことができません。一緒に平和構築のために汗を流している、自衛隊とともに汗を流している他国の部隊から救助してもらいたいと連絡を受けても、日本の自衛隊は彼らを見捨てるしかないのです。これが現実なのです。
  皆さんが、あるいは皆さんのお子さんやお孫さんたちがその場所にいるかもしれない。その命を守るべき責任を負っている私や日本政府は、本当に何もできないということでいいのでしょうか。内閣総理大臣である私は、いかなる事態にあっても、国民の命を守る責任があるはずです。そして、人々の幸せを願ってつくられた日本国憲法が、こうした事態にあって国民の命を守る責任を放棄せよと言っているとは私にはどうしても考えられません。(引用、強調筆者)

紛争地の現実を伝えるジャーナリストの仕事も、地域の平和のために立派に貢献する活動のはず。オバマ米大統領をはじめ、世界中からメッセージが寄せられたとおり。安倍首相にはそうした認識がないのでしょうか?
それとも、想定しなかった事態、ということでしょうか? 自分の声明がどのような結果を招くか、想像も出来ない人物なら、仕方ないことかもしれませんが・・。
2人を救えなかったのは、「集団的自衛権の名の下に、自衛隊を米軍とは独自に動かすことができなかったから」なのでしょうか? それが唯一の理由なのでしょうか?
自衛隊による作戦行動以外の解決法は、何一つ存在しなかったのでしょうか?

有志連合を束ねる米国と英国も、軍事作戦によるISISからの人質の奪還には成功していません。
過去に軍事的手法でそれに成功した事例といえば、1976年のイスラエル軍によるウガンダのエンテベ空港奇襲作戦くらい。40年近くも前の話で、それもイスラエル軍が空港の図面を持っていたなど特殊な条件が重なってのことで、突入部隊からも人質からも犠牲者が出ています。
旧フセイン政権の残党からなる軍事プロ集団から、今の自衛隊が隊員も人質も無傷なまま救出を敢行できるなどと考えているとすれば、「平和ボケ」「脳内お花畑」の謗りは免れないでしょう。
一方で、武力に頼らず人質解放に成功した事例はちゃんとあるのです。
過去の日本も含め、「『テロに屈しないぞ!』と表明することで保たれる国家の面子」よりも、人の命を優先する国では。

繰り返しになりますが、安倍政権は先例に倣って人質を救出する手段を模索しようとはしませんでした。
ただ、「自衛隊の海外派遣を認めさえすれば、人質は救われたんだ」とこじつけるばかりで。
人質を救出できないばかりか、犠牲者をさらに増やすだけの結果になる可能性の方がはるかに高いにもかかわらず。
「くだらないこと」にこだわるのをやめさえすれば、確実に助ける手立てはあったはずなのに。

国民の命を守る責任を負っているはずの安倍首相は、子供がその場所にいてまさに死の瀬戸際に立たされた母親の面会に応じることを拒みました。
エグザイルやモモクロに会って記念写真を撮る労は厭わなくても。
人権侵害という意味では等価のはずの北朝鮮拉致被害関係者への対応に比べても、その冷淡さには驚愕を覚える他ありません。

必要もない飾り文句を付け、拳を振り上げずにはいられない、よその国で起きた悲劇に対しても「ツイてる」とほくそ笑むことしかできない、尊い命が失われてさえ故人の遺志を無視して「許さない」「償わせてやる」と吠えることしかしない、国の舵取りを任せるに最も相応しくない人物を首相の座に就けてしまったのは、この国にとって最大の不幸ではないのでしょうか?

−−−

私たちは命のどこに線を引くべきでしょうか?
それは、捕鯨を中心に環境と動物の問題に関わり続けてきた身として、筆者にとっては避けて通れない命題でした。
それは、同じひとつの命でありながら、今の私たちの社会において、等しく扱われているとは決して言えない、ヒトの命の取扱に関しても同じです。
答えを押し付けるつもりはありません。
ただ、思うに、誰もがいま、自分の立ち位置を改めて確認する必要があるのではないでしょうか?

以下は、《命の線引き》の可視化の試みです。
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安倍首相が大義=i人道支援の表明に際してわざわざ挑発の文句を入れたり、イスラエルと商談すること)を優先することで示した基準は、以下のとおり。

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違うとおっしゃる? じゃあ、「リスク」とは、「テロに屈しない」とはどういうことなのか、国民にもっと具体的にわかりやすく説明してくださいよ、総理大臣殿。
いずれにしろ、日本が今回仲間入りを果たしたと世界中から見られている、英米等「テロに屈しない」と勇ましく吠える国々にとっては、赤と青を分ける命のラインは明瞭です。
国内でも、ネットでの反応を見る限りでは、同じ命に対する赤と青のダブスタをすんなり受け入れている人が相当数いるものと理解していいでしょう。
責任を感じ、幼子と妻を置いて、知人を助けられるわずかなチャンスに賭けようとした人に向かって、自決を迫るイカレた人たちと同調するネトウヨ層の存在が示すとおり。
自己責任論を突き詰めれば、きっと冬山に無理に挑んで吹雪に見舞われた登山者のためにヘリを飛ばしたり、台風の日に海に出た向こう見ずなサーファーを助けに船を出すのも、「税金がバカバカしいからやめろ」という話になっていくのでしょうね。
健康管理を怠った末の成人病も、保険制度に頼るなと。(むしろこっちは考え直すべきだという気もするけど・・)
今回自己責任だからという理由で2人を見捨てることをよしとする、平等なはずのヒトの命に対する二重基準と、どこが違うのか、正直筆者には理解できません・・
「より生かすほうへ」ではなく、「より殺すほうへ」と向かう社会。

一方、「大義」なんかより人質解放を優先する国は、こちらに近いでしょう。
英米でも日本でも、「人の命は人の命。自己責任≠ゥどうかなんて、そんなつまらないことで両者の間に線を引き、見殺しにするなんてありえない」と考える市民も、少なからずいるはずですが。

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「テロに屈しない」国々による命の線引きは、彼らの空爆の巻き添えとなって命を奪われる罪のない住民をも、青い側に……「大義」の前では顧みるに値しないもの≠ニして扱われます。
そもそも、米国が仕掛けた大義なき戦争による空爆が、家族を奪われた人々のやり場のない怒り・憎しみを呼び、テロ組織をここまで増長させる結果を招いたというのに──

憎悪の拡大連鎖を回避する道筋を示してくれたのは、亡くなった後藤氏でした。
近しい人々が発信していることですが、紛争地に暮らす人々の日常──笑顔も、悲しみも、苦しみも、ありのままを伝えることがジャーナリストの使命だと考え、それが彼自身の活動につながっていたことが、著作や講演からも読み取れます。
醜悪さも、高潔さも、正負両方の側面を抱えたのが、ありのままのニンゲン。
そのうちの一方を切り取り、憎悪の連鎖をもたらした米国とそれを支持した日本の責任に一切触れることなく、検証することなく、間違いなくニンゲンから成るはずのテロ組織の非人間性ばかりに焦点を当て、「殺し返す」ことを正当化するのは、はたして彼の遺志を継ぐことだといえるのでしょうか?
かけがえのない人の死が、21世紀の大政翼賛会に利用されないよう、命の重み、そこに線を引くことの是非を、私たちは絶えず問い直し続ける必要があるのではないでしょうか──?

参考リンク:
−後藤健二さん「憎むは人の業にあらず...」 紛争地の人々に寄り添い続けた日々
http://www.huffingtonpost.jp/2015/01/31/goto-kenji-the-journalist_n_6587580.html
−日本人人質事件を引き起こしただけでなく救出に失敗した責任を取り安倍首相は辞任すべきだ
http://blogos.com/article/104753/
−日本人拘束 安倍首相のバラマキ中東歴訪が招いた最悪事態
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/156580

posted by カメクジラネコ at 04:22| Comment(2) | TrackBack(0) | クジラ以外